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笑う門には福来る    第1話 急がば回れ

 茂には、三人の兄と一人の妹がいる。茂は長男と同じ部屋であった。朝目を覚ますと、隣に敷いてあった布団は片付けられている。シャーっとカーテンを開ければ、日光が部屋を照らす。ひと月前まで新鮮だった窓の景色は、日常の一部となった。

 藤原一家は引っ越したばかりである。茂は鼻歌を歌いながら、真新しい階段を降りた。
 妹の部屋の扉をノックして、そっと開ける。手をマイクに見立て、小声で足を踏み入れた。末っ子はベッドに横たわり、寝息を立てている。さて、どう起こしたものか。布団をはぐのは面白くない。大きな物音では不機嫌にさせてしまう。

 茂はぬいぐるみを出して、アテレコを始めた。
「おい、大変だ! 女の子が倒れているぞ」
「何? 人間だと?」
「女の子だ! わーい! うちにおいで」
「メス豚じゃねえか。鍛えがいがありそうだな」
「レスキュー隊を呼べ!」
「ファイト! 死ぬな!」
「そっとしておこう。来世はきっと幸せになるよ」
 妹が布団から出てきた。
「しんでないもん!」
「おはようハルちゃん、いい天気だね」
「かってに『にんぎょう』さわらないでよ」
 茂はぬいぐるみを手に、声を当てる。
「あら、ごめんあそばせ。ハルちゃんには楽しく起きて欲しかったの。いきなりお布団はがされるの嫌でしょう?」
「もとにもどしてよ? それ」
「イエスマイシスター、仰せのままに」
 二人でリビングに向かうと、キッチンから油の跳ねる音がして、香ばしいにおいが漂う。
 母は忙しなく手を動かし、子どもたちの朝食を用意する。長男の席には、空のマグカップが置いてあった。

 茂がパンにかぶりついている間に、次男が珍しく早く起きてきた。ツンツン頭が寝癖で余計に跳ねている。次男は制服を着ながら席に着いた。
「やべえ、あと五分で出ねえと! 母さん、飯!」
「はいはい」
 次男の前に置かれたのは、大きなおにぎり三個、卵、ソーセージ五本、パン二枚、ヨーグルト。その全てが、吸い込まれるように次男の口へ入っていく。
「のどつまらせるよ?」末っ子が注意する。
「うるせえ、急いでんだよ」
「きたないたべかた!」
「あ?」
 キレそうな次男に、茂はすかさずフォローを入れる。
「僕はワイルドでいいと思うよ! アニキらしい」
「さすがシゲはわかってんな! ハルはまだガキだから、オレの魅力がわかんねえんだよ」
 次男は妹を小突き、トイレへ直行する。その背に母の声がかかった。
「こら! 皿持って行きなさい!」
「シゲ! 持ってっといて!」
 バタンとドアが閉まった。末っ子が食べ終えても、次男はトイレから出てこない。末っ子は扉を叩いて催促した。
「待てって! 今出てんだよ!」
 二人の口論に母の声が割って入る。
「ハルも皿片付けて!」
「あとで!」

 用を足した次男は、急ぎ足で洗面所へ向かった。茂は、無言で二人の皿を洗い場へ持って行き、そのまま次男の後に続く。そこには、眠そうに目をこする三男の姿があった。
「ちょっと水散らさないでよ……」
「遅刻ギリなんだよ! しょうがねえだろ」
「高校生にもなって情けない……」
「寝坊くらい誰でもやるっての! むしろ今日は早いくらいだよ」
 茂は次男に差し入れた。
「どうぞ、おタオルでございます!」
「あんがと……って雑巾じゃねえか!」
「うるさいから早く出発してよ。あとつっかえてるし……」
 三男が催促する。
「わーってるよ!」
 急かされながら整髪剤を使う兄に、三男は呆れ顔で言う。
「高校デビュー? 大して変わんないからさっさと退いて……」
「お前さっきから毒しか吐いてねえな! 反抗期か」
 三男はあくびを返した。
「朝飯ちゃんと食えよ?」
「いらない……」

