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笑う門には福来る 第19話 スタートライン

 十月も半分を過ぎ、肌寒い日が続いている。
 長男はバイト、次男は遊びに、母と茂は小春のピアノ発表会へ出かけた。拓海は部屋で寝転んでいる。
 机にはキャラデザの痕があった。マンガを描いてみようと思い立ったが、手が止まってしまったのだ。家族と話している時や、何かに没頭している時は気にならないことも、一人の時間になると顔を出す。将来への不安が頭から離れない。担任が持ってきた進路プリントのせいだ。
 俺は何になりたいのだろう。何になれるのだろう。好きなことを仕事にしたところで、壁には必ずぶち当たる。絵を描き、ゲームをする人間は山ほどいる。本気でそれを仕事にしようと考えるなら、専門学校に進学するなり、コンテストに応募なりするだろう。
 それで食っていくだけの実力が、俺にあるのか。否、例え専門学校を出ても生活できるほど稼げるとは限らない。きっと挫折してしまう。キャラデザがその証拠だ。最近始めたことすら、すでに手を止めてしまっている。
 趣味といえど、永遠にモチベーションが維持できるわけではないのだ。スランプになることも当然ある。とはいえ、他に俺ができることなんてあるのか。俺なんかが、どこの企業に入れると言うのだろう。例え運よく採用されても、俺の方から辞めてしまうかもしれない。そうすれば、また逆戻りだ。人間関係が嫌で引きこもって逃げてニートになる。

 俺の作品に何の需要があるだろう。需要がなければ売れない。売れなければ金を稼げない。生活習慣を整える段階は、まだスタートラインでしかない。
 もし趣味を生かして専門学校へ行くなら、勉強もしなければならない。外出も当たり前のレベルになる必要がある。それ以前に中学を卒業しなければ、まず受験資格すら与えられない。そんなに多くのハードルを越えられるのだろうか。
 この先、何をするにしても人と関わることになる。コミュニケーション能力を上げる方法はあるのだろうか。俺はすでに何歩も出遅れているのだ。早く何か始めなければ。頭ではわかっていても、腰が上がらない。心がついてこない。
 やっと変わろうと思えたんだ。もうちょっと頑張れよ、俺。

 昼にお茶漬けを食べていると、京太郎が帰って来る。
「腹減った! 飯!」
 こういう時、何か作れたら役に立てるのに。
京太郎は、冷凍チャーハンをレンチンしてかっこむ。瞬く間に皿を空にすると、今度はたこ焼きを食らう。
「タクも食う?」
「いらない。っていうか外で食べてくるんじゃなかったの……?」
「足りねえんだよ。育ち盛りには」
「どこ行ってきたの……?」
「スポセンとファミレス。ライスとサラダはおかわり自由だったけど、やっぱ肉がねえとな。お前、よくそれで足りるな。そんな味気ねえもんばっか食ってるから、心が病むんじゃねえの? たまには外食行かね? 奢るから」
「それなら宅配がいい……」
「あくまで家にいたいのな」
 京太郎は苦笑した。
「お前さ、何で外出るの嫌なの?」
「嫌っていうか、気力がないっていうか……」
「せめて、夜の散歩くらい行ってみたらどうだ? 花火は行けたんだろ?」

 そして夜――。
 ご飯を済ませた後、拓海は外に連れ出された。茂も同行している。
「うわ、久々に靴履いた……」
 拓海はフードを深く被り、サングラスとマスクを着用した。
「お前それ怪しいって。逆に目立つぞ。サングラスは日光を遮るためにあるんだよ。この暗さでサングラスなんかしたら怪我するだろ」
「だって……」
「じゃあパーティーメガネはいかが?」
「もちろん却下で……」
 空を見上げると、月や星が歓迎していた。少し冷える風を受けながら、近所を歩く。
「キョウはさ、進路どう考えてる……?」
「進学するなら専門死ぬ気で受けるし、就職だったら力仕事とか体力仕事だな。分野は決めてねえけど、工事現場でもの運ぶとか、営業回るとか、なんとかできそうなの探してる。まあ、受かるかどうかはさておきな」
「アニキ、作業服に似合いそうだよね」
「うん、スーツは壊滅的に合わない……」
「どういう意味だコラ。タク、お前はどうなんだよ? 学校うんぬんはさておき、こんなんやりたいとかねえの?」
「できるなら、クリエイター的なこと……でも狭き門だし、需要とかいろいろ……」
「あ! こんなのどう? 兄さんが社長で、アニキが営業、兄ちゃんがデザインとか商品作って、僕が宣伝やるの」
「なんで職場まで誠司の言いなりになんなきゃいけねえんだよ」
「でも素敵じゃない? 兄弟みんなで会社立ち上げるのって」
「シゲの発想はいつも自由だね……現実的に可能かは置いといて。まずは勉強して卒業しなきゃなんだけど、やっぱり教科書開いて独学じゃ、限度があるよ。わかりにくい……」
「確かにな! オレなんか授業聞いててもわかんねーのによ」
「そんな二人に朗報!」
 茂の笑顔に、兄二人は疑問符を浮かべる。

