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笑う門には福来る 第21話 年寄りの冷や水

 誠司は布団を出て身震いした。朝の冷えた空気に、嫌でも目が覚める。誠司は今日、入試を控えている。進路変更して、教育系の学校へ行くつもりだ。
 支度している間、同室の弟は眠っていた。テストで0点取ったり、やたらスベるようになったその様子に、疑問を持ちながら部屋を出た。
 入試の日くらいは何か食べようと、席につく。茂が目をこすりながら起きてきた。
「おはよう兄さん! いい天気だね!」
「雨降ってるぞ」
 二人はあたたかいおにぎりと味噌汁を口に運ぶ。
「シゲ、最近ボケのキレないよな」
「そうなんだよね! なんかインスピレーション湧かないっていうかさ、松本くんにも言われたんだよ。どうすればいいと思う?」
「調子が悪い時は休むのが一番だろ。俺が風邪引いた時、お前がそう言ったんじゃん」
「はて? わしはそんなことを言うたかの?」
「お前は十分助けてくれてる。無理して笑い取ろうとすんな。笑い以外に取柄なんか山ほどあるだろ」
「そう! 兄さんその調子! いい労いだったよ! 面接もそんな感じで頑張って」
 茂は辛気臭い空気になると、必ずボケに走る。本音を話させることは試験より難問だ。
 玄関で靴を履く兄を、茂は見送る。
「大丈夫だよ、兄さん。兄さんには試験の神様がいっぱいついてるからね! 国語の神、数学の神、面接の神など」
「逆に怖えよ、その絵面」
 会場につくと、気を張りつめた人が多く、一言も口を開くことなく復習に励んでいた。誠司はさほど緊張することもなく、淡々と目を通す。頭の中は試験のことより、茂のことでいっぱいだった。
 いつから貼り付けた笑みを浮かべているのか。いつから調子を崩しているのか。原因は何なのか。

 一方、茂はピアノ教室に出かける小春と母を見送り、拓海と雑談をして、京太郎を叩き起こしてバイトに向かわせた。
 部屋で宿題に取り組んでいる間、何度も大欠伸が出る。昼寝でもしようか。最近ずっと寝不足だ。
 数時間後、母が帰ってくる音がして出迎えようとリビングへ向かったが、その姿はなかった。探し回ると、物置部屋にいた。物言わず、床に横たわった姿で。茂は頭が真っ白になった。声が出ず、体が強張る。深呼吸して、呼んでつついてみるも反応がない。
 どうすればいいのかわからない。頭が上手く回転しない。兄を呼ぼうと廊下に出ると、試験を終えた誠司が帰宅した。茂は血相を変えて走り寄る。
「兄さん! 母さんが!」
 誠司が現場に向かうと、すぐに呼吸の確認をする。
「息はしてるけど、意識がないな。ぐったりしてる。シゲ、119で救急車」
 震える手でスマホを操作する。誠司は母に怪我がないことを確認し、リビングの窓の方へ運んだ。玄関より広くて車が停まりやすいのだ。そして、保険証とお金を用意する。
 拓海が事態に気づいて、青い顔をして出てきた。茂も、いつもの笑顔が消えている。
「とりあえず俺が同行するから、お前らはキョウと親父に連絡して、ハルを迎えに行ってくれ。それと、ハルには母さんが病院に行ったとだけ伝えろ。いいな?」
 弟たちは頷いた。
 救急車が到着し、誠司は家を出る。よく見ると、母の目元にはクマができていた。最近は顔をまともに見ることがなかった。母が忙しなかったこともあるが、気づけたはずの違和感だった。
 病院の待合室で腰を下ろす。周りの雑談の声は遠く、脳内には嫌なことばかりよぎる。
 家事は分担できなくもないが、末っ子への傷は深くなる。父はどのみち、仕事で家に帰ってこられる時間が少ない。俺が親代わりになるべきか。いや、無理だ。母という存在の大きさを今になって痛感した。最近ようやく変われたと思っていたが、まだまだ頼りない子どものままだ。
 矢継ぎ早に不安が顔を出しては、気持ちが落ち込む。底なし沼にハマっているようだ。大丈夫。まだ何も聞いてない。医者の報告を待とう。

