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小説 『何が、彼女を殺したか』 (8)

▶︎目次

断絶の章(前編)


 19XX年、妹の真紀が殺された。
 その事件をきっかけに、私たち家族はばらばらになった。
 だから、これは断絶の物語である。
  


 「いらっしゃいませ」の声は、危うく悲鳴に変わるところだった。続く「2名様でよろしいですか」という台詞は、まるで新人バイトのようにたどたどしかった。そればかりではなく「それではお好きな席へどうぞ」──そう言い終わるなり、私はその二人組の前から逃げ出すようにして厨房へ戻った。

 三ツ池森林公園内に建つ、この「カフェレストラン・ラパン」でバイトを始めて1年ちょっと。ろくに案内もせずにお客の前から逃げるように立ち去るだなんて、社会経験のない学生バイトならともかく、三十路を過ぎた女の態度としては常識外れなものだった。けれど、それがあまりに突然の出来事だったせいで、私の体は考えるよりも先に反応してしまったのだ。こんなリアクションをしたら逆に怪しまれてしまうじゃないか──そんな思いすら浮かぶ余裕もないほどに。

 その証拠に、私の心臓は胸から飛び出してしまうんじゃないかと思うほどに暴れていて、塞がったはずの傷からは新しい血が滲み始めていた。ほんの一瞬、頭をよぎったのはあの約束のことだったけれど、そんな期待は確かめる前に忘れたほうが身のためだろう──私はすぐに思い直した。同時に皮肉な笑いを浮かべようとしたが、果たしてそれが成功しているのか、確かめることはできなかった。

 日常というものは何の前触れもなく崩壊するものだということを、そして崩壊したときのその絶望を、私はこの数年、忘れていたらしい。ありがたいことだ。幸せなことだ。だけど、その幸せをいまこの瞬間は詰(なじ)りたい気分だ。

「どうしたんだ? 顔、真っ青だぞ」

 逃げ込んだ先の厨房で、店長の伊藤が眉を顰(ひそ)めた。寸胴鍋からよそっているのは「季節野菜の欧風カリー」。ラパンの一番人気メニューだが、ほとんど客のいない今日のような平日は、10皿出れば御の字というようなものである。

「どっか具合でも悪いのか?」

 一向に減らない鍋の中身に苛立ったように尋ねる。どうやら機嫌が悪いようだ。私は精一杯の笑顔をつくって首を振った。しかしその実、暴れ続ける心臓のせいで目の前はぼやけ、胃はぎゅっと絞られたように痛かった。気のせいか、胃だけではなく、下腹部にも鈍痛があるようだ。こんなことじゃだめなのに──泣き出しそうになりながら、私はその場に座り込んだ。最近どうも情緒不安定気味だったところに、さらに不意打ちを食らったせいで、頭がどうかなりそうだ。

「ちょっと、手嶋さん。これ、6番テーブル」

 そんな私を見て、伊藤は眉を顰めたまま、もう一人のバイトを手招きした。

「あ、はい」

 無駄に大きな返事のあと、小太りの男が急ぎ足でやってくる。バイトのくせにほとんど常勤の私と同じく、週6でシフトを入れているアニメオタクの四十男だ。以前は普通の会社に勤めていたらしいが、何の事情か、こんなところでバイトをしているのだから、アニメオタクであるばかりでなく、使えない人材なのだろう。

 厨房へ入った手嶋は、うずくまった私を見て驚いたような顔をしたが、伊藤が一つ舌打ちをすると、慌てたようにカレーをトレイに乗せ、客の元へと運んでいった。

「ったく、キモすぎんだよ、アニオタはさあ……」

 伊藤はその背中に毒づいて──思い出したように私の方を振り向いた。

「由紀」

 思わずびくりとしてしまうような低い声で私の名前を呼ぶ。

 店では店長とバイトという関係ながら、実は私たちは同じアパートの部屋で同棲している恋人であり、それも私にしては珍しく、1年という長い付き合いの彼氏だった。その彼氏の機嫌が極限に悪い。まずい──私は立ち上がりかけたが、時はすでに遅いようだった。

「あのさあ」

 伊藤は仁王立ちになって私を見下ろした。

「そうやって座り込んで、何? 具合悪いアピール? そういうの店でやるの、やめてくんない? そういうのって公私混同でしょ」

 パシッと頭を叩かれる。ここが店だということは意識しているのだろう、恋人同士のじゃれ合いだと言われればそれ以上は反論できないくらいの軽い叩き方だ。これが家の中だったら、髪を掴まれて引き摺り回されても文句は言えない。普段は優しい人だが、彼はそれ以上にひどい気分屋でもあり、その怒りのスイッチはよく分からない場所にあるのだった。そして、今日は不運にもそのスイッチを押してしまったらしい。

