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筑後川の女神と鏡作神

はじめに

「神々シリーズ」(改訂版)を出した時には、もう既に重要な進展や発見がありました。この分野にこんなに長居するとは思いませんでしたが、様々な人士の研究や進展でやっと卑弥呼やその周辺が姿を現して来ました。
「文献史学と考古学、加えて民俗学の相互の交流と協力関係が密になり、総合歴史学といった傾向を強めている」これはとある教科書の一説です。柳田國男も「民俗学と考古学の関係」について大きな期待を寄せていました。卑弥呼に迫るには新解釈や視点と言うのでは無く「新しい学問」か新発見によって道が開くのではとの期待がありましたがそんな時代の幕開けかもしれません。
「遙かなる神々」が残して行った物語を振り返ります。出自伝承や神々の行先など幾つか重要な論考を書き残していますが故郷の歴史を振り返る一助にはなることでしょう。

石堂神の発見

 今回は、「石について」の話である。後で膨らむことになります。
 たまたま日本で最初の「銅の本格生産」は、鳥栖と春日である。ということが脳裏にありフィールド探索をしていたとき鳥栖スタジアムの北近くにある「水影天神社」を見つけ、なんとなく直感が働いて訪れた。公民館があり普通の神社なのだが、周囲をみると、立派な石祠が数個あり一際大きな石祠に「石堂神」を見つけた。これが全ての始まりだった。

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筑後川と耳納山

 後に意外な展開となるのだが、この時点では、皆目不明の初めての神名である。おまけにコロナ初期の頃でもあり、公民館は閉館で聞くことも出来ず途方にくれていた。帰って資料を整理し記憶を呼び戻すうちに、櫛田神社の摂社に「石堂神社」を見つける。祭神は「吾田片隅神」と表記している。神紋は「桜」である。だが分からない。大きい神社は、祭神や摂社・末社が多く全体が分からないと夫々の神々の関係が分からないので敬遠してきた付けが回って来た格好である。

 『吾田』は耳にしたことはあったが改めて調べて見ることになった。宗像と日南市に吾田地名があるとは聞いていたが、宗像では発見出来ず、日南市で見つけた。酒谷川・広渡川、肥沃城があり中流域の少し山手に「吾田神社」がある。金山彦と大市姫の娘吾平津姫、神武の最初の妃を祀っている。五瀬命は兄である。大市姫は月読神(大山祇)の姉で、この二部族は、血縁関係で結ばれています。

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吾平津姫(アイラツ)

 さて櫛田の吾田片隅神には、桜紋が打ってあり大山祇一族の紋なので桜を辿ればいいのだが、実は困難を極める。それぞれの別名である吾田神名を神社・伝承から付け加えていくと「大国主」であることが分かる。神大市姫と大国主が最後まで残ったのだが、石尾神社(徳島県美馬市穴吹町古宮)で、「主祭神は須佐之男命 大山祇命 水波女命の、祈雨の神をお祀りしています。「石堂はん」と呼ばれ、祈雨の神として知られています。」とあり鵜川神社 里宮(式内社越後國三嶋郡)の黒姫神社が伝えていました。
 つまり石堂(石動)はんは祭神を見れば姉弟である事が分かります。祭神は、罔象女命 黒姫神 合祀、伊弉册尊 速玉雄命 事解男命 倉稻魂命、石動彦命(伊須流岐比古神) 石動姫命 天目一箇命 建御名方命 埴山姫命(※神紋は特にない。普通は梶紋)

●石動神社(新潟市北区白新町)祭神 大己貴
●石動神社は、青梅市勝沼 祭神 大己貴命、少彦名命...
〇和爾坐赤阪比古神社(天理市) 阿田賀田須命、市杵島比売命
〇大都加神社(福津市) 大国主命 田心姫命 阿田賀多命
 を見れば、「石堂神」は大国主としてもいいでしょう。

鏡作神とは誰か

 以上の石堂神は、伏線で本稿の目的は『鏡を作った人々とは何者か』の目処を立てたかったからです。なぜ石堂神が鳥栖や博多に、そして徳島・越後で祀られるのか、なぜ「石」に纏わる神名を持つ神々が偏在するのかが知りたかった訳です。(系図参照)
 それを知るためには、まず奈良に飛ぶ必要があります。奈良に「鏡作神」を祀ると言う神社があるのです。
鏡作麻気神社(田原本町) 麻比都禰命(天目一箇命=忍穂耳)
鏡作坐天照御魂神社(田原本町)火明命(饒速日)石凝姥命  天糠戸命(素戔嗚) 三神二獣鏡、研磨用鏡石が伝わる
鏡作伊多神社 (田原本町)石凝姥命(天鈿女)
鏡作神社 (磯城郡三宅町)石凝姥命 、白鬚明神(猿田彦)