 病室に招かれると、母は眠っていた。
「ストレスと過労だね、これは。大事には至らないが、二週間ほどの入院は必要かな」
 誠司はほっと胸を撫でおろす。母のパート先に欠勤の連絡をする。母の状態をスマホで全員に共有し、余計な心配をさせないように手を打つ。
 父から連絡が来た。声が震えている。
『か、母さんは無事なんだろうな? 手術とかするのか? 会社には休みもらったから、明日そっち帰る』
「メッセージ見てねえの? ストレスと過労。大したことないってさ」
『そうか。ならよかった。いや、何もよくない! 仕事量とか家事の分担とか、考えないとな。僕の出張もなんとか減らせるようにしないと。やっぱり家のこと一人じゃ負担が……』
 自分より動揺している父の様子に、気持ちが落ち着く。
「帰ってから考えろよ。そういうの」
 電話を切ると、母が目を覚ました。
「おはよう母さん」
「……え、誠司? 試験は?」
「終わった」
「はっ! パートの時間!」
「もう休む連絡入れといた」
 医師から説明を受けた母は、ため息をこぼした。
「ごめんね? 毎日やることばっかりで時間が過ぎて、中々相談とか乗ってあげられなく
て……」
「乗ってたじゃん。つーか、進路資料とか用意するのは母親の仕事じゃない。本人の仕事だ。
むしろ謝りたいのはこっちの方だよ。家事一つも手伝ってやれなかった。二週間、なんとか
みんなでやってみせるから。こっちのことは心配すんな。母さんから見たら子どもだろうけ
ど、もう自分でいろいろできる歳なんだし」
 母は泣いた。自分の情けなさと、頼りになる長男への安心感に。
「じゃ、早速で悪いんだけど、家事のこと教えてくれる?」

 泊りの荷物を準備するために、誠司が一度帰宅すると、兄弟会議が行われていた。その空気は通夜のようだった。
「俺、母さんに酷いこと言った。自分のことで精一杯で……」
「誰が悪いって話じゃないよ。これは、全員の問題なんだから」
「これからどうする?」
「家事分担して、なんとかするしかねえだろ」
 誠司の声に、三人が肩を揺らす。今気づいたという反応だった。
「おかえり兄さん! 僕何すればいい? どうすればいい? 何でもするよ? 母さんのためなら例え火の中、水の中、夢の中!」
 誠司の指示により、三人は母の着替えやタオルを集める。小春と誠司が母の元へ荷物を届けに行く間、三人は今夜の夕飯を作る。
 まずは無難なカレーに挑む。京太郎が箱の裏を読み上げた。
「鍋に油を入れて、具材を」
 黙り込んだ兄に茂が首をかしげる。
「どしたの?」
「ちゃーめる? これなんて読むんだ?」
「いためるだよ。何? ちゃーめるって……」
「炒飯のちゃーだろ? 間違ってねえじゃん!」
 拓海はため息をつき、兄から箱を取り上げた。
「玉ねぎ四個……」
 包丁は弟に任せ、京太郎は皮むきを担当する。だが、中々めくれない。一気にいきたい気持ちとは裏腹に、すぐに千切れてしまう。
「くそっ! なんだこいつ!」
「僕に任せて!」
 茂は手際よく半分に切ってから、さっさと剥いていく。皮むきもまともにできないのかと、京太郎は自分が情けなくなってきた。
「そこ邪魔だから、あっちで米でも洗ってなよ……」
 京太郎は戦力外通告に大人しく従った。シャカシャカと音を立て、とぎ汁を流す。その際、米も一緒にこぼれてしまった。
「下手くそ……」
「うるせえ!」
「アニキ! ここにざるという画期的で近代的な便利グッズが!」
「でかした!」
「ざるって昔からあるよ……」
 しばらくすると、茂が手を止めた。玉ねぎの攻撃にやられたのだ。
「アニキ! ゴーグル! 水中メガネ持ってきて!」
「は? 何でだよ」
「いいから早く!」
「そんなもんつけてどうすんだよ?」
「アニキ知らないの? これつけると、玉ねぎの攻撃を阻止できるんだよ?」
「マジで⁉」
 実践して感動する兄を見て、拓海は呆れ果てた。
「キョウ、炊飯は……?」
「ちゃんとセットしたって! いくらなんでもそれくらいできるっつーの」
 しばらくして、誠司と小春が帰宅した。
「カレーだ!」
 出来は良かった。だが、別のところで問題が発生する。
「おいこれ、炊けてないぞ?」
「は⁉ そんなわけーー」
 炊飯スイッチが押されていなかった。
「……あったわ」
「あーあ、キョウちゃんのせいでゴハンおくれるじゃん」
 母の入院を聞いて、小春はショックを受けていた。だが、母の元気そうな顔を見て、受け入れることができていた。泣き言は吐くまいと決めていたが、文句にそれは適用されなかった。
「しかも、みずおおすぎ! おかゆになるとこだったよ! これやったのだれ?」
「さっきこれくらいできるって言ったの、誰だっけ……?」
「はい!」
「やめろシゲ! その優しさが逆に苦しい!」
 改めて炊き直し、誠司は切り出した。
「さて、この時間をどう使うか」
「筋トレ」
「お祈り!」
「何教……?」
「宿題だ」
「えー」
「よく考えてみろ。お前ら飯食った後、何するよ?」
「テレビ見る」
「動画見る……」
「座禅を組む!」
 誠司が新聞紙を丸め、茂の頭をたたく。
「つまりそういうことだ。腹いっぱいの時はやる気がない。食う前にやっとくぞ」
 腹を鳴らしながら課題に向き合うこと四十五分——。ピーピーと合図を聞いて、全員手を止める。
「風呂洗ってくれた人には、デザート第一選択権あり」
 値引されたスーパーのスイーツを、誠司はランダムに買ってきていた。その呟きに、一番早く答えたのは小春だった。付き添いで拓海も風呂場に向かう。その間、茂は洗濯物を畳み、誠司と京太郎が配膳していく。

