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帰ってきたスーパーマリオブラザーズの映画に込められた「世界の肯定」の精神

🍄はじめに

2023年5月、日本が誇るゲーム産業のお祭りとしてスーパーマリオの映画「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」を見てきたので、つらつらと感想を述べてみる。

具体的なネタバレは控えているが、スーパーマリオのお約束的なものを踏まえてのコラムとなっているので、「展開が読み取れるだけでショックだー見る気なくすー」といっためちゃんこデリケートな方は映画をめいっぱい見てから読んでね。

🍄本作にマリオの「答え」を求めても、何も見つけられない

あちこちで良かった悪かったの話題がもちきりのようなのだが、マリオを題材にした映画で賛否が分かれるのは最高の結果だと感じている。

令和の映画はシン・エヴァも含め、「大人の答え合わせ」という側面が強い。90年代~00年代にマンガ、アニメ、映画の業界で一斉を風靡してきた映画監督や原作者がファン達の疑問や迷いを払拭し「卒業」させることがテーマになりがちだ。
それはそうだろう。作り手として「未完の傑作」なんていう言い方をもし死後にされたら、せっかく伝えたかったメッセージが伝わらず無念で仕方ない。その作品群と一緒に育ってきたリスナー達も、「完結するまでは死ねない!」と強い気持ちで新作を心待ちにしている。

スーパーマリオと長年連れ添ってきたファン達は、もういい歳でヒゲと赤い帽子が似合うおじさまになっている。あれの結末はどうなるんだ、あの人が描いてくれないとどうなる、と気がはやる年頃だ。マリオシリーズの数々の作品群をどうまとめてくれるのか、長年の謎や因縁に終止符を打ってくれるのか、今回の映画にはさぞ「答え合わせ」に期待を寄せたかと思う。しかし、ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーはそれには答えなかった。ある意味で、ファンの期待を裏切ったと言える。

あくまで持論ではあるが、オチの付け方について語らせてもらうと、「大人の答え合わせ」として映画ひいてはそれに準じたゲームを作るとき、最もやってはいけないことはカルチャー、文化の否定だ。
「衝撃のラスト!」なんていう帯でその作品世界自体を偽物としたり、シリアスをうたって映画やゲーム、絵本といったメタな媒体部分を批判したり、夢を感じさせる語り口で盛り上げておいて自ら畳んだりなんかすると、ファンからは憤慨と言うか冷笑を買う。どれくらいやっちゃいけないかというと夢オチと同じである。

これまでも数々の作品で賛否を生みながら、次のような「文化を否定するオチ」は散見されてきた。

  • 早く現実に戻ってくださいね、労働して金を稼ぐのが大人ですよ
    (空想、創作文化そのものの否定)

  • 実はあなたは作り物なんですよ、残念でしたねこれからも頑張ってください
    (演劇、参加型ロールプレイ文化そのものの否定)

  • とてもいい話でしょう?まあ嘘なんですけどね
    (語り部、落語、詩人文化そのものの否定)

観客を出し抜いて騙してショックを与える、というその一点で映画監督や脚本家がその欲を形にしてしまうオチは多い。しかし前述した通り、それはファンからすれば文化の否定にしかならない。
それをやられて何にショックを受けるのかというと、「まさかお前がそんなこと言うなんて」という失望とか軽蔑のショックであることを監督たちは気づかない。
それを「衝撃のラスト」とうたって載せるメディアも信用を失くす。それに業界人はあろうことか気づかない。
信頼できない語り手」のような高尚なテクニックを用いない限り、文化の否定は基本的には悪手なのだ。

しかし、今回のマリオ映画は「大人の答え合わせ」なんぞ口笛吹いて知らん顔、ファンが気になるアレやコレなんてまったくどうでもいいという、ひょうきんな顔で迎えてくれた傑作だった。
何が素晴らしかったのかというと、「童心に帰ってこの世界を楽しんでください」を現実・ファンタジー双方の視点で語っていることにある。

ストーリーテリング、および子供が喜ぶエンターテイメントについてよく理解している任天堂とイルミネーションは、必ずと言っていいほど
「あなたはこの世界のことをご存じないのですか!?まさか!それは信じられない!さあ、私がご案内しましょうまずこれはハテナブロックです」という食い気味なスタンスで物語を続ける。

彼ら、劇中の人物や任天堂にとってその世界や文化があることは”当然”であり、知らないほうがおかしいのだ。それはある種、現実世界の否定に見えるかもしれない。だが、我々は果たしてどれくらいこの現実世界のことを知っているというのか?
「現実にピカチュウなんていないよ」と今でも訳知り顔で子供たちに語れるか?「サンタクロースなんていない」と今でも本当に思っているのか?

