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笑う門には福来る 第11話 渡る世間に鬼はない

 茂は、次男と三男の共用部屋を訪ねていた。小春はピアノ教室へ、母はパートへ、長男はバイトへ、次男は部活の助っ人へ出かけている。
 そっと扉を開けると、三男の拓海は布団の中だった。おもちゃのマイクを手に、茂はリポートを始める。
「みなさんこんにちは! 藤原家随一のボケリスト、茂です! さあ始まりました、突撃兄ちゃんの部屋。当の本人は夢の中なので、目を覚ますまで物色していきたいと思います」
 三男の寝床は、ベッドと机が一体化しているタイプである。一際目立つのは、パソコンとミニジオラマだ。
「ご覧ください。もはや小さなアフリカ草原です。囲いの中にリアルに再現された草地や樹木、そしてキリンやゾウ、おやライオンもいますね」
 それが一から組み立てられ、少しずつ買い足されたものと知っている茂は、見るだけに留まった。

 一番下の引き出しを開けると、きれいにしまわれたゲーム機のコントロールやカセットが詰まっていた。
「あら、勉強のべの字もありませんね」
 真ん中の引き出しには、キャンバスノートや色鉛筆など、絵を描くためのものがぎっしりだ。茂はペラペラとページをめくる。
「ふむ、どれも傑作ですね。マンガのキャラクターや大自然、パラパラ漫画もありますよ? これは落書きっていうレベルを遥かに超えていますね。まさに芸術! って感じです。いつか僕の似顔絵、加工百パーセントで描いてもらいたいと思います」
 一番上の引き出しには、プリントなどの学校のものが押し込まれていた。
 壁には完成されたジグソーパズルが、額縁に入れて飾ってある。
「これは骨が折れますね。空の青・白・水色の微妙なグラデーション、それから広い海。アニキならきっと三秒で投げ出すでしょう。恐ろしい集中力です」

 もぞもぞと動く兄の気配を察知し、話しかけてみる。
「おはよーございまーす」
 唸ったが起きる気はないようだ。カーテンを開け日光を入れて、マイクをいじってエコーをかける。
『目覚めよ』
「何……?」不機嫌な声がした。
『今こそ、日光を浴びる時』
「浴びたら死んじゃう……」
「そんな吸血鬼じゃないんだからさ。たまには日向ぼっこボッコしよ?」
「誰かタコ殴りにされてない? それ……俺は直射日光・高温多湿を避けて保存しなきゃだめなの。寝かせて……」
『寝かせて欲しければ起きろ』
「それ本末転倒……」
 仕方なく体を起こすも、中々布団から出られない。スマホを開いてゲームのログインを済ませる。
「兄ちゃん、髪伸びたね」
「うーん、しばらく行ってないし……」
「切りに行かない?」
「無理……外出たくない……」
「じゃあバリカン」
「却下……」
「じゃあ結ぶ?」
「いいからほっといて……」
「このままじゃ、兄ちゃんが貞子になっちゃう! キャー!」
「うるさいんだけど……騒ぎたいなら外行って……」
 迷惑そうにベッドから降りる拓海に、茂は臆せず話し続ける。
「兄ちゃん、勉強教えて」
「俺にわかるとでも……?」
「だって習ってるもん」
「もう忘れた。何? 学校のこと何もやってない俺への当てつけ……?」
「もうたっくんたら卑屈!」
「シゲはさ、学校行きたくないと思ったことある……?」
「あるよ! 学校にランドセル忘れて、それを夜七時に思い出した時」
「周りが気づかないわけないでしょ……」
「だってその日、保健室行って早退したから。兄ちゃんは? 学校行きたくないって思うの、どんな時?」
「二十四時間、三百六十五日……」
「学校は年中無休じゃないよ?」