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鏡作麻気神社(奈良)

 一般的に「鏡作神」とは、中山さん(金山彦:津市・中山神社)饒速日  石凝姥命(天鈿女命) 忍穂耳  天糠戸命(素戔嗚)を指します。面白いことに饒速日 石凝姥 忍穂耳の三神は夫婦です。さらりと書いていますが、本誌は頁数が限られるので苦労した論証や面白い箇所もだいぶ省略せざるを得ませんでした。
 一番有名なのは、なんと言っても、伊勢外宮に祀られている石凝姥命(豊受姫)でしょう。福岡では若かった彼女ももうお祖母さんになっていました。「石凝」とは「樵」と同じで木を切り出す人、石を切り出す人と言う意味で、青銅器・鉄器の石鋳型用等の石を切り出していたと言うことでしょう。因みに金凝彦(贈:綏靖天皇)がいますが忍穂耳の父です。金属では、金山彦が有名ですが、ご存じの通り忍穂耳(彦星)は、和歌山・丹生都比売神社の伝承にもある「水銀を求めて九州からやって来た」と言うとおり鍍金用の水銀等を採掘していたことが分かっています。

 『倭名類聚鈔』によれば大和国城下郡には、鏡作(加加都久利)・賀美・大和(於保夜末止)・三宅(美也介)・黒田(久留多)・室原(也本也)の六郷があった。奈良県天理市にある大和神社の付近が、大和郷で、周辺には大和古墳群がある。
弥生時代には、環濠集落で有名な唐古・鍵遺跡があり出土した袈裟襷文銅鐸鋳型は、凝灰岩質砂岩製で天理市豊田山付近の石材が似ているという。残念ながら「石英斑岩」ではないようです。 弥生中期から後期にかけて鋳型技術の革新が進み、石から土製への変遷がみられ、土製鋳型外枠を採用することで、より大型のものが鋳造できる様になっていました。鞘(檜)入り石剣(サヌカイト)やフイゴなども出土しています。

 また『延喜式』神名帳に記される城下郡の式内社には鏡作伊多神社・鏡作麻気神社(かがみつくりまけ)・鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにますあまてるみたま)などが記載されている。ただ「鏡による支配」は、6世紀には本格制作はなくなると言うので卑弥呼以降と考えればたかだか三百年位で終焉を迎えることになります。政権が中央集権化されると、もはや鏡は必要ではなくなり、「地方の神々」の時代は終わり「新しい神々」は、もう祀られなくなってしまいます。全国の神社に地主神は別として同じような神々が祀られているのは「国の成立」を意味しているのです。

筑後川の女神と石凝姥命


 さて、こうしてみると「石の神名」を持つ神々は、謂わば「仕事」に関わる神名ではないかと気づかれるでしょう。それぞれの一族には得意分野があり、重要な技術は伝えられました。この大神一族は、石を奉齋(古人は星を石と書いた)する人々で大分の「白山神社遺跡」とされる祖神社は、ご神体があの「環状列石」で遺跡としては最古の祭祀形態を持つとされています。宇佐の元宮も巨石で石体権現と呼ばれる。鹿児島神宮の元宮・石體神社、小城にも同様の神社が存在します。元々地方神であった、金山彦・饒速日・石凝姥命・素戔嗚・天目一箇命らが奈良の地に置いて特に「鏡制作」を行っていたことが明確になってくると九州での彼らの動向がにわかに気になって来ます。筑紫は銅と鉄とは切り離せないからです。

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 このことは、特に筑後川流域を調べると面白いことが分かります。実はこのために前置きが長くなってしまいました。
 石凝姥命(トメは長の意も)は、素戔嗚と罔象女神のプリンセスである。石の鋳型は、高温の銅を鋳型に流し込むので普通の石では「破壊される」下手をして水分を含むと爆発する。さらに細かい文様を入れるので緻密である必要がある。そのため石材は、花崗岩に貫入する半花崗岩アプライトや八女で有名になった石英斑岩(周防変成岩帯、三郡変成岩帯が細分化された)等が用いられています。これは砥石にもいいので多くは流用されたようで当然鋳型が発見されにくい。(実際、砥石としても優秀である)
 現在は花崗岩帯や石英斑岩の採石場所が知られています。埴安姫­­―罔象女神―石凝姥命の「鏡作女神」達は上流域から集中的に祀られている。立派な素戔嗚神社もあり吉井の祇園祭は鉾も出て有名である。私が一度調べたのは、もう随分まえになるが筑後川水系に「水神」が多く祀られていて水害がらみで比較的新しいものではないかと思い重要視しませんでした。しかし、庄前神社(久留米市大橋)に罔象女神の木像が伝わっていることを知って認識が大きく変わりました。よく残されていたものです。