 帰宅して茂が向かったのは、自室である。そこには、誠司がノート数冊と共に待ち受けて
いた。
「お前ら明日から覚悟しろよ? 一日二時間、俺とみっちり勉強だ」
 兄貴らしい支援を……と考えた結果がこれだった。
「お前、熱でもあんの?」
「それとも何かの罠……?」
「態度には気をつけろよ? 俺、先生なんだから」
「今まで、教えてくれって言ったらいっつも『自分でやれ』って放り投げたくせによ! ど
ういう風の吹き回しだ?」
「赤点とってギャーギャー騒ぎながら補習プリントされちゃ、気が散るからな。あと、一人
じゃできないって鬱々とされるのも」
 ぎくっと二人が肩を揺らす。
「先生は、二人の悩みに少しでも貢献してあげたい、と申しております」
 誠司が紙で丸めた棒で茂の頭を叩く。
「とりあえず、これ予習ノートな。明日の夜までに読んどけよ」
 拓海は、テーブルの上に自分の学年の教科書があることに気づいた。京太郎の分もある。
「ねえ、それって……」
「僕が二人の部屋から盗……ゲフン! 拝借してきました!」
「せめて一言ことわってくれる……?」
「お前受験生だろうが! 人に構ってていいのかよ? そりゃ申し出はありがたいけどさ」
「俺は要領がいいからな。両立できる自信はある。話は済んだし、さっさと寝る準備してこ
いよ。キョウは寝坊癖あるんだからさ」
 なんとなく鼻につく言い方だったが、正論だ。すぐに寝に入った京太郎に対し、拓海は早速ノートを開く。
『タクのこれまでのテストを見る限り、数学が得意っぽいから、まずそれからやる。中二でやるのは――』
 担任が持ってきたプリントや去年のテストを全部見たというのか。教科ごとに解き方がまとめられている。その上、京太郎の分も個別に作っているときた。相当な重労働である。
 生徒会長の仕事も受験対策もして、さらに弟たちの面倒を見るなんて、俺には絶対できない。拓海は長男の頼もしさを実感した。
 基本放任主義でめんどくさがり。兄貴は俺たちに興味ないと思っていた。きっと何か思い立ち、重たい腰を上げたのだ。俺もいい加減、向き合わなければならない。この大量の課題と。
 あの長男が味方についているなら、心強い。絶対できないと思っていたことが、なぜかで
きそうな気がしてきた。
 拓海はそのノートを大事にしまって、布団に入る。柄にもなく、ワクワクしながら。