 外が暗くなり、カーテンを閉めようとした京太郎は、家の前をウロウロする男を発見した。行ったり来たりを数分繰り返し、車の陰からこちらを伺っていたり、不審な動きをしている。顔はよく見えない。
「おい、なんか不審者いるぞ」
「ほっとけ」
 数分後、ガチャっと鍵の開く音がした。小春が風呂場からかけてくる。
「かあさん?」
「なわけないだろ」
「じゃあ不審者?」
「何それ怖っ……」
「どっからでもこいや!」
 京太郎はここぞとばかりにコキっと拳を鳴らす。炊事で力を発揮できなかった故のやる気であった。各々、お玉や掃除機などの武器を手にその瞬間を待ち構える。
「た、ただいま~」
 入って来たのは、ぎこちない笑みを浮かべた父だった。
「とうさんだ! おかえり!」
「親父だったのかよ! なんでさっきウロウロしてたんだよ。通報するとこだったじゃねえか」
「いやー、なんか久々に顔合わせて話すと思うと、ちょっと緊張しちゃって。あのほら、しばらく家空けて飼い猫に見向きもされなくなるって言うだろ? だからみんな僕のこと……」
「オレたち人間だからな? そう簡単に自分の親父、忘れるかっての!」
 父も席について食卓を囲む。妻のところに寄って来たことで安堵した反面、息子たちと自分が家のことをこなせるのかという心配もあった。
「キョウはともかく、覚えりゃなんとかなるって」
「何でオレだけできねえみたいになってんだよ!」
「できてなかったじゃん。炊飯……」
 食器を鳴らしながら、誠司が分担について話し始める。小春も手伝うと立候補した。
 父は皿洗いを名乗り出て、スポンジを手にする。心配は杞憂だったようだ。