 忙しない次男を見て、茂は思う。初登校で緊張しているのでは? と。肩に手を置き、親指を立てる。
「友達、できるといいね!」
「ケンカ売ってんのか」
 茂が顔を洗って歯を磨き、リビングに戻ると、次男が苛立った口ぶりでうろついていた。
「母さん、靴下どこ?」
「洗濯したの渡したでしょ! 自分で置いたんだからわからない?」
「違うの履いて行けば?」と茂は提案する。
「指定のやつなんだよ!」
 パジャマを脱ぎっぱなしにしている次男に、母の指示が飛ぶ。
「今、靴下探してっから無理!」
 声を荒らげる次男に茂が差し出す。
「これじゃない?」
 クリスマスカラーの靴下だった。
「色見てわかるだろ! これじゃないって」
「じゃあこれは?」
 今度は母のストッキングだ。
「これが指定だったら、校長の頭を疑うわ!」
「あ、そっか! アニキにとってストッキングは、履くものじゃなくて被るものか!」
「いつ被ったよオレが! お前探す気ねえだろ」

 結果、末っ子が見つけた。
「でかした!」
「ありがとうは?」
「ありがとうございました!」
 ヤケクソに言い放つ次男に、末っ子が諭す。
「そんなんじゃ『かのじょ』できないよ?」
「うるせえ、マセガキが」
 茂はすかさずフォローに入る。
「大丈夫だよアニキ、二次元にはいくらでも女の子いるし」
「もはやそれ諦めてんじゃねえか!」
 次男は時計を見て、舌打ちをする。靴下を履くと、すぐさま玄関へかけていった。余裕がないのか、母の確認にも叫んで返す。
「何時に帰るの?」
「昼前!」
「お昼いるの?」
「なんか適当に食う!」
 分別したゴミ袋を縛り、母は次男を追う。
「キョウ! 出るついでに出してきて!」
「はあ? オレ自転車なんだけど! シゲ、任せた!」
「任された!」
「全く、なんでも弟に押し付けないの!」

 出発する次男を、茂は見送りにいく。
「ハンカチ持った? ネクタイ曲がってない? パンツちゃんと履いてる?」
「履いとるわ! 何の確認だよ」
「いってらー」
 兄は鼻を鳴らして外へ出た。
 十分後、着替えた末っ子が皿洗い中の母に、服を見せびらかす。
「どう? かあさん」
 母は手を止めて、笑みを浮かべる。
「さすがハル、似合ってる」
「でしょ!」
 幼稚園転入で制服が変わったのだ。1年通うだけのために、新品を買う余裕などないため、中古である。茂も同様に、テレビのニュースを聞き流しながら、新たな学校の制服に袖を通す。
「かあさん、かみむすんで!」
「ちょっと待って!」
 茂は洗面所へ向かい、妹の後ろに立つと、髪をとかし始めた。
「今日は何色のゴムにされますか?」
「ピンク!」
「こちら、サクラモチ・ピュア―、カマボコ・インターナショナル、ハイテク・ストロベリー、ナマニク・ショートがございますが」
「よくわかんないから、ほかにない? っていうかぜんぶパチモンでしょ?」
「では、黒でどうでしょうか」
「いろかわってるじゃん!」
 結ぶ技術はないため、母に交代する。
「シゲ、そろそろ出ないと遅れるよ?」
「あらま」
 微塵の焦りも見せずに、茂はランドセルを背負う。教科書のないランドセルはとても軽い。知らぬ間に三男も出発したようだ。慌てることなく靴を履き、元気よく「いってきます!」と家を出た。
 途端、トラックが横切ってガスのにおいを食らったが、歩みは止めない。

 登校班の集合場所である公園に着いたものの、誰もいなかった。置いていかれた事実にめげることなく、茂は公園を後にした。落ち着いてはいるが、実は学校の場所がわからない非常事態であった。周囲の人に聞くほかない。