「ご、ごめんなさい」

 込み上げる吐き気を必死に耐え、私は笑顔をつくって立ち上がった。ふらつく足に力を込める。無意識にお腹のあたりに当てた手を、今度は意識的にかばうように守る。

「ちょっと貧血気味だっただけだから」

 顔色を伺いながら言い訳をするが、どうやらこれも彼の気に入るところではなかったらしい。伊藤の目はますますつり上がった。

「貧血? そんなの、自己管理がなってないだけの言い訳だろ」
「あ、うん、でも……」
「言い訳はいいから。大体、貧血くらいでギャーギャー言うのっておかしくない? 俺が今日、朝早かったって知ってるだろ。せっかく作ったカレーもこのままじゃ廃棄だし」

 鍋に入った大量のカレーを睨みつける。機嫌の悪い理由はそれか──私は顔には出さずに納得した。彼が本部に呼び出され、食材の廃棄が多いことをどやされたと言って怒っていたのは、確か先週のことだった。ラパンは各地に店舗を展開しているが、この「三ツ池森林公園店」は、そのチェーン店の中でも売り上げが少ないことに以前から目をつけられていたというのだ。

 そんなことを言われても、隣の少し大きいばかりの公園に来る、休日の家族連れが主な客層なのだから、売り上げを伸ばせと言われても無理がある──私もそう思ったのだが、本部からすればそれも「店長の努力が足りない」せいらしく、このままでは本社での出世の道も危ういという。

 もちろん、それは彼の仕事の問題で、バイトの身分である私に当たられても仕方がないことなのだが、それでも仕事に問題を抱えていれば不機嫌になってしまうのは仕方のないことだろう。

「ごめん。雅人さんのほうが大変だってことは知ってるよ」

 家では「まあくん」と呼んでいるのだが、そんな呼び方をしたら今度は本気で殴られそうだったのでやめておいた。

「私もちょっとふらっとしただけだから、大丈夫だから。ほら、もう治ったし」

 ぎこちないながらも、もう一度笑顔を作ると、彼は嘘を見抜こうとでもいうようにじっと私の目を見つめた。それからやはり苛立ったように問い詰める。

「本当だろうな」
「もちろん」

 私はほかの地雷を踏まないように、慎重に付け足した。

「だから、全然大したことないんだって。ちゃんと朝食べなかったからお腹が空いちゃった、くらいな感じなの、本当に」
「え、お前、腹が空いてんの?」

 すると、彼の表情が一気に変わった。マイナスに振り切っていた針が、今度はプラスに振り切ったような明るい表情でカレー鍋を振り返る。

「じゃ、昼飯にこれ食っちまえよ。先に休憩とっていいから。その代わり、大盛り2人前な」

 楽しげに言いながら、うどん用のどんぶりになみなみカレーを注いでいく。お腹が空いたというのは例え話で、その上、いくら大盛りのカレーを私が食べたところで、廃棄の量はそれほど変わらないと思うのだが、いいことを思いついたと言わんばかりに嬉しそうな顔をする彼に、私も思わず顔をほころばせた。怒らせると怖い彼だが、こんなふうに無邪気で可愛い一面もある。そして、私は彼のそんなところに幾度となく救われているのだ。

「俺のおごりだからな。ちゃんと全部食えよ」

 まかないは、どのメニューも一律500円のルールだが、その分を給料から引かないでいてやるという意味だろう。

「うん、ありがとう──ございます」

 戻ってきた手嶋が心配そうにこちらを見ていることに気づいて、私は何となく語尾を正した。手嶋は、伊藤が私を殴っていることに薄々気がついているようだった。それも、それがいわゆるDVだと認識している節があった。そのアザ、どうしたの──何気なくそう聞いてくることもあったし、以前など「女性のための避難シェルター」なる団体への連絡先がバッグに入っていたこともあった。あれも私が知らないうちに手嶋が忍ばせたに違いない。

 他人のことなど放っておいてくれればいいのに、どうしてお節介を焼くのだろう──私は意識的に手嶋を避けるようになった。そうでなくとも、伊藤は嫉妬深い。二人きりで話をしているところを見られた日には、よほど酷いお仕置きが待っているに違いない。

 私は手嶋から目を逸らすと、何気ないふりを装って、騒動の元々の原因──店内に先ほどの二人組を探した。初老の男性と、同じ年頃の女性。はたから見れば、同じように年を重ねた夫婦にしか見えない二人。私の視線は彼らを捉え──その二人の選んだ席を見て、静まりかけた私の心臓は再び跳ね上がった。

 彼らはクーラの効いた店内ではなく、ガラス扉の先にあるテラス席に座っていた。八月も終わりとはいえ、まだ日差しは十分に厳しく、頭上のパラソルが作り出す程度の日陰では暑さはまったくしのげない。にも関わらずテラス席を、しかもその一番端の席を選んだのは、何か他人に聞かれたくない話でもするせいか。それとも──。

 その理由を探ろうとすると、胸の一番奥がぎゅっと痛んだ。そろそろあの日がやってくる。今年で25年目になる、あの日が。探るまでもない、だから、彼らはここを訪れたのだ。古い傷がびりびりと音を立てて裂けていくのを自覚しながら、私は思った。