私は答えられる。
「そんな、あなたはピカチュウをご存じないなんて!?信じられない!」

🍄家族や恋人に「世界は広い」と言ってみて

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーでは劇中で登場人物が「世界は広いのね」と夜空に想いを馳せながらつぶやくシーンがある。

閉じこもった世界に生きる世間知らずの人間のつぶやきに見せているこの何の変哲もないセリフは、「あなたがたにも私達のように世界というものがあるんでしょう?」という多次元宇宙サブカルチャーの肯定を暗に示しており、異国や異文化、想像もつかない空間の存在を認めている。
それはまるでオカルト的とも言えるが、実のところ一生かけても目にすることができなさそうな風景や光景、歴史はすべてオカルトの類だ。とどのつまりアトランティスと黄泉の国とD&Dとキノコ王国は同列なのである。

一部の日本人においてはライフルと戦車でドンパチやっている光景は一生かけても目にすることができないオカルトでしかなく、それを「現実だぞオラァ!」と突きつけてくるハタ迷惑な人間がいるならば、同時にアトランティスやキノコ王国やD&Dの世界はその理論によって現実として肯定されなければならない。
他の世界を自身の世界論で侵略してくるインベーダーは、ピカチュウに突然攻め込まれ10まんボルトでやっつけられてしまう可能性を現実として受け入れなければならない。
それがない限りは「存在するかもしれないけど観測できない世界」はスピリチュアルでありイマジナリーでありサブカルであり多次元宇宙マルチヴァースであり平行世界マイナス1面でありオカルトなのである。

それを海より広い懐で包み込みやんわりと肯定したうえで「この世界のことも見てね」という登場人物と任天堂の感情こそが「世界は広いのね」に集約されているのだ。

🍄クッパ様は「否定する大人」のメタファー

他人の世界を許容しないという狭量な考え方は、利益の独占を企む「大人」が広めてきた概念だ。そういった意味では、クッパ様は私利私欲のために我が身の事情を振りかざして他人の世界を拒絶する「大人」のメタファーと言えよう。

その「他人の世界を否定するワガママな大人のメタファー」について「そんなことは許さないぞ」という正義感で立ち向かうアツい構図はバイキンマンとアンパンマンに強く見られるが、ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーにおいてはそんな説教臭いことは全く言わない。
ヒーローたちはそれぞれ「家族を救いたい」とか「家や領土(テリトリー)を守りたい」とか至極個人的で小さな欲求に基づいてクッパ様に立ち向かう。まるで「大人の事情なんてどうでもええわい!」と蹴り飛ばす子供たちのように。それが生み出すものは、勧善懲悪のステキな英雄譚などではなく正面切っての見事な泥仕合になる。だが、エンターテイメントを生業とする任天堂はそれをただの泥仕合では終わらせない。

ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーの素晴らしいところは、クッパ軍団を「大人の味方」、マリオ達を「子供の味方」として見せている点である。
権利や資源や暴力を以て他人の世界や文化を否定する狭量な「大人」のメタファーは、「あんなのはマリオの正史では、ナイ!」と声を荒げる否定的なファン達の味方と言えよう。
「ワガハイのスバラシイ解釈とシナリオを受け入れろ!わからぬならわからせてヤル!」と言わんばかりの暴徒達は、劇中に脅威をもたらしたクッパ様そのものだ。

対してマリオ達は「僕たちの世界を好き放題壊すな!出ていけ!」「そんなことより家族を返せ!ぶっ飛ばしてやる!」と正義感もクソもない、大人よりも乱暴な理由で徹底抗戦する子供たちの味方だ。クッパ様にことごとく返り討ちにされ、まるで勝ち目のない大人と子供の権力闘争が展開される。
ハラハラドキドキのクライマックスの中、世界が突然子供たちの味方をし、最後には「ごめんねそういう世界なの(笑)」で子供が大人をぶっ飛ばして「子供の事情」で勝利する。

自分の世界や家族を守りたかったヒーローたちが勝利し、暴力や権利で他人の世界を剥奪しようとした狭量な大人は敗北を迎える。日本の現実ではありえないかもしれないが、あちらはそういうことが可能な世界というワケだ。なんでそんなくだらないことでケンカしてんのよ、なんて笑っちゃいそうな雰囲気で決着は付き、しまいにはあれだけ強大に感じていたクッパ様が小さく見える。大人ってちっぽけなんだなぁワハハ、って子供たちに思わせる。