 犬が吠え、鳥が鳴く住宅地を通り、歩道に出ると梅の咲いた木が出迎えてくれた。車が横を走る中、誰に聞こうかとあたりに視線を巡らせる。畑仕事の老人がのんびりマイペースに作業をしていた。
「すいませーん! この辺に小学校ありますか?」
「学校? あそこの踏切渡ってまっすぐだよ」
 感謝の意を伝えて、踏み切りへ向かう。遮断機が下りてきて、ガタンゴトンと電車が通る。窓からぎゅうぎゅう詰めにされた、通勤通学途中の人たちが見えた。

 線路を越えた少し先にあるバス停には、登校中の学生が次々と乗り込んでいる。そんな中、歩みの遅いおばあさんが腰を曲げて、段差を上ろうとしていた。茂は駆け寄る。
「お手をどうぞ、マドモアゼル」
「あら、どうもありがとう。何年生?」
「六年生でございます」
「まあ、お兄さんになったのね。頑張って」
「はい!」
 歩道橋の下を歩いていくと、今度はベビーカーを押して歩く若い母親が、疲れた顔をしているのが見えた。泣き出す赤子にため息を吐きながら応えている。茂は辺りを見渡し、近くに生えていたタンポポを持って歩み寄った。
「初めましてベイビー、出会った記念に笑顔をプレゼント」
 ふっと息をかけて綿毛を飛ばしてみせると、赤ちゃんは泣き止んで手を伸ばして笑う。変顔をすると、さらに楽しそうにキャッキャと笑顔を見せてくれた。
「すいません、村崎小学校ってどこですか?」
「えっと、この先の信号を三つ通り過ぎて、左に曲がって……」
 説明を受けて礼を言えば「こちらこそ。ありがとうね」と微笑と共に返された。

 マイペースな茂でも、さすがに寄り道しすぎたと反省し、走る。ファストフード店やパン屋を一気に通り過ぎるも、飛び出し注意の看板には従い、横断歩道の前で止まる。
 チャリティーランナーよろしく、茂は息を切らして校門をくぐった。花壇にはチューリップやパンジーが咲き、飼育小屋ではうさぎが穴から顔を出している。

 教室のある校舎はどちらだろう。クラス表はどこにあるのか。靴箱の場所もわからない。全てを解決するのは先生だ。職員室に行けば担任がいるだろう。早速、外に出てきた先生を見つけて尾行する。上履きに履き替えて中に入ると、先生は校長室に入っていった。その近くに職員室のプレートを発見し、扉を開けた。
「失礼します! 転入生で新六年の藤原茂です! 僕は何組ですか!」
 静寂が訪れた後、先生たちが目を合わせる。
「藤原くんね? ちょっと待って」

 職員室を見渡すと、コピー機や書棚、整頓されたファイル、先生の机、お知らせの書かれた小さな黒板、フックにかかる鍵が視界に入る。
「俺のクラスだな。一緒に行こうか」
 先生は茂を連れて職員室を出る。第一印象は「あいさつできていい子」だったのだが――。
「ハテナ先生、いくつ? 高校生?」
「高校生が教師やってるわけないだろ。今年で26、あとハテナじゃなくて」
「名無し?」
「いやちゃんとあるから」
「モブ田モブ男先生、僕は何組?」
「名前言ってないからって、とりあえずモブっていうのやめような? 俺のことは南雲先生って呼んでくれ」
「なぐもん先生、僕は何組?」
「一組」
 ゆるキャラみたいなあだ名をつけられた。教室の外で待てと言うと、
「なんで僕だけハブなんですか? 入れてくださいよ」と異論を唱えた。
「ハブじゃない! 他の子は繰り上がりで見知ってるから、ちゃんと紹介したいんだよ。新しい仲間が増えますよって」