 まずフィールドでは石凝姥命の石探しからはじまった。鏡作りの神々の故郷は何処なのか、地質図を注意する。意外にも筑後川が教えてくれていることに気づく。視点が変わればまた見え方も変わるというがその通りなのだ。なぜ大石神社に石凝姥命が祀られ、そのような神々の名で呼ばれるのか今となっては分かる気がします。ただ石凝姥命として祀られるのは福岡では少なく、むしろ稲荷神社の方が分かりやすいかもしれません。
 歴史的経緯はまずはさておき石凝姥命の母と言われる罔象女神(水神)を筑後川沿いに上流から見てみましょう。筑後川沿いに、浮羽、田主丸を中心に久留米あたりまで広く祀られています。昔は河南は水に苦労したといいます。そのため水神信仰がありました。耳納は一部を除き全山が周防変成岩帯に属しています。

●一ノ瀬神社(上流なので巨石が多い)
 出発は、うきは市合所ダム下の一ノ瀬神社です。鳥居は川に向かって絶壁になっています。石祠があり、結構大きな石で礎石が作られています。(以前は橋があったとか)下流に配水するために、水を分けるようになっています。豊受姫(天鈿女命)は、母罔象女神ともども、水の神。特に豊受姫は、水分神(みくまり)とも呼ばれますが、まさにそのとおりです。
 水の神は、雨乞い、水分と忙しいんですよねえ。おまけに稲作もしなくてはなりません。とても優秀な女神だったようです。
 現在も下流に「水分」するようになっている。さて、次は下の罔象女神(神大市姫)は、弟大国主らと共に赤米を伝えた人々です。八女の黒木稲荷には、ちゃんと稲を抱えた豊受姫の見事な石像があります。多分この様な石像は余り見ないと思います。

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●浮羽稲荷、豊受姫を祀っています。奥宮のご神体は巨石です。
真向かいの杷木あたりにお祖母ちゃんたちがいる。さらに、主な神社に以下がありますが長くなるので省略します。
長野水神社 (吉井町) 祭神 罔象女神 (説明板)
高橋神社 (吉井町) 祭神 罔象女神、水分神、菅原、猿田彦
若宮八幡宮 旧県社 (吉井)
 祭神 応神天皇、仲哀天皇、神功皇后、宗像三女神、埴安姫命ここで、埴安姫(草野姫)が出てきます。彼女は罔象女神の母です。景行天皇の行宮跡とも言われていますが、土蜘蛛を殺してしまった景行がなぜここまで来て止まったかはあとで分かります。
 省略できないのが
庄前神社(久留米市大橋)です。ここには、罔象女神の木像が伝わっているからです。因みに、馬場瀬神社 田主丸東町にも伝わっています。こちらの方がリアルです。
 もう少し、下ると若宮八幡宮(草野) 旧県社があります。旧県社らしく立派です。正殿に仁徳天皇、相殿に住吉宮と高良玉垂宮が祀られていますが、それにもまして重要な摂社があるのです。小森社(天水分神(豊受姫)) 高木社 草野社(埴安姫=草野姫)です。草野姫は豊受姫の祖母に当たります。繋がってきました。

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 黒木稲荷(豊受姫)

小森社(豊受姫)
草野社(草野姫=埴安姫)