 誠司による特別授業は、翌日の夜から開始された。丁寧に教えてもらい、拓海がスラスラ解いていく一方で、京太郎はつまずいていた。
「なんでこれがわからないんだよ」
「わかるわけねえだろ! バカ基準でもの考えたことないだろお前」
「自分でバカって言っちゃうんだ……」
 急に詰め込むのは無謀なため、まずは一日一教科三問取り組む。京太郎は国語にターゲットを絞った。本文に書いてあるのだから、読めばいいのだが、抜粋する場所が何度解いても違う。頭をかきむしる京太郎に、誠司は作戦を変更した。
「わかった。今日はとりあえず漢字覚えろ。書いて、読んでをひたすらやる」
 茂はそれを扉の隙間から微笑ましく見ていた。
「なんということでしょう。あんなに距離をとって、言葉を交わす時間も短かった兄たちが、今強力な絆を発揮しております」
 二時間みっちり学習した後、京太郎は机に突っ伏した。
「じゃ、これ復習な。風呂あがりとかでいいから、ちょっと時間あけて」
「こりゃ成績じゃ厳しいか? 内申だってイマイチなのに」
 京太郎のぼやきに誠司が便乗する。
「成績いいやつが社会に出て、業績いいかなんてわからないのに、大人はどうして成績をそこまで重視するんだろうな」
「知らね。頭悪いオレが、この先なんの役に立てるってんだ? 勉強して意味あんのか?」
「お前には行動力がある。ガッツもある。だから役立たずじゃない。むしろ頭良くてどんなにいい考えがあったって、それを実行に移せないんじゃ意味がない。どちらも欲しいと欲張ってから回るより、得意な方で勝負した方が有利だろ。相性悪くても自分の得意な方に引きずり込むだけの勢いを、お前は持ってると思う」
「つまり何が言いたいんだよ?」
「今戦ってる土俵から降りて、違う土俵に上がれってことだよ。そりゃ、あきらめないで今の土俵にいてもいいけどさ、そこに固執しなくていいんだよ。いろんな土俵に上がってみろってこと」
 ポカンとする次男に拓海が翻訳した。
「勉強以外の武器を持とうってことだよ。例えば、ボランティアとか……ただ働きだけど、参加するだけで感謝もされるし、褒められるし、人情派のキョウにはぴったりじゃない……?」
「そう。ボランティア参加するような時間、普通ならあまりない。部活やバイトで忙しいからな」
「片っ端からボランティア行ってやるよ! 目指せ百!」
「それは無謀」
「いいんだよ! とりあえず目標掲げときゃ!」
 一方で、茂は自室で一人、不安がよぎっていた。
 兄弟みんなが笑えるようになった今、僕は何のためにここにいるのだろう。
 新品のノートを引っ張り出し、指を切ってしまった。滲む血に気を留めることなく、茂はネタを書き始めた。


 とある休日の肌寒い朝、誠司と茂は、日が昇る前に起こされた。
「今日どうしてもシフト入ってくれって言われちゃって。弁当はあるから、行ってあげて」
 今日は幼稚園の運動会である。誠司は渋々了承し、二度寝に入った。茂はそのままキッチンへ向かう。母が用意した大きな四角い弁当箱には、おにぎりや唐揚げ、ミートボール、薄焼き卵で作られたキャラクターなど、小春の好きなものばかり入っていた。
 紙皿と紙コップが必要だろうと、茂は棚に手を伸ばす。だが、届かない。椅子を持ってくるも、あと数センチ足りない。思い切ってジャンプして掴むと、着地に失敗して転げ落ちた。
 床に手をついた時、米粒の感触がした。落ちる時に何か引っかけた覚えがある。見渡すと、弁当箱はひっくり返って中身をぶちまけていた。さすがの茂でも笑えなかった。
 母はもう出てしまった。作り直すのは難しい。とはいえ、箱に戻すわけにもいかず、ティッシュの上へ拾い集める。
 茂は、誠司を起こしに階段を駆け上がる。
「寝起きで悪いね兄ちゃん! 悪いニュースといいニュース、どっちを先に聞きたい?」
「大抵どっちも悪いやつだから悪い方」
「弁当がお亡くなりになりました!」
「は?」
 やらかしたことを察してキッチンに出向き、惨状を目にする。誠司はジトーっと茂を見つめる。
「ごめんと思ったら、落ち込まずに速攻対策会議!」
「ポジティブで何より」
 誠司は怒ることも呆れることもせず、寝起きの頭を使う。
「ご飯は?」
「残ってます!」
「冷凍のおかずは?」
「申し訳程度に残ってます!」
「じゃあそれ詰めとけ。残りの空白は手料理で埋める。いいな?」
「イエスマイブラザー、仰せのままに」
 とはいえ、半分以上の空きがある。冷蔵庫を漁ると、使えそうなものはりんご、ゼリー、卵、ちくわ、チーズ、野菜もろもろ……。棚にはツナ缶やサバ缶があった。
 誠司はフライパンを出し、調理を開始した。大層なものはできないが、埋めておかなければ昼食がない。
 二人は一時間かけて弁当箱にふたをした。急ごしらえにしては上出来だ。起きて数分でせっせと働いた二人は疲れ果てた。弁当に入りきらなかったものは朝食へ回し、パンを焼く。
 そろそろ妹が起きてくる頃だ。二人は何事もなかったかのように隠ぺい工作を施し、着替えた。
「あれ? にーちゃんたちはやいね」
「まあね! なんてったって、ハルの運動会だもん!」
「にーちゃんもきてくれるの⁉」
「うん、そう」
 渋々だけど……という言葉は飲み込んだ。
 朝ごはんを食べ、着替えて準備を済ませた小春は、気づいてしまった。
「そういえば、かあさんは?」
 二人は失念していた。母が来れなくなったことへのフォローを。嘘を言うのは逆効果だと、誠司は本当のことを伝えた。さっきまで「ハルはこれにでるの!」とはしゃいでいたが、打って変わって不機嫌になる。
「こないんだ……」
「大丈夫! スマホで動画撮るし、母さんの分まで僕が応援ーー」
「じゃあいかない!」
 小春は部屋に閉じこもってしまった。
「……まあ、たまには休んでもいいんじゃねえの?」
「だめだよ! 今まで練習してきたんだし、なんとか説得しよう」
 茂はすぐさま妹の部屋へ向かう。意外なことに、誠司も同行した。いつもなら「任せた」と放り投げているところだ。
「ハル、せっかく母さん、ハルのために弁当作ってくれたんだよ?」
 実質、母が作ったものは何一つ入っていないが、これ以上妹に追い打ちをかけるほど、誠司は鬼ではない。
「僕も兄さんも、ハルの頑張ってるとこ見たいな」
 沈黙を貫く妹に、誠司がたたみかける。
「もし行かないなら、この先友達が運動会の話題で盛り上がってる時、お前は会話に入れなくなるぞ。それに、休んだら母さんがどんな顔すると思う?」
 扉が開いた。
「やっぱいく」
 誠司が小春を送っている間に、茂は家事を済ませる。起きてきた拓海が扉から顔を出した。
「手伝おうか……?」
「うん! 洗濯物、黒いのネットに入れて」