 下に降りたものの、拓海は飲み物を口にすると、部屋に戻ろうとした。茂は兄にしがみつく。
「僕を一人にしないで~」
「大丈夫。シゲは一人じゃないから。そこら辺に妖精さんたくさんいるから……」
「妖精さんは、一人じゃなくて一匹!」
「つっこむとこそこ……?」
「スマホガン見してていいから、ここにいて!」
「それ、何の意味があんの……」
「僕の新ネタ聞いて欲しい。あわよくば見て欲しい。そして感想が欲しい」
「シゲは欲しがりさんだね……」
 少しだけと妥協して座る。茂は早足でフリップを持ってきた。
「あの真面目なたけしくんが、遅刻してきた理由とは!」

 【マンホールにはまって動けなくなって救急車を呼んだから】

「抱えてるバッグがでか過ぎ! パンパンだよ! 何入れてんの? 密輸? 夜逃げ?」
 茂はフリップをめくる。
「あの真面目なたけしくんが、遅刻してきた理由とは!」

 【神に祈りを捧げていた】

「寝坊してしまったけど、遅刻になりませんように! 祈ってる暇があったら走りなさい!」
「あの真面目なたけしくんが、遅刻してきた理由とは!」

 【鼻くそ深追い】

「あら、鼻血が滝のよう! そこまでしてほじりたい?」
「あの真面目なたけしくんが、遅刻してきた理由とは!」

 【筋トレのためにほふく前進で登校していたら、通報されて事情聴取】

「周りの目をもっと気にして!」
 茂はフリップを次々とめくっていく。
「あの真面目なたけしくんが、遅刻してきた理由とは!」

 【納得のいく弁当が作れるまでやり直したから】

「全部真っ黒焦げじゃん! 潔く諦めようよ」
「あの真面目なたけしくんが、遅刻してきた理由とは!」

 【乗って来た人力舎が遅れていたから】

「自力できなさい! 自転車か何かで」
「あの真面目なたけしくんが、遅刻してきた理由とは!」

 【遭難していた】

「自宅どこ? 山奥? 出られてよかったね。ていうか引っ越そうね?」
「あの真面目なたけしくんが、遅刻してきた理由とは!」

 【悪魔と契約していた】

「書類めっちゃある! 何これ、残業の量じゃない? これは悪魔の配慮が足らないね!」
 拓海は目を向けてもいないが、気にせず茂は続けた。
「あの真面目なたけしくんが、遅刻してきた理由とは!」

 【脱獄に時間がかかった】

「今すぐ刑務所戻りましょう」
「あの真面目なたけしくんが、遅刻してきた理由とは!」

 【起きたら幽霊がいて、めっちゃ意気投合した】

「どんな過程があったら、お化けと仲良くなるんだろうか!」
 ネタが終了すると、拓海はようやくスマホから目を上げた。
「うん……面白かったよ……」
「その割に笑ってなかったじゃん!」

