見出し画像

笑う門には福来る 第15話 起死回生

 京太郎は夏休みにも関わらず、学校に来ていた。全教科赤点を取ったが故の補習である。睡魔に負けそうなところを、先生に叩き起こされプリントに目を向ける。
 だめだ。脳が勉強を拒否している。頬を叩き気合を入れて、頭をかきながらシャーペンを走らせた。昼には野球部の練習が待っているのだ。京太郎は部員ではないが、人数がギリギリのため助っ人として来て欲しいと言われている。県内ではそこそこの実力だが、一年生があまり入ってこなかったらしい。
 京太郎は投手として練習に参加した。エアコンは効いていないが、勉強より俄然やる気になる。ストレートが小気味よい音を立ててミットにおさまり、全身が喜んでいるのを感じた。主将がボールを投げ返す。
「いい球きてるわよ! そのまま私の心に投げぬいて!」
「それ逆に投げにくいんすけど!」
 京太郎の隣で、メガネをかけたエースが一際大きな音を立てて投球する。
「何でまた部外者がいるわけ? 投手は俺一人で十分でしょ」
「最後まで投げたことないくせに、何言ってんのよ。あんたはまず体力つけなさい。うちは少数精鋭なんだから」
「わかってますよ。でも体力あればいいってもんじゃないでしょ。こいつ体力しかないし」
「スピードもパワーもそこそこあるっての!」
「ふーん、頭がないのは認めるんだ。コースは甘いし、打率はゼロか百の大博打。そんなんでよく俺の隣に立てるよね」
 カチンときたが、京太郎はぐっと堪えた。
「ちょっと、あんたたち口ばっか動かしてないで体動かしなさいよ。どっちも調子いいんだし、今度の練習試合、期待してるわよ」
 ハートの付きそうなセリフにウィンクを添えて、主将は励ました。
「すいません、ちょっと胸やけが」二人が言った。
「変なとこでシンクロしなくていいの!」

 炎天下の中を耐えきった帰り際、丸いフォルムの監督が特大おにぎりを差し入れしてくれた。監督自身も食べている。
「藤原くん、お疲れ様。悪いね。毎度助っ人してもらって」
「いえ、力になれるんならいくらでも手貸しますよ」
「ありがたいよ。ぜひ正規部員として迎えたいものだね」
「バイトあるんで、すいません」
「そうか。でも強化合宿には参加してくれるんだろう? 大丈夫かい? 結構きついよ」
「根性で乗り切ってみせます!」
 胸を張る京太郎に、エースが水をさした。
「根性で勝てたら苦労しないから」
「そんな堅い頭じゃ、余計なこと考えて足すくんで、動けなくなっちまうぞ」
「戦略のないやつは、どう動けばいいかすらわからないでしょ。っていうか、試合以前にテスト対策しなきゃだよね。バカは大変だな。まあ頑張って」
 頭にはくるが、事実ゆえに言い返せない。合宿中の課題は大量にある。補習の代わりだ。合宿が終わるまでに済ませなければ、休み明けも補習を入れられてしまう。
 京太郎は、帰宅してすぐにとりかかる。兄が自ら机に向かう姿を見て、拓海は疑問符を浮かべた。
「何? 熱でもあるの……?」
「ねえよ!」
 いくら時間をかけても進まない。これではらちが明かないと、長男の部屋を訪ねる。コツくらい聞いておいて損はないだろう。だが兄は不在で、ネタ作り中の茂が対応する。
「どうしたの? 無性にツッコミたくなった?」
「オレにそんな性癖ねえから。課題大量に出されてよ、ちょっとアドバイス欲しくて」
「何なりと聞くがよい」
「いやお前に聞いてもわかんねえだろ。これ高校レベルだぞ」
 茂は見せてとプリントを覗く。化学の元素記号の表だった。教わった覚え方が、どうもしっくりこないそうだ。少し悩んだ後、茂は兄に覚え方を伝授した。
「キャー、水素のエッチ(H)!」
「HE IS ヘリウム(HE)!」
「うむうむ! リチウム、ベリリウム!」
「放送室(ホウ素)、爆破(B)!」
「短足(炭素)のCちゃん!」
「窒息(窒素)のN!」
「お(O)酸素さま!」
 ポカンとする兄だったが、繰り返すように催促され、棒読みで応じた。
「これ余計複雑になってねえか?」
「じゃあ嫌でも覚えるように、寝るまで僕が音読してあげる」
「合宿中は無理だろ」
 長男が部屋に戻って来た。
「そんなもん、頭じゃなくて体で覚えろよ。毎日書いてりゃ染みつくだろ」
 それができたら苦労しねえよ。京太郎が内心毒づく。オレは誠司みたく、効率よく済ませることなんてできない。