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草野社

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浮羽稲荷

 さて、ここで振り返り帰ってみましょう!
 筑後川の女神達がずらりと祀られていることが分かります。草野・吉井の筑後川沿いに、水神社が多いことが分かりますね。

 そして、久留米に入ります。水天宮の天之御中主神は、豊受姫には曾祖母にあたる女神です。このすぐ南に大石神社(伊勢天照御祖神社)があるんです。とても憎い配置ではありませんか。しかも高良山の南に2社ほど、妙見神社(天之御中主神)、妙見宮(赤星神社)があるのです。
 なぜ、鏡の神・石凝姥命は、ここ久留米だったのでしょうか?理由があります。「高良山雑記」に、「銅採掘の跡 吉見岳の麓阿志岐の北大塔(ウーダーウ)という所に銅を採掘した跡あり」という「伝承」があるのです。(阿志岐村は今の山川町)つまり、石だけで無く銅まで採掘していたことになります。場所は、吉見岳の琴平神社のあるあたりで高良山のすぐ北西になります。意外な展開です。銅と言えば、奈良の大仏にも使われた香春岳(忍穂耳・天鈿女命)を思い出しますが、なんと高良山で採掘していたとは驚きです。鏡用の水銀はおそらくは佐賀産と思われます。
 こうして、天之御中主 ―埴安姫(草野姫)―神大市(罔象女神)―天鈿女命(石凝姥命)―稚日女尊(生田神社)、が繋がりました。 「石の専門家」は、天之御中主ファミリーだったんですねえ。
 忘れていました。草野は木花咲耶姫神社が密集する「四大聖地」の一つです。彼女は、末っ子で罔象女神の妹です。因みに、罔象女神の夫は素戔嗚(天糠戸神)です。立派な素戔嗚神社が数社あり、吉井素戔嗚神社では、盛大な祇園祭が行われます。
 鏡作神・金山彦も石垣神社(ここは神紋で有名)、庄前神社に摂社等が祀られています。そうそう、浮羽の景行天皇は、豊受姫(天鈿女命・石凝姥命)の孫になります。祖母の暮らした吉井を出世して、たずねて見たくなったんでしょうねえ!

鏡作りの石凝姥命と大石神社

 この間、奈良に友人が出来て、田原本町に店をお持ちの巫女さんのような方で神社を巡り「鏡作神社」も詳しいので少しの情報も欲しい私としては助かっている。交流すると久留米の伊勢天照御祖神社(大石神社)とどうも繋がっているらしいのである。九州では忘れ去られていても、畿内の方が時代が新しいので情報・伝承が詳しいことが多々あります。

大石神社(伊勢天照御祖神社)

 まず、久留米の伊勢天照御祖神社は、通称大石神社とも言われ大石町にある。天照国照彦天火明尊(饒速日命)を祀り、境内社には、祇園神社、佐岐神社(天鈿女命)、大國主神社、恵比須神社、粟島神社、大石霊社、事代主神社、天満宮がある。
 ここで、問題が幾つかあるが、大きい二つは、神社名と女千木である。実は、女神が祀られていないのである。饒速日は男神なので何か理由があると思われる。そこで、調べる必要に駆られるが国書の記載や伝承が残されていないので他の神社から謂わば「補正」することになる。一応以下の奥野氏の説明がある。
「神社のある大石町は現在市街地になっ ているが、台地と筑後川の自然堤防の上に、大石神社遺跡・速水遺跡・南崎遺跡など弥生時代中~後期の遺跡がひろがっている。大石町の当社の神体は、本殿土 間にある巨石で、支石墓の上石あるいは古墳石室の蓋石かと推測されているが、江戸時代の『筑後志』や社伝は、この霊石が年々肥大するという伝承を伝える。 また石の大きさは「方九尺」、別に「方三尺」という。この巨石を祀る伝承が神社発許にひきつがれているとすれば、祭祀はより古く、巨石は磐座であるかも知 れない。」(奥野正男)
 本殿の土間に「大きくなる巨石」があるという。社名を調べると幾つか手がかりになりそうな神社がある。以下のリストで神社の「論証は神社によって語らしむ」事にしましょう。(※国司越前守の何某かが伊勢大神宮の瑞垣内の小石と古鏡をここに祀ったと伝えられている。との説もある。「赤司文書」(縁起)では天照大神を祀るとある。)

(1)大石神社 (壱岐)
  祭神 天照大神、素戔鳴尊、 八十柱津日神(櫛稲田姫=瀬織 津姫)、底筒男神、中筒男神、
表筒男神(※櫛稲田姫は天鈿女 命の義理の母)
(2)大石神社 (相模原市藤野町)
  祭神 石凝姥命・弁天宮・蚕影 神社・山神社(大山祇)
(3)大石神社(山梨県甲州市)
祭神 大山祇、可美直手命 ※ 饒速日と天鈿女命の子

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(4)大石神社 (松阪市)
   祭神 建速須佐之男命 菅原道眞 譽田別命 大物主神 市 杵島姫命 春日大神 大山祇命 宇迦之御魂神(豊受姫=天鈿 女) 木花開耶姫命 塩土命 罔象女命 火産霊神 (不詳四座)  (※罔象女神は天鈿女命の母、素戔嗚は父)
(5)大石神社(名古屋市) 祭神は、天宇受売命
(6)大石神社(糸島市志摩師吉) ここは良質の花崗岩を産出 する。石刀・石鋳型用 祭神は,石凝姥命(天鈿女命)
 ここで、3,5,6は、決定的に重要で、大石神社は少なくとも天鈿女命=石凝姥命と言うだけでなく、伊勢天照御祖神社の通称大石神社の素性と祭神を語っていると言って良いでしょう。(※元宮がある。)