 グラウンドには白い粉でラインが引かれ、赤白帽を被り体操服を着た園児たちが整列している。遊具の前にはテープが貼られ、園児の頭上には小さいカラフルな旗がいくつも連なる。
 ブルーシートの敷かれたテントの下で、誠司と茂が妹を探す。
「キャー! ハルちゃん、こっち見て!」
 茂が行進する小春を連写する。
「シャッター音切れ。うるさい」
 園児の両親や祖父母が、その様子を微笑ましく見ている。
「若いお父さんだね」
「偉いなあ」
 誠司はその声に内心つっこむ。兄貴ですが何か。
 出場待ちの間、茂は慣れた手つきでスマホを操作している。誠司が覗いてみると、アプリで写真を加工していた。
 小春の出る種目(午前)はかけっこ、大玉転がし、体操である。妹の姿を見つけるたびに、茂は全力で応援した。いつ着替えたのかチアの格好をして、ボンボンを持ち、笛を吹く。
 茂の奇行に、誠司は思う。悪目立ちは避けたい。だが、小春が茂を見つけて笑顔で手を振っているため、無下にもできない。

 お昼時、小春は弁当を開けて気づく。母に頼んだキャラクターが見当たらないのだ。りんごのうさぎもいない。
「ねえ、これつくったの、にーちゃんでしょ」
「ピンポーン、シゲがひっくり返して中身ぶちまけたからな。作り直した。お気に召さないか?」
「ううん、たべる! にーちゃんのてづくりなんて、めったにないもん」
 見た目はあまり可愛くないが、味は保証されている。茂も躊躇なく口に運んだ。
「なっ! このジューシーかつ、さっぱりしたレモン味! 一口でわかる! 熟練の技だ!」
「そりゃ冷凍だからな。その唐揚げ」
 しばらくすると、ぞろぞろ小春の友達が遊びにきた。
「これハルのにーちゃん! このべんとうも、にーちゃんがつくったんだよ」
「すごい!」「かっこいい!」などと称賛の声が上がる。
「いやー、それほどでも!」
 何の反応も示さない兄の代わりに茂が照れる。
「こっちもおにーさん?」
「うん!」
「あ、あのヘンなひとだ! ボンボンもっておどってた!」
「いやー、それほどでも!」
 変な人と言われてノーダメージか。誠司は呆れを通り越して尊敬すら覚えた。
 小春は誠司を自慢した。
「にーちゃんは『せいとかいちょう』なんだよ! あたまもいいの!」
 途端、誠司に質問が次々と飛んできた。
「なまえなんていうの?」
「なんさい?」
 誠司は淡々と短く答えた。盛り上がっている中、小春は蚊帳の外で不機嫌になっていく。茂がそれに気づいた。
「ハル、かけっこ頑張ってたね! 速かったじゃん」
「でも『いちばん』じゃなかった」
「大玉転がしは勝ったでしょ?」
「ライバル突き飛ばしてたけどな」
 褒めてくれない長男の言動により、小春の涙が溜まっていく。
「トイレいってくる!」
 走り去る妹の背中を見て、誠司が悟る。余計なことを言ってしまったようだと。