 でも、それならどうして2人だけで訪れるのだろう──それが次の問いだった。どうして彼らは私を誘ってはくれなかったのか。いや、それとも私が知らないだけで、彼らはたびたび会っていたのか。去年も、一昨年も、その前からずっと内緒で会っていたのか。そして私は、今日、たまたま目撃しなければ、何も知らないままでいたということなのか。

「ほら、早く食ってこいよ」

 急かす伊藤の声で、私ははっと我に返った。そのまま急いで裏の休憩室へと向かう。足は血を失ったようにふらつくというのに、なみなみとカレーの入ったどんぶりを持つ手は強張っている。ドアの前で立ち止まり、震える右手を伸ばすと、いつもは気にも留めない、金色をしたドアノブが、この部屋に入る覚悟はあるのかと問いかけているように思えた。

 本当のことを言えば、そんな覚悟などまったくなかった。こんな機会が訪れるなんて想像したこともなかったし、彼らも私がいると知っていれば、このレストランへ立ち寄ることもなかっただろう。だから、これは私が望んだことでも、反対に望まれたことでもない。けれど、私にはその権利があるはずだ。

 心を決めると、私はノブをゆっくりと回し、ドアを開いた。むわっとした熱気がアメーバのように体にまとわりつく。一呼吸置いて小さな机の上にカレーを乗せると、私はクーラーをつけ、ロッカーから小さなポーチを取り出した。チャックの金具に揺れるお守りを握りしめる。そうしてから目を閉じて、壁の向こうへ耳を澄ました。

 もし、彼らが他人に聞かれたくない話をするのなら、あのテラス席の端を選んだのは大きな間違いだった。なぜなら、二人が座ったテラス席のすぐ脇の仕切りは、この休憩室の壁を兼ねており、ラブホテルのものよりお粗末で薄っぺらいこの壁は、どんな内緒話も筒抜けにしてしまうのだ。

 それを発見したのは、手嶋が来る前のバイト仲間だった噂好きのおばさんだった。不思議とあの席に座る客には秘密が多く、彼女はその内緒話を聞きたいがために「トイレへ行く」という名目で仕事をサボり、ささいな夫婦喧嘩や不倫カップルの会話を楽しんでいたらしい。しかし、そんなおばさんも半年前、「トイレ休憩」の多さに気づいた伊藤にクビを言い渡されてしまった。

 その盗み聞きを、今度は自分がすることになるとは──私はしばらく耳を澄ましていたが、彼らはメニューでも見ているのか、その声が聞こえてくることはなかった。私はなぜかほっと胸を撫で下ろした。このまま何も聞こえなければ、それはそれでいいような気もする──軋む音を気にしながら、パイプ椅子に腰を下ろす。すると、鏡の中の女と目が合った。休憩後、仕事へ戻る前の身だしなみチェックのために設置された大きな姿見。その奥から、その女は私を見つめ返しているのだった。

 彼女は、私が思い浮かべる「私」とはかけ離れた姿をしたおばさんだった。36歳という年相応に肌はたるみ、ほうれい線は深くなり、注意すれば目尻の皺さえ見て取れる、アラフォー女。一体、私はいつのまにそれほどの年月を生きたのだろうか? いまも私が「私」として思い浮かべるのは、あのひまわりのワンピースを着て駆け回る、無邪気な女の子の姿だというのに、鏡の中のおばさんにはその頃の面影など一つも残っていなかった。本当に一つも、そのかけらさえ残っていない。

 だから、あの人たちは私に気づかなかったのだろうか──泣き出しそうになる女を見ながら、私はそんなことを考えた。すると、気づかないなんてそんなことが許されるはずがない──女は顔を歪めて訴えた。そうかもしれない──私は女に同情するように頷き返した。親が娘を忘れるなんて、そんなことが許されるはずがない──。

 私は鏡から目を逸らすと、薄い壁をじっと睨んだ。

 親と、娘。そう、あのテラス席の二人組は紛れもない、私の両親だった。ある事件をきっかけに、いまはばらばらになってしまったけれど、それ以前まで、私たちはどこにでもいるような、幸せな家族だったのだ。

 涙の気配にまぶたを閉じると、クーラーの稼動音の向こうから、子どもたちがはしゃぐ声が聞こえた。その声はさほど遠くはない──ラパンのある三ツ池森林公園から響いてくるものだった。私はその無邪気な声に強い郷愁を覚え、唇を噛み締めた。

 このラパンなんてレストランが影も形もなかった頃、私はこの公園で遊んだことがある。いや、私たちは遊んだことがあると言ったほうが正しいだろう。いまもその長い長いローラー滑り台があることで有名なこの公園は、私たちが家族だったその昔に訪れた──うさぎの公園、と呼んでいた場所だった。


▶︎次話 断絶の章(後編)


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