 お昼前、兄の部屋の扉をまたノックする。
「失礼します! 母の腹出身! 藤原家が四男、茂です!」
 拓海はゲーム中である。
「不合格……」
「うそーん」
 茂はめげずにMCを始める。
「最初のボケは不発に終わりましたが、まだまだ行きますよ? 題して、ゲーム対決コーナー! 兄ちゃんが勝ったらお菓子あげる。僕が勝ったらお昼一緒に」
「そんなのに釣られる歳じゃないけど……」
 そう言いつつ、応じるまで引き下がってくれないと踏んで、拓海は勝負を受けた。
「ちょっとくらい手加減してくれたっていいじゃん! そんなにツレハンいや?」
「ツレハンってなに……?」
「一緒にトイレ行くの連れションって言うんでしょ? だから一緒にご飯を連れハン」
「初めて聞いた……」
「朝も食べてないのにお腹空かないの? 兄ちゃん、胃袋ないの?」
 今日はやけに絡んでくる。
「はいはい……食べるよ……」
 二人でチャーハンを食していると、小春が帰宅した。
「あ、たっくんがいる!」
「いちゃ悪い……?」
「はいゆうごっこしよ!」
「嫌だ……」
「たっくん、えんじるのとよむほう、どっちがいい?」
 どちらかというと読む方だが、そもそもやりたくない。
「シゲと遊べば……?」
「さんにんがいい!」
 わがままな末っ子は、一度言い出して断ると面倒だ。
「じゃ、読む方ね……」
 食器を片付けて絵本を手にする。タイトルは鶴の恩返しだ。茂はかつらを被り、ひげをつけてスタンバイしている。
「ある寒い雪の日、おじいさんは町へたきぎを売りに出かけた帰り、雪の中に何かが動いているのを見つけました……」
「おやまあ、こんなところに大きな桃が!」
「それタイトル違ってくるから……」
「はっ、何奴っ! さてはお主、狂乱の鷹匠じゃな? ここであったが百年目! ほあ!」
 ボケで方向が変わってしまうと、小春がアドリブを入れる。
「たすけてください!」
「おじいさんは罠にかかっている一匹の鶴を見つけました……」
「おや? どこからか声が。気のせいかの?」
「ここです! おじいさん!」
「はて?」
「なわがほどけないんです! たすけてください!」
「アーハン?」
「はよたすけんかい!」
「おやおや可哀想に。カメさんや」
「鶴って言ってるでしょ……」
 茂はようやく縄を解く。これは長くなりそうだと、拓海はセリフを飛ばした。
「その日の夜、おじいさんの家の戸をたたく音がしました……」
「おお、今日は風が強いのう」
 小春は戸をたたき続ける。
「なんじゃ、怪奇現象か? 新手のスタンド使いか? 来るならこい。闇夜の不死鳥と言われたこのわしが、倒してしんぜようぞ」
 ふざける兄に妹がクレームをつけている間、気づかれないように拓海は退室した。付き合ってられない。精神が削られてしまう。

 夕飯が終わる頃、茂は三度目の訪問を果たした。
「坊ちゃま、お食事をお持ちいたしました」
「後で食べるよ……」
「食べないのなら、お風呂に行かれては?」
「後で……」
「坊ちゃま? 後でなどと怠慢な考えはお捨てください! あなたは次期当主になられるお方ですよ」
 納得のいく絵が描けず、イライラが募っていた拓海は爆発した。
「もう、そのボケうざい……! 誰の差し金? 朝から勝手に部屋のものいじるし、やたら誘ってくるし、構ってほしいなら他あたってよ」
「でもご飯は食べないとだよ」
「食べたい時に食べるよ……! そういうのお節介だから、ほっといてくんない?」
「そういう人ほど、ほっといたらいけないの!」
 引き下がらない弟にムキになる。
「あのさ、俺とシゲは違うの。どんな時でも笑ってられるほど根性ないの。わかる? 毎日休まず学校行けてえらいと思うよ。健康的な生活送ってさ。でもね、それは誰にでもできることじゃない。弱い俺には無理……」
「兄ちゃんは弱くないよ? だってアニキに口で勝ってるもん」
「いいからほっといて! お前と話してると頭痛くなる!」
 つい怒鳴ってしまった。はっと気づいた時には、弟の笑顔がいつもより堅く感じた。
「ありがたきお言葉!」
 胸に手を置き、茂は一礼して去った。絶対皮肉だ。悪いとは思うが、構わなければこうはならなかったと言い訳する。
 部屋を出た茂は沈んだ。兄はどうすれば笑ってくれるだろう。一人でいる限り笑えないはずだ。母も兄も踏み込むことなくそっとしている。本当にそれでいいのか。
 落ち込んだ時には、必ずアルバムを開く。小さい頃、三男と公園に行った時の写真を眺める。面倒見がよくて、ミスした茂にクスクス笑って教えてくれた。この頃はよく一緒に寝た。絵本を読んでもらうこともあった。
 茂はアルバムをパタンと閉じた。名案が浮かんだのだ。