エンディングを経て何も考えてない子供たちは大歓声、変にこじれてひねくれた大人たちはイマイチだなあとブーイング、その”賛否両論”こそがこの映画の評価を語るうえで最も素晴らしいのだ。
「アンチが何か言ってるぜ」と茶化すキノピオ達の輪の中で多数のクッパ様が火を吹き、その狭量さと暴力で世界を蹂躙していくその様、自分たちの住む世界や文化、大切な人を守るために毅然とした態度でマリオ達が立ち向かい、正義も信念もへったくれもなく大乱闘するその様こそが、任天堂が示したスーパーマリオの世界であり、”賛否両論”が大成功たる理由だ。世の中の善も悪も中庸も、キノコ王国がもたらした”現実”に虜にされている。

マリオの映画は完成してひと段落したが、マリオとクッパのライバル争いはさらに加速する。任天堂の世界はより未来へ続いていく。次はどのように抗争を繰り広げて我々を湧かせてくれるのか、DKラップに我々も参加できるのか、我らがピーチ姫はか弱き高嶺の花か勇ましき戦乙女か、ギャラリーはワクワクしながらその”現実”を生きることになる。そういった意味では賛否両論という評価はあくまで表面的なもので、「ファンもアンチも大絶賛」という言葉で締めるのが今回の映画にとって相応しいだろう。
否定派に過激な言動が多いならばそのうちにオーナーが出てきて沈静化しなくてはならないかもしれないが、程々のところでやられてくれると子供たちは大変喜ぶよ。

🍄現実世界を創るゲーム会社

冒頭に戻ると、ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーの素晴らしさは「童心に帰ってこの世界を楽しんでください」を現実・ファンタジー双方の視点で語っていることにある。

任天堂が常にゲームの中で示しているメッセージは、「こんな世界もありますよ」だ。スーパーマリオも、ゼルダの伝説も、メトロイドも、星のカービィも、それぞれの作品にそれぞれのテーマやキーワードは存在するが、共通して「この世界は存在する」という強い確信を個々のゲーム作品に込めている。そしてそれは私が知る限り、1983年のファミリーコンピュータ発売の頃から変わっていない。

例えばファン達が戸惑いながらも今となっては受け入れられている設定に、ゼルダの伝説の主人公「リンク」の扱いがある。リンクは登場作品ごとに生まれの設定や時代背景、登場人物との関係性が異なり、ゼルダの伝説というシリーズそれぞれでリンクという特異点を軸にパラレルワールドが形成されている。いまや「リンク」という青年と「ゼルダ」という姫が出てくるという要素だけでゼルダの伝説のストーリーは成立してしまう。場合によっては「時の勇者」と呼んで区別され、リンクという固有名による同一性すらおぼろげになる始末だ。

多くの人々が「いやハイラルの世界はひとつのはずだ…」と理解したい中、任天堂はずっと「いえこっちのリンクとあっちのリンクは別人です(リンクとすら言ってないです)」という驚愕の回答を暗に示してきた。それはつまり「あっちの世界もこっちの世界も現実です」と言っているに等しい。

何を言っているかわからない…虚構と現実の区別がつけられないのか?となる人が一定数出るのは当然のことで、他人の世界を否定することに実益のある人間にはこの考え方は理解が到底及ばない。任天堂にとってはすべての世界は肯定されるべきであり、虚構の世界は虚構を生み出す存在が肯定されるがゆえに現実だからである。任天堂が絶対言わないセリフで代弁させて頂けるならば、ゲームは現実社会の人間が作った現実の産物であって虚構の存在なわけがねーだろ何言ってんだ芸術家おもちゃ屋に金払えバカ野郎、ということだ。
任天堂は何ひとつ、自分たちの作品を嘘だとか偽物だとかオカルトだとかいう取り扱いをしたことはない。すべて現実だ。現実でぶん殴りに来ているゲーム屋だ。そこをはき違えてしまっては彼らに失礼になる。マリオやポケモンが好きならば、任天堂が持ち込んできた現実を実直に受け入れればいい。「世界は広いのね」って。

🍄「そんな世界はあってもいいよね」がもたらす星の輝き

任天堂はクリエイターが生み出す世界を肯定することにかけてはプロフェッショナルだ。任天堂作品においては原則として「世界の否定」は存在しない(※)。なぜなら、世界の否定を行うのは劇中における倒すべき敵であり、クッパでありガノンでありナイトメアウィザードであるからだ。
世界の否定は任天堂の作中における悪役の役割であって、任天堂の役割ではないのだ。