 茂と小春が風呂に入っている間、父は部屋にこもった拓海の元を訪ねた。机には、勉強した跡がある。
「頑張っているみたいだね」
「不登校なりにできることはしようかなって……」
「いいね。拓海のコツコツやれるところ、ホントにすごいと思うよ。父さんじゃ、あのパズルは完成しなかった。心が折れちゃうからね」
 父の目に映るのは、風景画のジグソーパズルだ。
「こういう細かい作業は好きなんだ。でも、人間関係にはすぐ心が折れちゃうよ……」
「人によって考え方も相性も違うからね。兄弟間だって、気が合わないって思う瞬間がある」
「あるね。キョウはいつも根性論だから……」
「それでも同じ家で過ごしている。不思議だね、人間って。僕も正直、人付き合いは得意じゃないな」
「会社に人間、腐るほどいるでしょ……」
「いや~、それが何年経っても慣れないんだよ。昔からそうなんだ。初めて今の会社に入った時、嫌われないように必死だったよ。でも、ある時言われた。『無理に作った人格、好いてもらって嬉しい?』ってね。その人、どことなく拓海に雰囲気が似ててさ。話しかける度に嫌な顔されたけど、思わず笑っちゃったよ。あまりにもそっくりで」
 父は柔らかく笑った。
「拓海には兄弟がたくさんいるから、必ず見つかるよ。あ、この人ちょっと誠司に似てるな。キョウに似てるな。そうやって身近な誰かと重ねると、どう対応すべきか少し見えてくるんだ」
「父さんみたいな人、いればいいな……」
「ははっ、これから出会う人の中から見つけてごらん。大丈夫そうだなって思える人がいたら、少し気が楽になるよ」
「見つける前に、まず毎日行けるようにならなきゃだよ……。ふれあい教室、そんなに人数いないけど、やっぱり家が一番なんだよね……」
「今この時間も無駄じゃないよ。ゆっくりでいい。一つずつやっていこう。こうしてちゃんと積み重ねてきた経験値は、いつかきっと拓海を助けてくれるよ」
「そうだね……気力があるうちはやってみる……」
 拓海の部屋を出て、父はほっと一息ついた。拒絶されたらどうしようかと思ったのだ。中高生は反抗期真っ盛り。それでも親は放っておくわけにはいかない。一人で悩むことは、解決に繋がらないのだ。
 続いて、京太郎と親子水入らずで風呂に入る。
「筋肉ついたな~、キョウ。すっかり大人の仲間入りだ」
「まあな! 中身はガキのままだけど」
「そうか?」
「そうだよ。できないことの方が多いし、弟にも妹にも見下されてるくらいだからな」
「でも、キョウはできないって諦めることはしないだろ? 不器用なりに頑張っているところ、僕は好きだよ。僕もよく母さんに怒られてた。いい大人なのにあれができてない! これができてない! って、まだ誠司も生まれてない頃だ。人間は能力以外にも、人柄で評価されることもあるんだよ。実際、こんな頼りない僕と、母さんは結婚してくれた」
「それは親父が優しいからだろ? 底なしに」
「自分が優しくないとでも言いたげだな」
「すぐ暴力に走るやつが優しいと思うか?」
「殴って後悔した時には、ちゃんと謝れる。それが優しい証拠だ。もし非道な人間なら、謝ることなく自分が正しいと暴力を振るい続けるはずだよ」
 父はニヤッと息子を小突く。
「そういえば、ハルを守って男を殴ったそうじゃないか。僕なんか、母さんがナンパされた時、下手に出たもんだから、逆に怒った母さんに守ってもらったよ。ホント情けないね」
「オレの短気は母さん譲りか。しょうがねえから、親父の分まで守ってやるよ」
「頼んだぞ」
 風呂から上がり、父は末っ子の遊びにとことん付き合った。寝る時も、絵本を読んでと甘えてくれた。これが数年後には拒否されるようになってしまうと思うと、涙が出てくる。
 茂とも話したかったが、先に寝てしまったようで、リビングには長男一人だった。家事分担のスケジュールを立てている。妹の迎えや買い物の時間を整理して、ペンを走らせる。
「父さんにも何かできることないか?」
「んー、特にないな」
「え」
「仕事に集中して欲しいからさ、あんま家事やらせたくないんだよ。時間取れる俺たち子どもが、こういうのするべきだろ」
「仲間外れみたいで、なんかイヤだな~」
「子どもかよ。じゃあ車出せる時は頼む」
「もちろん」
 誠司は、ふと気にかかった茂のことを話題にした。
「シゲがさ、こないだのテストで0点取って来たんだよ。全部ボケで埋めてた。あれ、シゲなりのSOSなんじゃねえかと思うんだけど」
「そうか……。今度、時間を作って話してみるよ」
 実際のところ、最も本音を明かさないのは茂であった。いつも笑顔を絶やさない姿勢は立派だが、本人の疲労は尋常ではないだろう。
 部屋を覗くと、茂はスヤスヤ寝ていた。大喜利だらけのテスト回答を見て、父は心を痛めた。笑いたいのはきっと、茂自身だ。