 拓海は、他の兄弟より一足遅く風呂へ入る。髪を洗いながら思う。やっぱり切った方がいいか。食べる時に邪魔になる上、洗うのも乾かすのも面倒だ。とはいえ、美容室に行く勇気などない。店員と上手く話せる気がしない。知り合いと鉢合わせでもしたら、と思うと怖い。
 風呂から上がって部屋に戻ると、茂が待機していた。
「僕今日、兄ちゃんと寝る」
「は?」
「一緒に夜更かしする」
「やめときなよ。小学生がそんな生活したら……」
「二年前まで小学生だったくせに」
「……わかったよ。あと、ごめん。さっきは言いすぎた……」
「兄ちゃん、滅多に怒らないからレアだね。今日はついてる!」
 傷ついたはずなのに。何でそうやって取り繕うの。
 次男がいびきをかく中、二人はスマホゲームで対戦した。
「兄ちゃん、つよっ!」
「伊達に毎日やってないからね……」
「このアイテムどうやって取るの?」
「これは……」
 真夜中になると、さすがにうとうとし始めた。
「寝れば……?」
「兄ちゃんが寝ないなら、寝ない」
 変なところで意地を張る。起こしておくのも可哀想だと、早めに寝ることにした。
「狭い……」
「そりゃ大きくなったもん。僕も兄ちゃんも」
 シゲは確かに成長して、しっかり者になった。だが俺は、むしろ昔の方がしっかりしていた気がする。少なくとも、学校に行けるくらいには。
「シゲ、昔は人見知りだったよね。幼稚園に入る前……」
「そんな時期もあったね」
 当時は知らない人がいれば、俺の後ろに隠れていた。今や進んで前に出るようになっている。
「何があったら、人見知り治るの……?」
「んーとね、兄ちゃんが困ってたから」
 情けない兄を反面教師にしたわけか。じゃあ俺は、誰を反面教師にしたらいいのだろう。人見知りが治る薬があるなら欲しい。
 弟の寝息に釣られるように、まぶたを閉じた。

 拓海は、夜の学校に閉じ込められていた。先生や生徒が武器を持って追いかけてくる。兄弟たちは鏡の中で楽しそうにしている。助けを求めても、誰も気づかない。鏡の中にも入れず、捕まって吊るされた。刃が迫った時、拓海は目を覚ました。
 隣で寝ていた弟の姿はない。学校へ行ったのだろう。ふいに寂しくなった。
 みんな俺を置いていくんだ。手を引こうとしても拒む俺を、見捨てていくんだ。
 髪の毛が邪魔くさい。でもバリカンで剃りたくはない。せめて美容室を貸し切りにできたら……。いや、店員にビビっているなら同じことだ。誰かが付き添いで来てくれれば行けるかもしれない。だが、弟に頼みたくはない。言えば来てくれるだろうが、俺自身が情けなさを痛感する。
 兄たちに言っても無駄だ。京太郎は根性論で、誠司は屁理屈で返してくる。とはいえ、このまま伸ばし続ければ茂の言う通り、貞子みたいになってしまう。それを見た時、みんなは笑うだろうか。からかうだろうか。切った結果、失敗したらどうなるだろう。こんなことで一々悩んでいたら、キリがない。
 京太郎みたいに、何も気にしないバカでいられたら楽なのに。
 カーテンを開けて窓の外を覗くと、雨が降っている。太陽は雲に隠れて見えない。
 俺は明るい未来が想像できない。俺が生きる意味って何。迷惑かけてばかりで何も貢献できない。毎日ありもしないことを考えて、現実逃避しているだけだ。
 クラスメイトが全部AIだったらいいのに。外出なくても稼げる方法があったらいいのに。全て察してくれる友達がいたら楽なのに。怖いもの知らずになる薬とかないかな。
 ないものねだりしたって、前には進めない。誰かに弱音を吐いたって、俺が傷つくだけだ。それを拾ってくれる人がいないのだから。こんなにもがいても、家族ですら俺のSOSに気づかない。俺なんて、いてもいなくても同じだ。むしろいない方が、みんなは楽かもしれない。悩みの種なんて、なくなった方が肩の荷が下りるだろう。
 このまま役立たずでずるずる生きるよりも、今ここで……。