 小春は昼休憩の間、戻って来なかった。茂が探し出し、もう出たくないという小春を説得し、障害物競走へ向かわせた。
 茂は観客席でハチマキをつけ、ペンライトを両手に踊って応援した。プライドのプの字も見せずに、誰かを喜ばせるために体や声を張る。その姿は賞賛に値するが、誠司にとって悪目立ちは避けたいものだった。
「頼むから恥をまき散らすな」
 小春は縄跳び、跳び箱、網くぐりをクリアして平均台へ差しかかる。現在は二位。「ここで追い抜かないと」と焦り、足元が狂って踏み外してこけた。足をくじいてしまい、涙が出そうになったが、目は諦めておらず、再挑戦してクリアする。
 足の痛みに耐えながら、片足を引きずってゴールした。だが、白いテープを突っ切ることはなかった。一番を取る難しさに、小春は歯を食いしばる。
 先生に保健室へ連れて行かれる姿を見て、誠司は妹の元へ向かう。関係者以外入れないため、仕切りの外で待った。
 誠司も、幼稚園当時は行事ごとを楽しんでいた。次男と対決し、頑張って一番を取って褒められて嬉しかった。今や、本気になることがバカらしいと思うようになった。それは大人になった証拠なのか、それとも人間の心を失ったのか。
 いい子というレッテルがいつしか鬱陶しくなり、周りが望む道と自分が望む道に、大きな差が出来ていった。意地でも「これがいい!」と自分の意思を通す妹を見習うべきか。
 先生から勧められた大学の推薦入試が頭によぎる。行きたいわけではないが、やりたいことがないならとりあえず受けてみろと言われたのだ。どのみち経験にはなると、引き受けてしまった。申込は済んでいて、十一月に試験を控えている。
 面倒なだけなのに。ちっとも興味などないのに。これからも周りに振り回されてしまうのか。申し込んでしまった以上、受けなければならないのだろうか。いや待て、合格した後の方が断りづらくなる。
 まだ間に合う。今キャンセルすれば、別の道を選べる。最近、弟たちに勉強を教えているうちに、教育に興味を持ったのだ。一般入試でいい。肩書も評価もいらない。自分がしたいことしないで、何が人生だ。
 手当された小春が出てくる。どうしても一番を取りたかったのか、泣いていた。兄の姿を見ると、顔を逸らす。大丈夫かと声をかけても、頑張ったと言っても満足しないだろう。
「ハル、次は勝とうな。俺も本気出すから」
 この後は親子競技「二人三脚」が控えている。茂が出る予定だったが、譲ってもらった。
 誠司は周りが望む道から外れ、妹と共に繋がれた足で、その一歩を踏み出した。
「焦るなよ? 二人三脚は速さじゃない。どれだけ足を揃えられるかだ」
「にーちゃんがでるんだもん。ぜったいまけないよ!」
 声をかけ合い、マイペースに足を動かす。スタートの速い親子はいたが、途中でこけていた。この競技はうさぎとかめだ。確実に一歩一歩、前へ行くものが勝つ。最後には先にいた組を追い抜いて、小春と誠司は見事一位を手にした。
 妹とハイタッチを済ませ、白線を越えテントに戻る。
 その境界線は、俺の未来を変える一歩になるだろう。白線は、周りに翻弄されて流される道のゴールであり、自分の意思で決める覚悟を持ったスタートラインでもあるのだ。

 帰り道の小春はご機嫌だった。
「おすしたべたい!」
「母さん今日は帰り遅いよ?」
「えー」
「俺が奢ってやる。デザートならな」
 色づいたイチョウの葉が、枝から落ちてひらひらと三人の背を見送った。


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