 子どもが五人もいれば、必ず金銭問題にぶち当たる。家族のためになるのならと、より稼げる方へと仕事を変えた。だが、やはり妻一人に家のことを任せるのは、負担が大きかった。子どもにもいろいろ我慢させてしまった。
 ほとんど出張で、子どもと顔を合わせていない。そんな父親でいいのだろうか。本音を言えば、家族の時間を過ごしたい。それでも、自分の役割は稼いでくることだと言い聞かせて、見逃してきた。
 忙しいことは言い訳にならない。子どもの寂しさも妻の負担も、そんな理由で無視していいはずがない。ここで支えてやれずに、何が父だ。
 両腕いっぱいに大事なものを抱えて、落とさないように慎重に運んでいるつもりだった。けれど、どうしたって一つや二つ、転がり落ちてしまう。それを拾えば、今度は他のものが落ちていく。
 きっと、一人では抱えきれないようになっているのだ。父という立場も、母という立場も。だから親は二人いる。そして、子どもは親の不足を補おうとして成長する。僕の子どもたちは全員、立派に育っている。
 せめて妻不在の間だけでも……いや、それでは足りない。これから巣立っていくまで、父親でいさせてくれ。
 父は大きな手で、茂の頭を撫でた。


 それから二週間、母不在の生活を送った。誠司が皿洗い・アイロン・トイレ掃除を、京太郎はゴミ出しと掃除を担当した。
「おらお前ら片付けろ! 掃除機かけらんねえだろうが」
「ほとんどキョウのだよ。そこにあるの……」
 拓海は風呂掃除と洗濯を任された。量が多く、干す時には息切れしてしまう。引きこもりにはいい運動である。また、風呂掃除は冬場の水が冷たく、難易度のわりに酷だった。
 茂は炊事(炊飯と味噌汁程度)を担当した。メインは誠司が帰宅してからとりかかる。子どもたちは、献立を考えるだけでも大変だと実感した。鍋やカレーだけでは回せない。特に京太郎の食べる量を考えると、頭が痛くなった。
「焼きそばはどうだ? ご飯もあるし、腹たまるだろ」
「ためればいいってもんじゃないでしょ。それに卵の期限、今日までだよ……」
「じゃあオムライスだな」誠司が即決した。
「あれ卵やるの、めちゃくちゃムズイんだろ? できんのかよ」
「できるわけないだろ。炒り卵でケチャップライスにすんだよ」
「それはオムライスとは言わねえんだよ! 作るならちゃんとやろうぜ」
「形にこだわる必要ないだろ。ここ家だから、店じゃないから」
「オムライスやるほど卵ないよ……」
「卵で何できるか挙手」
 誠司の問いかけに弟たちが順に答える。
「ゆで卵」
「卵かけごはん……」
「マヨネーズ!」
「……お前ら家庭科受けたことあるか?」
「じゃあ誠司は何できるんだよ」
「親子丼」
「鶏肉ないけど……」
「豚肉で他人丼だ。給食で見たことあるだろ」
「お前親子丼って言ったじゃねえか!」
「体裁気にして炊事できると思うなよ? 材料なんかぶっこめばこっちの勝ちなんだよ」
「誰と勝負してるの……」
 洗濯物を畳み終えた小春が卵を割りたいと申し出るが、誠司は頑なにやらせなかった。
「たまごわるの!」
「だーめ」
「わる!」
「シゲ、ヘルプ」
「玉ねぎいっしょにむいてくれる? お姉さん」
「いいよ! ハル、おねえさんだもん!」
「末っ子だけどな」
 油が切れていたため、代用を探す。誠司が取り出したのはバターだ。
「おいおい冗談だろ。パンに塗るやつだぞ、それ」
「まさかバターがその程度だと?」
「お菓子にも使うよな。それくらい知ってる!」
「いいや、お前はまだバターの本気を知らない。油として使えるばかりか、味付けにもなるという、それはそれは幅広い領域で」
「いつまで茶番やってるの……」
 小春の迎えには、拓海が立候補した。
「お前、引きこもりなのに大丈夫なのか?」
「最近は散歩も行ってるし、キャッチボールするくらいにもなった。それに迎えに行く時間、同級生はみんな授業中だよ……」
 おつかいは荷物が重いため、上二人が担当した。
 一方、父の仕事はしばらくリモートと、県内にある本部で行うことになった。父は時々買い出しを引き受けたり、小難しいことが綴られた郵便物への対処法を教えて貢献した。
 見舞いも分担し、昼は小春と茂、夜は京太郎か誠司、父は仕事帰りに毎日寄った。