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《ちょっと考古学》 

 饒速日達が、筑後川流域に於いても鏡を作っていたとなると、筑後が面白くなってきます。筑前町のヒルハタ遺跡からも鏡の石鋳型の完全形が出土しています。遺跡は砥上山の南西にあり、遺跡のすぐ南に三並(鍛冶技術者のこと:真鍋氏)がある。さらに、あまり知られていないが三牟田天満宮(筑前町)があって忍穂耳、素戔嗚、伊邪那岐命、高淤加美神、埴安命 素戔嗚と大幡主一族が祀られています。
 石垣が素晴らしく、石を切り出した跡があり参道途中に放置された巨石はピンクがかっています。さらに太宰府の石穴稲荷もよく似た石垣があり奥宮は巨石で囲まれています。また奥宮の入口には「中山神社」(金山彦)=鏡作神が祀られていました。
 小郡・隼鷹神社は筑前町の西部にあり、赤い大石(花崗岩に含まれるザクロ石?) 彦火々出見命(饒速日)を祀っています。 焼けた様な赤石は製鉄などの名残かもしれません。さらに西部には、伊勢山、八龍神社など彦火々出見を祀る神社があります。 また小郡・隼鷹神社を元宮とする鷂天神社が平塚川添近くにありますが、数少ない「高木・大日孁系」(**)の神社で卑弥呼を知る上でとても重要な神社です。隼鷹神社から奉納された鏡を伝えています。隼鷹神社は、基山にもあって祭神も同じです。

ヒルハタ 1

ヒルハタ遺跡 銅鏡等五面彫り鋳型

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三牟田天満宮(筑前町)

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石穴稲荷の巨石(太宰府)

「石を探して、可也山!」

可也山1

 ついに、ここまでやって来ました。彼女の周辺をもう少し見てみましょう。「石凝姥命を探すには、石を探せば良い」と言うことは誰にでも思いつきますが、「神奈備山」 とはロシア語でカンナビエーツで、石工・採石場を言います。常識が覆されます(甘南比神社が佐賀にある)。
可也山も神奈備山、実は可也山神社に祀られています。実際に、登山していないので騒ぎが収まれば是非登らなくてはと思っています。
 きっかけは、糸島の大石神社(可也山麓)。台風で壊れ西にある日吉神社に合祀したとか聞いたからでした。丁度登山口にあります。


大正時代の石切場

 可也山のほとんどは花崗岩で、日光東照宮へ寄進する大鳥居の石材を切り出した程だったと言います。藩主黒田氏が寄進した糸島の鳥居は、記録があり 桜井神社の鳥居、警固神社、高祖神社、雷山千如寺がある。
 糸島花崗閃緑岩といわれ、石英と長石が主成分で、残りの1~3割が黒雲母などの有色鉱物で、古い文書には大鳥居を切り出した石切場の場所として、「親山(御山)」と「師吉」の二箇所の地名を確認できます。3~5合目以上の山腹に石切り場跡らしき痕跡があり、現在でも花崗岩を切り出した後の残石がかなりの範囲で散見されます。(資料:糸島魅力みつけ隊ネットワークより)古代から、良質の石材は利用されてきたんですねえ。よく見つけたものです!
 可也神社は、山頂の途中8合目付近。祭神は、神武、木花咲耶姫、宇迦之御魂(豊受姫=石凝姥命)を祀っています。勿論木花咲耶姫は、石凝姥命の義理の母ですね!ここ糸島あたりは、瓊々杵と結婚した木花咲耶姫が新婚時代を過ごした所でもありました。

弥生が丘の鏡作神

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愛宕山神社(古墳)