 拓海はいつのまにかベランダに出ていた。手すりに座って、雨に打たれる町を見下ろす。ここから落ちても死ねないか。わざわざ痛い思いをして入院するのは嫌だ。飛び降りる勇気
もない。生きる理由もない。じゃあ俺はどうすればいい。誰か教えてよ。
 帰宅の音がする。小春と母だ。妹に遊ぼうと誘われても、その気力はない。寝たふりをしておこうと、拓海は布団に戻った。
 しばらくして、茂も帰って来た。ノックの後、敬礼で部屋に入ってくる。
「自宅警備員、お疲れ様です!」
「何、嫌味……?」
 寝転んで何もした形跡がないのを見て、茂は悟る。
「今日ずっと寝てたの?」
「まあね。やる気がなくて……」
 気づけば口に出していた。
「ねえシゲ、もし俺が死んだらどうする……?」
「兄ちゃん、死にたいの?」
「……」
「んー、もし兄ちゃんが死んだら、笑って見送る。泣き顔じゃ成仏できないでしょ」
 茂は小春に呼ばれて立ち去る。拓海の目からは涙が溢れていた。
 違う。そういう言葉が欲しいんじゃない。
 ひとしきり泣いた後、キッチンに飲み物を取りに行く。すると、風呂上がりの長男と鉢合わせた。
「お前、それ暑くねえの?」
「何が……」
「髪」
「家はエアコンついてるから……」
「ハルにヘアゴム借りたら?」
「嫌だ。可愛いのしかない……」
「じゃあ切ってこいよ。見てるこっちが暑い」
「人が全然来ない美容室ってある……?」
「本当にそんなとこあったら、怪異現象か赤字だな。シゲに聞けば? あいつ意外と穴場知ってるし」
 それから数日、風呂でも食事でも邪魔に感じた。次男にも「お前、目見えてるか? それ」と指摘されるようになった。腹を括って切ろうと判断し、学校から帰った弟に相談する。
「少ないとこ知ってるよ。僕の行きつけでね、来るのは白髪のイケてるお兄さんと、しわすらおしゃれなお姉さんくらい。行ってみる?」
「うん、さすがに行かないと……」
 仮に死んだとして、棺桶に入れられた時にこれでは、バカにされるような気がした。一度決意したとはいえ、迷いはあった。まともに外へ出るのも久しぶりだ。
「今日、一緒いく?」
 渡りに船で、速攻頷いたものの、着替えに時間を取り、しまいには——。
「行きたくない……」
「美容師さん、穏やかな人だよ」
 無反応の兄に茂が宣告する。
「じゃあ気絶して? 僕が引きずってくから」
「それも嫌だ……」