 一週間も経過すると、生徒会メンバーが誠司の意識変化に気づいた。
「最近、会長の顔、明るくなりましたね」
「ね! なんか生き生きしてる~」
「仕事人間のあいつが、早く帰ったり遅刻したりしてるの、怪しくない?」
「なんかあったんすかね?」
「全然話してくれないよな。プライベートのこと」
 副会長はニヤリと口角を上げる。
「本人が言わないなら、直接確かめにいこっか!」
 その日の放課後、メンバーは誠司を尾行することにした。
「彼女でもできたんすかね?」
「え~、あの会長に?」
「女なんか眼中にないってタイプだよね」
 電柱の陰や止まっている車を使って死角を作り、気づかれないようにコソコソしてついていった結果、誠司の行き先は病院だった。
「会長、病気なの?」
「あり得ますね」
「それとも病弱な彼女でもいるのでは~?」
 誠司が入っていった病室には女性がいた。メンバーはそっと覗き見る。
「ずいぶん年上が好きなんだな」
「違いますよ。名前見てください」
 病室には「藤原」とある。
「おいお前ら、ストーカーは犯罪だぞ」
 ぎくっと一同は肩を揺らす。
「誠司のお友達? いつもお世話になってます」
「いえいえ! こちらこそ!」
「せっかくだから中に入ってもらったら? お菓子もあることだし、学校での誠司の様子、聞かせて?」
 誠司は嫌そうにメンバーを招いた。一同は、家と学校での様子のギャップに驚いた。めんどくさがりで冗談も言う。下の兄弟は四人。初耳なことばかりだった。副会長はニヤニヤと小突いた。
「へえ、ちゃんと兄ちゃんやってんの。意外」
「うるせえ」
 母は安堵した。人に無関心な長男だが、慕われている様子だ。拓海も前を向き始めている。気がかりなのは茂である。全く弱音を吐かず、愚痴すらない。見せる感情は笑顔だけ。悲しいことや苦しいこと、ないはずがない。
 それを口に出さないのは、心配だった。