※世界がなくなる描写が含まれる作品に関してはトラウマの語り草となっている「ゼルダの伝説 夢を見る島」があるが、あれは世界の継続性の問題、言い換えれば世界の寿命の問題であって、否定や破壊によってもたらされた喪失とは原理が異なる。例えば愛する家族が老衰で亡くなるような、思い入れのある実家が経年劣化で取り壊しになるような、対象喪失の悲しみやショックに近い。「壊された」よりは「名残惜しい」と表現するのが適切だろう。あれはそういう哀愁漂う作品である。リンクの悩ましい境遇も含めて。

どういうことかといえば、「ああ!そういう悪役いてもイイよねぇ…」としみじみ頷くのが任天堂なのだ。悪役には悪役の世界がある。善人には善人の世界がある。大人には大人の、子供には子供の世界がある。ただし、悪役の勝手で善人の世界が否定されようとするならば、そのとき善人は黙っちゃいないぞ、そして善人が悪役に打ち勝つ世界はあってもイイよねぇ…と。しみじみ頷く。

常に「そんな世界はあってもいいよね」で肯定されている。それが任天堂の世界観だ。だから20代のヒゲの男がトゲの生えた亀の怪物をやっつけてしまうし、敵に宿ってしまった強大な力を知恵と勇気が打ち倒すし、愛と夢と希望が冷徹と破壊と絶望を退けるし、ポケモンと呼ばれる不思議な生き物たちが私達と一緒に現実社会で生きているのだ。

「そんな世界はあってもいいよね、でもそんな世界を否定するやつらは僕らの敵だよね、だからそんなやつらが懲らしめられる世界はあってもいいよね」これの反芻こそが任天堂のマインドそのものであり、名作が生まれ続ける理由だ。そして、シリーズ内で複数の世界が認められる理由であり「大人の答え合わせ」が必要ない理由だ。もしそこで「そんな世界はないほうがいいよね」とクッパ側の意見が勝ってしまうと、それは突然つまらない。マルチバースは収束し、他人の世界を侵略し存在を消滅させることこそが正義となってしまう。戦争や侵略で利益を増やした戦争屋たちは正義となってしまい、違法データの配布を当然の権利だとのたまう(任天堂にとっての)侵略者たちを肯定してしまう。
任天堂にとって世界の否定とは宣戦布告と同義なのだ。ゆえに、敵対しない限り世界の否定は行わない。もしうっかり敵対してしまった場合の処遇としては、大人の皆さんの知る通りだ。

任天堂はゲーム業界が盛り上がっていた1980年代から、ずっと終始揺るがなく「こんな世界があってもいいよね」を提案し「こんな世界がありますよ」を提供し続けている。ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーは、「ねえパパ、ブルックリンだって!僕たちの世界がマリオと繋がってるよ!」と大ハシャギしながら、私たちの現実世界とスーパーマリオの世界の双方から「こんな裏ワールドがあったか、知らなかったな」を眺めて楽しむのが最も楽しい楽しみ方なのだ。

クッパ城がマリオの家のお隣さんだったりしてもいいけど、それがたった一つの真実では困るのだ。サラサランドを否定するわけにもいかないし、コング達のジャングルを否定するわけにもいかないし、ワリオランドを否定するわけにもいかないのだ。もちろん、夢宇界も。

任天堂にとって、すべての世界は宝物だ。子供たちが描く、ひとつひとつの世界は宝物だ。それを奪って食べてしまう大人たちがもしいるのなら、それは任天堂のルールに基づいて、世界が子供たちの味方につき、宝物を守るために、願い星を守るために、あるいはスタードーロから光の使者がやってきて、他人の世界を奪う悪は懲らしめられるだろう。

🍄THANK YOU MARIO!🍑

マリオを知らないかもしれない子供たちを「このキノコ王国のことをご存じない!?」とハイテンションで迎え入れ、面白おかしく生きている人々を我欲のために滅ぼそうとする圧倒的に悪い大人を大魔王として見せつけ、「お前なんかに負けないぞ」と勇敢に立ち向かう非力な子供たちを世界が応援して大魔王をやっつける、そんな「マリオを知らなくてもその日のうちに理解してハシャいで楽しめる」心地よい作品を作ってくれた制作スタッフの皆さんに、この日本の誇れる文化を守ってくれている皆さんに、ここに最大の敬意を示したい。

宮本さん、任天堂のみなさん、そして山内さん。スーパーマリオを作ってくれて、本当にありがとう。私は、あなた方のファミコンに大切なことを教えてもらって、一緒に育ってきました。そして、きっとこれからも。

あなたがたは私の原点です。ありがとう。

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