 鳥栖市柚比町(通称・弥生が丘)に、鏡作神を祀る「愛宕山神社」がある。古墳神社で山頂に祠があり例の馬に乗った像が安置されている。(写真は北側、参道は南にある)このあたりでもちょっと異様な「聖方位」を持つ〝巨大古墳〟である。鏡作女神「石凝姥命」を追ってきたわけだが、 無文土器の研究でも有名な、後藤直(東大考古学)氏によると、「日本で青銅器生産がはじまるのは、鳥栖市と春日市である。その後周囲に広がった」という。
 「前項」でも述べたように、鏡作麻気神社、鏡作坐天照御魂神社、中山神社の「鏡作神集団」の存在は、逆に北部九州特に筑後川流域の神々の「輪郭」を際立たせてくれる。そうなると天之御中主神ファミリーが鳥栖地域でも関わりがあるのではと思うのも無理からぬ事。さっそく調べて見ることにしました。
 「青銅器生産」工場があった箇所は、本行遺跡の青銅器工房(2018/9/1)と題して佐賀新聞が報道した 「鳥栖市内の青銅器工房は、柚比遺跡群だけではなく、南西部の江島町本行遺跡からも12点もの鋳型が出土しました。しかもめずらしい ヤリガンナや、銅剣・銅矛・銅鐸の鋳型も出土しています。」とした。当時ブリジストン工場の建設時の発掘調査で判明した場所である。
 本行遺跡(鳥栖市)には大量の土器類が埋められていた。遺跡の終焉とも...遺跡の石鋳型は、砥石に転用されています。もうひとつの『柚比弥生遺跡群は、紀元前後に最盛期を迎えた後、倭国大乱の時代に、急速にその規模を縮小している事が、 遺跡の発掘調査からわかっています。』(鳥栖市史 古代編より)とされる、見事な「赤い鞘」や魚型石鋳型の『柚比弥生遺跡』である。あたかも集団で何処かに移動したかのように。そう、瀬戸内海経由で畿内に移動している。磐井の乱平定後に、再び、活況を迎えますが、その後は徐々に、養父方面に 中心を移している事が伺えると言います。磐井の君葛子が居たことでも知られています。

安永田遺跡(鳥栖)

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安永田 1

柚比遺跡群の南、もう目と鼻の先、左の丘が愛宕山神社が見えます。その一帯に気になる神社群があります。まずは列挙してみましょう。荒穂以外は鳥栖市です。
・愛宕山神社 祭神 金山彦(古墳神社)
・水影天神社 祭神 菅原 八龍大神 (彦火々出見)石堂神
・八坂神社(本町) 祭神:素盞鳴、櫛 稲田媛 大己貴 生目(金 山彦)猿田彦(饒速日)
・八坂神社(田代)
祭神 素戔嗚、稲田姫 大己貴、大山咋、菅原、軻遇突 智、倉稲魂
・泉神社(鳥栖)
  素戔嗚 大己貴  又は、天速玉姫 阿蘇都姫=天比理 刀咩命)*祭神は 推定
・船底宮 祭神:表津 綿津見命、中津綿 津見命、底津綿津 見命 ※境内:豊 玉姫 四阿屋神社 の元宮
「熱田神宮の勧請で、東屋明神と称えたり」とするので四阿屋神社と同体でよさそうだ。
・四阿屋神社 祭神: 日本武尊、大山祇尊、住吉大明神、 志賀大明神、豊受大神
・日子神社 天之忍穂耳命(天目一箇命=天御影命) 境内:弁財天(市寸嶋比売命)
・荒穂神社 祭神 瓊瓊杵尊、五十猛命(山幸) 住吉、春日、 加茂、 八幡、寶滿(明治)  木花咲耶姫

 詳細はさておき、「鏡作神」が、揃っています。金山彦・罔象女神・石凝姥命(豊受姫)饒速日、天目一箇命、大糠戸(素戔嗚) つまりここで何をしていたか、分かろうと言うものです。
 水影天神社の石堂さんは、櫛田(博多)にも祀られています。鳥栖と基山にまたがる弥生が丘は、古墳群が広がり、金山彦を祀る神社・祠が多い所でもある。又あの前方後方墳も数カ所発見されています。泉神社は、唐突な感じで 天比理刀咩命とは聞き慣れない女神ですが、天之忍穂耳命と栲幡千千姫の娘である。 前出の神社リストはもう「鏡作神」及び関係者の一覧になっています。炉の跡がある安永田遺跡と金山彦を祀る愛宕山神社は、すぐ目と鼻の先です。金山彦、石凝姥命、天御影神がそれぞれ 、金属、石鋳型、磨き(水銀)の担当を彷彿とさせる場所です。いわゆる〝奈良にあった〟「鏡作部」の前身があったのです。
また荒穂神社を中心とする基山は契り山伝説でも有名な木花咲耶姫(罔象女神の妹)の4大聖地の一つでもあるところです。鏡作神を祀っています。

 日本武は、年代は下がりますが景行天皇と同行して筑紫―佐賀にも来ています。彼が持っていた、草薙剣は天叢雲剣とも呼ばれ熱田神宮の神剣となり、伝承があります。
「素戔鳴尊が暴れられて、天照を困らせられました。それで周囲から反発を食らいまして、素戔鳴はそれを後悔して、 天叢雲の剣を打って、それを天照に献上なさいました。その時、天叢雲剣を打ったのが叔父の金山彦、献上の使者となったのが、 素戔嗚の孫、若き大山咋・天葺根命であった。」(+百)
 この歴史の舞台は、定かではありませんが「青銅器制作は鉄器制作の練習」とも言われ習熟・熟練をへて 天叢雲の剣を打ったのは、北部九州であったと考えられます。何よりも鍛治師集団と材料が揃っている。鉄は、天之御中主神系伽耶国からの直輸入である。宗像には、貿易港があり大国主らの拠点でもあります。参考資料のように楯崎神社(大国主)下で採石もしていた可能性があります。大山咋の息子椎根津彦は、舵取りとも言われ、海神・大幡主一族ともども航海術にも長けていました。