 一方その頃、茂はキッチンで一人、コンソメスープを作っていた。父と小春は風呂、拓海は勉強中である。
 最近、嫌な夢を見た。家族みんなが和気あいあいとしていて、僕はそれを遠くから見つめていた。そこに僕の席はなかったのだ。目覚めた時、どうしようもなく不安になった。笑顔のあふれる家、それは僕の求めていたものだったはずだ。
 みんなが崩れそうになった時、助けられる力が欲しかった。だから笑いに走った。そしてそれは実を結んだ。僕が生まれた理由は、間違いなくそこにあると思っていた。
 時々頭に過ぎる。もしこの家に僕が生まれてこなくても、成立していたらと。笑えるようになったならそれでいい。僕はするべきことをしたのだ。もう、笑わせる必要なんてないくらい。
 茂は松本の言葉を思い出す。
 今の僕では笑わせることなどできない。その通りだ。僕はもう、力を出し切ってしまったのかもしれない。この一年、家族をつなげるのに必死だったから。
 風呂から上がって来た父が、鍋を覗き込む。
「シゲ、野菜切るの上手くなったね」
「いやー、それほどでも!」
「いつもありがとう。母さんも父さんも助かってるよ」
「おお! ありがたき幸せ!」
「ご褒美って言えるかどうかわからないけど、今週日曜、父さん休みなんだ。どっか行きたいところある?」
「んー、公園!」
 近所で金のかからない場所。茂はそう思っていたのだが、当日父が車で連れ出したのは、遠方のとても広い公園だった。遊具の数も規模も桁違いである。芝生とグラウンドには、たくさんの親子がいた。
 父は到着するなり、気合を入れる。
「さあ遊ぶぞ!」
「おー!」
 茂はとりあえずテンションを合わせたが、疑問が浮かぶ。なぜ自分だけを連れてきたのか。妹なら真っ先に「いく!」と言うだろうに。
「ハル連れてこなくてよかったの? バレたら後で拗ねちゃうよ?」
「行かないってハルが言ったんだ。心配ないよ。お土産は買ってきてって頼まれてるけど」
 この遠出、実は末っ子の入れ知恵だった。
 ――シゲにいね、ハルのわがままにいつもつきあってくれるからね、たまにはぱーっとあそんできてほしいの! とうさん、たのんだよ!
 気づいていたのだ。母の目がいつも自分に向いて、兄に向かないことに。子どもの成長とは早いものだと、父はしみじみ思った。
 その日一日、茂は父とめいいっぱい遊んだ。長い滑り台、トランポリン、工作体験。お昼はレストランで済ませ、おやつもジュースも買い食いした。
 茂は新鮮な気持ちだった。こうして思い切り親との時間を過ごすのも、全力で遊ぶのも、久しぶりである。修学旅行ですら、みんなを楽しませようと頑張っていた。今はケンカする兄も、わがままな妹もいない。無茶ぶりをする友人も。

 屋内のベンチに座り、二人はあたたかいココアを飲みながら休憩した。
「いいのかな? 僕ばっかりこんな楽しい思いして」
「いいんだよ。シゲは誰より家族のために動いてる。兄ちゃんたちも母さんも僕も、みんな認めてる。たまにはこんな日があったっていいだろ」
「でも僕、母さんが倒れるまでわからなかったよ。想像以上に大変だってこと」
「それは父さんも同じだよ。今、家族全員が変わろうとしている。母さんのために動いてる。母さん言ってたよ。シゲがいてくれて助かったって」
「いやー、それほどでも」
 誰も手を付けなかったからこそ、僕がすることに意味があった。ただそれだけだ。料理は兄さんの方が美味い。掃除は兄ちゃんの方が丁寧だ。買い物はアニキくらい力持ちの方が頼りになる。
 一瞬、日常を忘れさせた高揚感が、だんだん消えていく。ああ、だから嫌なんだ。こういう真剣な話やしんみりした話は。
「母さんね、こうも言ってたよ。シゲは中々弱さを見せてくれないって」
「弱さ?」
「……今シゲは楽しいか?」
「すっごく楽しいよ!」
 それならどうして、今にも泣きそうな顔をしているんだ。一生懸命に笑おうとしなくていい。
 父は息子を抱きしめた。我慢させたのはきっと、僕ら親だ。力なく笑う息子に、なんて声をかけたらいいのか、一晩考えた。立派な父という理想像からはかけ離れているかもしれない。 だが、強い父でないからこそ言えることだってあるはずだ。
「確かに笑顔は大切だよ。笑う門には福来るということわざがあるくらいだ。人を笑わせること自体はいいことなんだ。でもね、苦しい時に笑わなくていいんだよ。時に跳ね返せない気持ちはある。父さんには、シゲが苦しそうに見えるよ。隠さなくていいんだ。むしろ苦しい時は、泣いたり弱音を吐いたりして欲しい」
「それで父さんは悲しくならないの?」
「ならないよ。嬉しいんだ。甘えて、頼ってくれることがね。空元気はそう長くは続かないよ」
「僕は……」
 電話が鳴り、父が出た。兄からの連絡である。母の退院が決まったとのことだった。明日の昼に家に戻る予定だ。
 通話が終わった時には、言いかけた言葉を飲み込んだ。
 僕はただ、空気を悪くしたくないだけなんだよ。その発端を僕が作るなんて、ごめんだ。みんなに悲しい顔をさせたくない。笑っていてよ。笑わなくていいなんて言わないで。