 重い腰をやっと上げて、フードを深くかぶる。ずっと下を見て歩く兄に茂は声をかける。
「見て! この清々しいほどの曇り空を!」
「大声出さないで……」
 見られているはずないのに、周りが気になる。俺のことを悪く言ってるかもしれないと、不安になる。
 美容室が見えてきた。足を止めた拓海は、堪らず弟に頼んだ。
「誰かいるか見てきて……」
「イエスマイブラザー、仰せのままに」
 電柱の陰や自販機の陰から顔を出し、SPばりの動きで辺りを警戒しながら、店の中を覗く。
 逆に目立つからそれやめて。
 そして、茂はわざわざスマホにかけてきた。
『美容師さん二人に対し、客は一人もおりません! 突入するなら今です。隊長!』
 お前は普通に振る舞えないのかとツッコミたくなるが、少し緊張がほぐれた。
「あらいらっしゃい」
 出迎えたのは、母と同年代くらいの縁なしメガネをかけた女性だった。
「イズミさん、うちのお兄たまの髪を切ってくださいませんこと?」
「ええ、もちろん喜んで」
 弟の唐突なボケにもやんわり乗ってくれた。シャンプーは気持ちよくて寝そうになった。だが、せっかく薄れていた緊張感はすぐに戻って来た。どんな風にしたいかと聞かれて言葉に詰まる。ただ一つ要求があるとすれば、伸びる前の自分なのだが、相手は以前の状態を知らない。
「いっそモヒカンにする?」茂が提案した。
「ふざけないでよ……!」
「ふふ、肩につく方がいい? それとも耳を出すくらいがいい?」
「あんまり短いのは……」
「じゃあ、邪魔にならない程度に切ってみる?」
 この際、変でなければいいと頷いた。誰か来る前に早く帰りたい。そんな焦燥感を必死に抑える。会話が苦手なことを察したのか、弟に時々話題が振られた。
「そろそろ水泳が始まる頃よね。茂くん、泳げる?」
「足ついていいなら泳げる」
「バタ足するのに、どうやって足をつくの?」
「ほら僕って四足歩行じゃない? だから前足は浮かせて後ろ足は地面につけるの」
「ケンタウロスか何か?」女性は微笑を浮かべた。
 拓海は別の意味で帰りたくなる。シゲ、それ以上恥を晒すな。
「二十五メートル泳いだことある?」
「うん、犬かきで」
「それクロールより大変じゃない?」
「大変だったよ。泳ぐの遅いからみんな手拍子して『おいで』って応援してくれたんだ。松
本くんには『はよ泳げ、人面犬』って怒られたけど」
「茂くんのクラス、とっても楽しそうね」
 なぜそんな悪目立ちして馴染めるのか、謎だ。そんなことを考えていると、いつのまにか
切り終えていた。店を出た時には、怖がっていた自分がバカらしくなった。
 そうだよね。世界の人間、全部が意地悪なわけじゃない。みんな、あの人みたいに優しか
ったらいいのに。

 心が温かくなった俺は、帰り道に油断していた。小学校時代の同級生に遭遇してしまったのだ。
「え、藤原? 藤原だよな?」
「藤原ですが何か?」茂が代弁する。
「何でこんなところにいんの?」
 いちゃ悪いのかと反発する心を抑え、控えめに声を出す。
「引っ越してきたから……」
「背伸びたな! こっちは弟?」
「はい! 弟であります! ですが急ぎの用事があるので失礼します!」
 俯く兄の手を引いて走る。
 家に着くと、拓海は息を切らしていた。黙って部屋へ戻り、ベッドに横たわる。弟が手を引いてくれなければ、気を失っていたかもしれない。それくらい動揺していた。今も動機が治まらない。
 元クラスメイトでも一緒に遊んだことなんかないし、なんて返していいかわからない。あの一瞬で、俺のメンタルはズタボロだ。何か言われたわけでもないのに。嫌な思い出があるわけでもないのに。ただ、どう言えばいいのかわからないのが嫌なんだ。
 外なんか行くんじゃなかった。今度行く時は、母さんに車乗せてってもらおう。なんで俺、こんなにヘタレなんだろう。当たり障りのないことを言って、立ち去ればよかったんだ。あれじゃ、「なんだあいつ」って目をつけられてもおかしくない。中学が同じじゃなくてよかった。でも、今後会わないとも限らない。
 どうしたら克服できるんだろう。シゲみたいに、堂々と受け答えできたらどんなに楽か。これはもう病気だ。俺はまともに人と話せない。集団の中にもいられない。とはいえ、独りも嫌だ。気楽ではあるけど、時々死にそうなくらい寂しくなる。俺ってめんどくさいやつだ。

 もういいかいと問いかけながら、鬼が足音を立てて近づいてくる。じわじわ押し寄せる恐怖から解放されたい。早くリタイアしたくてたまらないのに、もういいよと言えずに震えている。息をひそめたまま見つからずに、ずっと取り残されている。鬼はとっくにいなくなっているだろうに。それでも隠れた場所から出られない。


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