八女の鏡作神

 ここで、どうしても書いておく必要があるのが「八女の鏡作神」です。八月に須玖タカウタ遺跡出土の石製鏃鋳型(七個七列)が展示されました。材質は薄ピンク(肌色)の石英斑岩であり、同じ石材が安永田・ヒルハタ・津古東台遺跡(目視)吉野ヶ里でも使われているからです。九大の田尻氏(考古学 / 文化財科学)によって石材の「科学的産地同定」が行われています。産地サンプルが矢部川に限定されていますが、石英斑岩タイプの9割が八女産の「矢部鋳型石」というのはなんとも特殊で面白い結果です。 採石してみると確かに砂岩より細かく石刻に適しています。

八女鋳型

 そこである仮説のもとフィールドを調査しました。矢部川中流域を調べると、唐突に熊野速玉神社が2社もあります。熊野神社とあるので良く見ると「金山紋」が打ってあり不思議に思って横を見ると愛宕神社が祀ってありました。弥生時代青銅器鋳型の加工場といわれる八女「北山今小路遺跡」(矢部鋳型石が大量に出土、現在は埋め戻されている。図参照)の東に磐井の隠れ宮・飛形神社と関係ある六所宮には、何故かピンクの「矢部鋳型石」をご神体とする摂社(多分金山彦)があったのには驚きました。
(祭神*忍穂耳 建磐龍 大国主 伊邪那美命 大山咋 *軻遇突智(金山彦) *稲荷(石凝姥命)*は鏡作神)
 速玉とは、聞き慣れないと思いますが、熊野速玉大社と同体で『卑弥呼の夫、大幡主』(*高良神秘書、櫛田)のことです。この二人の間の長子が鏡作神・饒速日です。基山・荒穂神社には饒速日・瓊々杵兄弟(異父同母で卑弥呼の子)が祀られ、津古八龍神社には同じく二人の子饒速日、孫の鵜葺草葺不合命を祀ります。
 少なくとも「激戦地・三沢北部」は政治的には大幡主の影響下にあったところです。つまり「矢部鋳型石」を採石し広範囲に供給し得たのは、邪馬台国勢力を背景とした「奴国王」(贈第三代安寧天皇とも言われる)の政治力(#)があったからでしょう。
 そしてここ八女にも影響力を及ぼし前出の鏡作神たちが矢部川中流域に祀られてその足跡を残していました。「矢部鋳型石の採石に鏡作神が関わっている」(仮説)のはほぼ間違いないでしょう。

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カタカウ遺跡・鋳型石

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六所宮-摂社・鋳型石御神体

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矢部鋳型石・砥石

花宗神社には、熊野久須日命(大幡主の妻・金山彦の妹)が祀られていて、大幡主・金山彦の影響の強い地域だと言うことが出来ます。八女は摂社も含め素戔嗚を祀る神社も多く支配地域ですが、ここは特別重要な戦略上の地域だったのでしょう。 また素戔嗚の母は、熊野久須日ですが大幡主とは義理の父です。「鏡作神」は、奈良に伝わりますが「大幡主・金山彦・大山祇を宗主とした親族」と言い換えてもいいでしょう。正直ここまで見事な一族の〝神社配置〟を見ようとは思っていませんでした。
  小郡の鏡作神は、特に書きませんでしたが(花立山を参照)小郡で鋳型石(科学調査は不明)を出土する津古東台遺跡の宝珠川を挟んで北東五百mという至近距離に鏡作神を祀る「八龍神社」があるのはもう偶然では無いと思われることでしょう。

 因みに石材は、鋳型用途の石英斑岩やアプライト、砂岩等があり石鏃は大型化し黒曜石や粘板岩、頁岩、ケイ岩,安山岩(日向神) や石英安山岩(岡山)等が使われ砥石は、鋳型の転用があり砂岩・流紋岩等、地域の地質特性に合わせ使用しています。
石材も中々面白いのですが、ここに来て進展もあり、やっと「卑弥呼」を論ずることが出来る時代が来るとは以前とは隔世の感があります。考古学にも「神社民俗学」にも限界がありますが、若いこれからの研究者によってそれも解決され道は開かれていくことでしょう。