 翌朝、助っ人の京太郎を含めた野球部が合宿所に集まった。到着早々、練習を開始する。ボールを投げるだけでなく、バットを振り、塁間を走り、ベースカバーの仕方を教わり、バント処理をする。
 太陽光が照りつける中、十分な休憩と水分補給をしながら、滝のような汗を流し、体に鞭うつ。
「藤原、バット持ってるとヤンキーに見えるな」
「あ?」
 視線を逸らした一瞬、エースの球が京太郎の股間を直撃した。
「お前……! ふざけんなよ……!」
「ふざけてない。そっちがよそ見したんでしょ。それくらい避けろ」
 今度こそ打ってやると息巻くも、空振りを食らった。
 ランニングで雪辱を果たそうと、エースに張り合って息を切らす。追い抜かれるものかと、相手もペースを上げてきた。その結果、指定された周に届く前に二人はバテた。
「あんたらバカじゃないの?」
 呆れる主将の後ろから、腹の出た監督が走って来る。息苦しそうで足は遅い。次々と選手たちに追い抜かれながらも、エールを送る。
「もっと声聞かせて! 足も動かそうね! お昼はハンバーグだよ」
 その言葉にごくりと喉が鳴る。決して厳しい指導ではないが、選手たちに気合いが入る。監督の作る飯は、店に出してもそん色ないほど美味いのだ。
 監督は個人的に指導をして回りながら、アイスや唐揚げ、フランクフルトを胃袋にしまっていく。
 激動の午前を終え、エアコンの効いた涼しい食堂で、山盛りの白米と共に肉を食う。体作りのため、食事量は多い。エースは途中で箸を置き、吐きそうになっていた。それに対し、京太郎は監督と張り合うほどの食欲を見せ、部員に感嘆の声を上げられた。

 午後は投球練習だ。スムーズに投げていたエースの動きが、一瞬止まった。主将が首をかしげる。
「どうしたの?」
「何でもありません。次、お願いします」
 ノックは日が暮れるまで続いた。京太郎も名乗り出て、部員に混ざって球を拾う。その様子をエースが呆れた目で見ていた。理由を聞いたところ、「これに耐えられたら、もっと強くなれる気がする」だそうだ。
 これだから脳筋は……と見下す一方で、焦りが顔を出す。負けるわけにはいかない。こんな助っ人部員に。
「ホント体力だけはあるよね。無駄に」
「無駄じゃねえよ! お前は全然ねえくせに」
 次々飛んでくる球は伸びるもの、手前に落ちるもの、速いものなど様々だった。足元をふらつかせながら、野手陣は食らいつく。京太郎も負けじと球を追うが、間に合わない。
「へたくそ」
 エースの呟きにムキになり、飛び込んで取った。
「ナイス!」
 だが、返球であらぬ方向へ行ってしまった。
 体の次は頭を使う。補習の代わりにもらった課題と向き合い、京太郎は唸る。
「逆に知りたいな。どうやったら全教科赤点取れるのか」
 エースは真っ赤な回答用紙を手に言った。
「お前それどこで拾った!」
「二塁間」
「カバーしてくれんなら苦労しねえよ! テストは野球と違って、誰かの点が自分の点になるわけじゃねえ。孤独な戦いなんだよ」
「ふーん、バカは大変だね」
「世の中テストが全てかよ」
「少なくとも、筋肉だけじゃ生きられないね。どんなスポーツ選手でも、技術や戦略を磨くわけ。そのすっからかんの脳みそで、ちゃんと考えたことある? センス任せのプレーじゃ、上へは行けないんだよ」
「そんなに言うなら、お前の点見せてみろよ!」
 全教科九十点以上、さらには百点があった。
「お前、これカンニングしただろ」
「そんな姑息な真似するか!」