 一方、藤原家――。
 京太郎が茂と誠司の部屋を掃除していると、一冊のノートが出てきた。
「設定ノート?」
 茂と父が帰る間、兄弟会議が行われた。そこには小春も参加している。ページを開き、全員が覗き込んだ。

 特技:鼻から牛乳 横断歩道で車止める
 好きなもの:プランクトン
 嫌いなもの:ハンバーグ
(人気に嫉妬したから)
 星座:べんざ
(汚いものを受け入れてキレイにするみんなのオアシス)
 趣味:音楽室の壁の穴を数える
 好きな色:いろいろ

「これは末期だね……」
「シゲにい、なんで『じぶん』の『せってい』なんかしたんだろ?」
「あいつウケるためなら手段問わずだからな」
「このノートの通りに演技してたのか。ストレス溜まるわ、そりゃ」
「わがまま言わないし、聞き分けいいし、空気読むし、出来すぎてるよね……」
「ホントのシゲって、どのシゲ? わかんなくなってきたわオレ」
「シゲにいって、アルバムよくみてるよね。なにかヒントない?」
 持ってきて開き、懐かしみながらめくっていく。
「四歳から変顔増えてんな」
「あいつ怒ったことあるっけ?」
「見たことないかも……」
 誠司は、昔家族で餃子を作った時の写真に目を止めた。
「シゲって、みんなで作ったやつ好きだったよな。カレーでも鍋でも、ステーキ食った時より何倍も美味そうに食ってる」
 その時、父からメッセージがきた。
「お前ら全員、クリスマスの夜空けとけよ」
「それは別にいいけど、何でだよ?」
 誠司はスマホの画面を見せながら読んだ。
「『母さんの復活祝い』兼『シゲを泣かせよう(感動の涙)作戦』を決行する」
 その日の夜、茂と小春が寝た後に父が加わり会議をした。
「夜だけでいい。予定を空けられないか? シゲはいつも家族で過ごす時間、一番幸せそうにしてた。楽しかったと本音で言えた時、きっと思いを打ち明けてくれるはずだ。協力してくれるかな?」
「いつもケンカ止めたり、励ましたりしてくれたもんね。お返ししなきゃ……」
「嬉し泣きするくらい喜ばせてやろうぜ!」
「ただボケ倒す以外でも、楽しませることができるって証明してやらねえとな」
 もう無理して笑わせる必要などない。自然に笑っていてくれと願って計画を練った。父もクリスマスイヴは少しでも早く帰れるよう、今から調整する。父としてやってあげられること、きっとまだあるはずだ。

 今一番の問題を抱えた張本人は、寝付けずにいた。布団に入っているものの、茂は目を開けてぼんやり考えていた。先日、松本とケンカをしたのだ。一方的にキレられただけだが、松本の主張は一理ある。
「いつまで貼り付けてるつもりなんだよ!」
「……」
「人間っていつも笑ってるもんじゃねえんだよ。泣いたり怒ったり、いろんな顔をするんだ。もうごまかすなよ! 自分の感情! 泣きそうな顔して笑うなよ!」
「……」
 何も言わない茂に痺れを切らして、松本は殴った。クラスメイトたちは騒然としていた。そこで茂は、松本の前で初めて涙を流した。
「ねえ、どうして松本くんは笑ってくれないの……?」
 笑っても意味はないのだろうか。
 長男が部屋に戻ってきて、電気を消した。その暗闇は、まるで茂の心を映したようだった。


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