 指示に従った転校生を確認し、南雲は教室に入る。生徒たちの視線が一気に集まった。
「あ、南雲先生! おはよう!」
「おはようございます、だろ? 今年もよろしくな」
「南雲先生、ちょっと老けた?」
「最後に会ってから一ヶ月も経ってないぞ」
 和気あいあいとした教室である。
「えー、今年で最後なわけだが、新たにクラスメイトが増えることになった。藤原茂くんだ。入っておいで!」
 だが、一向に扉は開く気配がない。廊下を見ると、転校生の姿がなかった。不審に思いながら教室に戻ってみると、すでに座っていた。
「なぐもん先生! 僕の席はここですか?」
「い、いつのまに……」
 大方、後ろの扉からそっと入ったのだろう。
「席はそこであってるけど、自己紹介してくれるかな?」
 茂は咳払いをして元気よく答える。
「転校生の受験太郎です。母さんのお腹から来ました。特技は死んだふり。好きなものはみんなの笑顔。365日よろしくお願いします!」
 一瞬、教室中がポカンとしたが、次第にクスクス笑いがそこかしこで発生する。クラスメイトは思った。変なやつ来た。
 南雲が困り顔で紹介する。
「えっと、藤原くんね。色々教えてあげて」
 最初の印象が「個性的な子」に変わった瞬間だった。



 出席番号順に並び、体育館で校長の話を聞き、教室に戻ってたくさんの書類が配られた。茂は、前から来るはずの紙が止まったままなのに気づき、身を乗り出す。前の席には、寝
癖のついた小柄の男の子が伏せている。寝ているようだ。名前がわからないため呼びようが
ない。自分より前なら「ふ」か「ひ」で始まるはずだ。茂はダメ元で呼んでみる。
「日高くーん」
 返事なし。
「平川くーん」
 反応なし。
「日野くーん」
 振り返る気配がない。
「藤本くーん、深川くーん、二間くーん、古谷くーん」
「藤丸だよー」
 藤丸は、ふにゃっと笑って書類を送る。
「マルちゃんって呼んでいい?」
「ダメって言ったらー?」
「えー、いけず」
「いけずな男は嫌いー?」
「大好きっ」
「ありがとー、いいよマルちゃんで。よろしく、しげるん」

 仲間を見つけた喜びに浸る間もなく、後ろの席のメガネくんから声がかかる。
「おい転校生、早く回せよ」
 頭文字は「へ」、それとも「ほ」だろうか。
「ごめんね。へのへのもへじくん」
「松本だ、バカ」
「まっつんは頭いいの?」
「変なあだ名つけんな」
 学校が午前で終わり、帰り支度を始める生徒たちは、茂の元に集まってくる。
「お前面白いな!」
「なんで遅れてきたの?」
「トレカやってる? やったことなかったらデッキ貸すからさ、対戦しよ!」
 茂は押し寄せる質問に、一つ一つ答えた。
「ありがとう! 最高の褒め言葉! 遅れたのは、鼻くそ深追いしすぎて鼻血止めるのに
時間かかったから。トレカは兄さんがやってたのがあるよ」
 下校時間にも質問は止まない。
「前の学校どんなだった?」と聞かれれば「こんなだった」と変顔を返す。
「ははっ、なんだそれ!」
「兄弟いるんだよね? どんな人?」
「めんどくさがりでゴリラで繊細」茂は三人の兄をごっちゃ混ぜにした。
「ゴリラ⁉ 見てみたい!」
「お母さんとお父さんは?」
「ガミガミマミーとゆるゆるパピー」

 笑いの絶えない帰り道だったが、一人だけ笑っていない者がいた。茂の後ろの席にいた、
松本だ。
 変なやつ。自分の名前もちゃんと言わない非常識っぷり。人当たりは良さそうだけど、笑
顔がうさんくさい。クラスにはなじめるかもだけど、俺は関わりたくないな。いきなり名前
も聞かず変な呼び方してくるし、それで距離詰めようとしてんのか。その手にはのらな
い。

 一同はガードレールに沿って歩き、踏み切りまで来ると、茂は松本と2人きりになった。
「家この辺なの?」
「あそこ」
 松本が指したのは、立派な松の木のある家だった。忍者が走っていそうな瓦屋根である。そ
の日本家屋は、藤原家の目と鼻の先にあった。
 松本は自分の気持ちをまっすぐにぶつけた。
「お前なんか変、それで笑ってるつもりか? ずっと笑顔なの不自然だろ」
「……笑おうよ。どんな時も」
 春風で髪がなびき、地面に落ちている桜の花びらが躍った。
 松本は鼻を鳴らして家へ入っていった。一瞬、笑顔の中に悲しげな影が見えた。その表情
が、なぜだか頭から離れなかった。

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