 合宿は終盤に差し掛かり、試合に近い形式での練習が行われた。人数が足りないため、守備陣と攻撃陣に分かれ、連携確認を取る。エースは守備陣として投手の位置へ、京太郎は攻撃陣として打席に立つ。
 その天狗みてえに伸びた鼻、へし折ってやる。京太郎は気合十分だったが、バットに掠りもしなかった。三振である。敵わないと一瞬思った。それなりに経験値はある。五歳から続けてきた野球なのだ。当然プライドが頭をもたげる。聞くところによると、エースは中三から始めたという。経験値=実力ではない。わかっていても悔しいものだ。
 気持ちが抑えられず、食事の時にキャプテンに聞いてみた。
「あいつ、何であんなに上手いんすか? やっぱ才能っすかね」
 京太郎がかっこむ横で、主将は上品に味わう。
「ある意味才能かもしれないわね。たった一度の、それも遊びで渋々参加した試合で負けて、あそこまで頑張れるなんて。あの子、なんでも一番でいたい完璧主義だから。できないことを徹底的に突き詰めるの。最初はストライクゾーンに全然入らなかったし、バッティングも空振りばかり。でも血のにじむ努力と、その分析力でエースになった。まあ、うちは人数の関係で人を選べないんだけど、一年生にしては頼もしい子ね」
 食事の後、同級生の姿を探すと自主練に励んでいた。
「風呂、行かねえのか?」
「見てわからないのか。練習中だ。邪魔するな」
 カチンときたものの、何も言い返すことなくその様子を眺める。ひたすら投げ続けるだけではない。正確にどう直すべきか、一球ごとに丁寧に放っている。
 これが、あいつとオレの差なのか。
「何見てんの? 盗める技術なんかないでしょ。助っ人風情が」
「オレにはオレのやり方があんだよ!」
 そうは言ったものの、自信があるわけではなかった。

 京太郎が宿舎に帰ったのを確認し、エースは投球から素振りに切り替えた。夜とはいえ、汗でメガネがずり落ちる。
 あれから一年か。
 野球を始めたきっかけは中三の夏だ。家で机に向かっていると、電話がかかってきた。
『一人足りないんだって! 頼む! ピッチャーやらせてやるから!』
「そんな暇はない。お前も受験生だろ。勉強したら?」
『一試合だけでいいから!』
「俺に熱中症になれって言ってんの?」
『つれねえな。もしかして野球できないとか? だったらしょうがねえな』
「……誰ができないって言った? わかった。行くよ」
 試してできないならまだしも、やる前から他人にできないなんて思われたくない。友人の誘いに乗り、公園に向かった。だが、素人の俺に務まるはずもなく、ボールやデッドボールを出しまくり、惨敗した。
「お前でもできないことってあったんだな」
 友人は安心したと笑った。
「……これからできるようになる」
 呟いた三十分後には、ボールのコントロールを上げようと練習法を探し、実践した。勉強もしつつ、バッティングセンターや公園で毎日腕を磨いた。
 受験後、再び集まった時には、立派な戦力に変貌していた。勝ちはしたが、その点差は圧倒的とは言えず、にこりとも笑えなかった。
「もっと喜べよ。めっちゃ上手くなってんじゃん」
「完勝しなきゃ意味がない。それに最後まで投げられなかった……」
「どこまで上昇志向なんだよ。たかが遊びだぞ? 部活じゃないんだし」
 成績表は三年間かけた末にオール5を達成し、テストも常に百点を目指して取り組み、念願の学年一位を卒業前にもぎ取った。
 中途半端は嫌いだ。入学する前から決めていた。高校で野球部に入り、エースとして甲子園に出場し、優勝すると。一番でなければ何も誇れない。上には上がいる。そんな状態で胸を張ることはできない。練習試合だって手は抜かない。狙うは無失点でのコールド勝ちだ。

 練習試合の五日前、事件は起こった。
「気合入ってるのはわかるけど、オーバーワークで体壊しちゃ元も子もないでしょ!」
 エースは肩の痛みがバレて、病院へ行くことになった。大したことはないが、しばらく安静とのことだった。練習試合に間に合うかどうか、気がかりだった。そんな当の本人とは対照的に、チームメイトはあまり気にしていない様子だった。予選や本戦でもないのだから、ゆっくり休む方がいいと、誰もが口にした。
 エースは唇を噛みしめた。せっかく実践的な試合ができるのに。ここで経験値が積めないのはもったいない。エースは監督に抗議した。
「俺は出れます! 痛み止めすれば何の問題も」
「ここで悪化して、本番に出られないのが一番悔しいだろ? 先発は藤原くん、頼めるかな?」
「うっす」
 視線で殺せるのではないかと思うほど、エースは京太郎を睨んだ。
 この執着が、オレにはねえんだ。勝ちたいとは思う。でも、こいつとは次元が違う。
 翌日の練習から、エースによる鬼のような指導が始まった。この場合はこう対処、打つ時のコツ、バントや四番を歩かせることも覚えろと、監督より口出ししてきた。
 夜の勉強時間も、徹底的に解き方や覚え方を叩きこまれ、いつもの何倍も疲れた。言い方は偉そうで腹が立つが、その通りにすると上達していき、それがさらにムカついた。
 しごきは試合前日まで容赦なく続いた。おかげで、京太郎は目に見えて成長した。
「こんなに敵に塩送っていいのかよ?」
「助力するのはお前のためじゃない。俺の代わりに出るからには、試合に集中してもらわないと困る」
 しばらくシャーペンを走らせ、京太郎は睡魔と戦う。その時、エースが独り言をこぼした。
「部員でもないやつは気楽でいいよね」
「んあ?」
 意識を戻した京太郎の頭に、プレッシャーが降って来る。
「生半可なことして負けたら、一生呪うから」