アプライト花崗岩-64

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 《参考文献》

「筑紫の遙かなる神々」故郷の花(42・3号) 黒岩勝正 2016
『遙かなる筑紫の神々』(今蘇る古代史の故郷 下巻) 2019歴文
『高良山雑記』稲次成令・淺野陽吉・古賀寿篇1969
「八幡神とはなにか」飯沼賢司 日本史 別府大学学長 2019
北部九州で出土した弥生時代青銅器鋳型の石材. 鳥栖市誌, 2巻 唐木田芳文 (2005)
日本考古学 第33号 日本考古学協会 (2012)
弥生時代北部九州における鋳型石材の産地同定と鋳型素材の加工と流通 田尻義了他
津屋崎、北崎トーナル岩中に発達する断裂系2 福大理集報 2004
石工の起源に関する研究 笹谷政子 1995
連載「卑弥呼を巡る!」(**)(福岡・佐賀編)黒岩勝正 2020 歴文
「高良玉垂宮神秘書同紙背」(*)荒木尚 高良大社 1972 ※実例が櫛田
弥生時代の青銅器生産体制(#) 田尻義了 2012 九大出版
 ※加工パターンは時期や形式ごとに異なるのではなく基本的に一致。
【参考資料】石鋳型の材料半花崗岩(アプライト)楯崎海岸

<<補論(参考)>>


 鋳型については、「弥生時代の青銅器生産体制」(田尻氏:九大)が青銅器生産体制に言及している。 この論文に関係する箇所の要点を整理すると

①一鋳型の加工パターンは時期や形式ごとに異なるのではなく基本的に一致している。
②弥生時代の青銅器生産は形式を限定することなく各種様々な製品を製作している。
③中心地から離れるにしたがって粗い加工になる。
④Ⅱ期は奴国を中心とした生産体制に移行。
共通認識が存在し各地制作の青銅器には自由度が低い(岩永の引用)
と言うことになるだろうか。

「前節までで各地に製作者集団が存在していることが明らかになっている。そうした点を踏まえて議論を進めるのであれば,加工技術に一定の影響力をもつということは製品の製作自体にも影響力をもっていると想定することができよう。さらには,周辺地での製作に関して外見や生産量にも中心地からの影響を認めることができるかもしれない。すなわち,青銅器の製作に関して春日丘陵北側低地部から製品の外見や生産量,さらには鋳型の加工技術まで一貫して周辺地へ伝達されている可能性がある。周辺地とは,先程からあげているように春日丘陵北側低地部より北側では井尻周辺や粕屋平野の八田周辺であり,南側は春日丘陵東部や鳥栖丘陵周辺の安永田周辺に至る範囲である。 青銅器の製作技術の中でも重要度の低い,関心の低い点を分析することによって,当時の地域的まとまりを示すことができた。
 これまでの研究では,青銅器の生産に政治的な強い背景を読みとる傾向があった。第1章でも述べたが,下條信行氏は安永田遺跡における青銅器生産について「出先工房」「福岡平野が中広形銅矛段階に急増する南方向け配布のために準備した出店」として位置付けており,また粕屋平野における青銅器生産も「出先青銅器生産工房」としている。下條1985 ・ 1991)
 しかし,これらの研究は鋳型の出土分布に基づいて研究を進めており,製品や鋳型自身の分析には至っていない。今回の鋳型の加工疸の分析によって,福岡平野と周辺地域との青銅器生産の関係が具体的に明らかになったと言えるだろう。すなわち,加エパターンが類似している地域において,
鋳型の製作技術,加工方法が伝達されていることが明らかとなった。(P104)
<弥生時代の青銅器生産体制 田尻義了 2012 九大出版>

 ただ、「生産に政治的な強い背景」と「鋳型の製作技術,加工方法が伝達」とは決して矛盾するものではあるまい。むしろ”指導者的集団”の存在を感じる。鏡作神・金山彦は、その技術者的要請から”各部族”に人気がありその婚姻関係からもそれをうかがい知れる。彼は、奴国や狗奴国と婚姻関係にあり、そのことは二期以降の奴国の青銅器生産の趨勢は金山彦と大幡主の妹埴安姫との結婚、さらに大幡主は金山彦の妹との結婚による強い絆が結ばれて、このことが大きな意味を持つことになります。

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これは、田尻氏の伝達模式図だが、北部は「伽耶の道」とそっくりなのに驚いた。鉄の国伽耶国ならではのルートだったからである。

※メモ
第一期 中細型 銅戈 玄海 佐賀 遠賀川
第二期 中広型 銅矛 福岡 佐賀(東部が急増) 瀬戸内海需要に応じるため
第三期 広型 銅矛 玄界灘 対馬への搬出(下条モデル)

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