 当日、検査のためベンチにエースの姿はなかった。相手は強豪である。兄弟でバッテリーを組んでいることは、よく知られていた。
 京太郎がブルペンから出ると、ちょうどグラウンドに入って来た兄弟に遭遇した。
「うわっ! ゴリラが迷い込んでるのかと思った」
「てめえの目は腐ってんのか!」
「君が期待の一年エース? 思ってたよりバカっぽいね」
「んだとコラ! エースじゃねえけど先発はオレだぜ」
「ふーん、舐められたもんだね。こんな、見るからに脳筋野郎をぶつけてくるなんて」
 殴りかかりそうな京太郎を、主将が抑える。
「あっれ~? エースのやつベンチにもいないじゃん。もしかして怖気づいて逃げちゃった?」
「しかも見ろよ。あの監督、妊娠してんのかってくらい腹出てるぜ?」
 相手チームは笑い出した。舐められているのは明らかである。肩慣らしの一球で黙らせようとするも、力みすぎて大きくコースを外れた。
「あ」
「ちょっと! どこ投げてんのよ! もっと肩の力抜いて!」
 それを見て兄弟はさらに吹きだす。
「何あのド素人、あれが先発?」
「こんなの時間の無駄じゃん。サボってカフェでも行けばよかった」
 ギロリと睨む強面監督に、二人は黙った。
 試合前、京太郎たちは監督からの激励を受けた。
「みんな、デブを笑うやつは最後に泣くってこと、証明してきてね。きっちりコテンパンに料理してあげてね。そしたら、僕が一人残らず食べてあげる」
 笑ってはいるが、怒っているようだ。京太郎も心穏やかではなかった。
 オレは素人じゃねえ。ブランクはあるが、これでも五歳から続けてきたのだ。あの調子こいた兄弟にギャフンと言わせてやる。
 気合十分でマウンドに立ったものの、一球目からデッドボールを出した。あまり試合に出たことがないため、この失態はさすがに凹んだ。すかさず主将がタイムを取る。
「ぽっちゃりを敵に回して天罰下っただけよ。気にしないで。ところで次の打者の子、ちょーイケメンじゃな~い?」
「あれエースのやつっすよね。さっきバカにしてきた」
「あの爽やかな顔が歪んだところ、見てみたいと思わない?」
 相手エースは好戦的な笑みを浮かべ、バントの構えを見せる。さあ迷え、バカども。

 一塁の選手がリードを取り、京太郎はけん制を入れた。三回投球した球は全てボールだった。ランナーが積極的に盗塁を狙っている。気が散って仕方がない。しかし、それでは相手の思うつぼだ。深呼吸して投げた球は、ファールになった。
 バントしねえのかよ!
 京太郎はぶん殴りたくなる衝動に駆られた。
 対して、相手エースは余裕の表情でバットを持ち直す。バントで出塁し、ランナー一、二塁となった。盗塁を狙う者が増え、京太郎はじわじわと追い詰められていく。味方ベンチからは懸命なかけ声が絶えない。
「ランナー気にするな!」
「思いっきり投げろ!」
「大丈夫! 誰もお前に期待してないから!」
 三番の相手捕手が打席に立つ。先程出塁したエースの弟である。
「なーにこれ、新手の接待ですか? 勝負する気がないなら、今すぐ荷物まとめたらどうです?」
「接待なんてするほど、あの子は器用じゃないわよ。もちろん私も」
 まだ焦る場面ではない。アウトを確実に取ればいい。とはいえ、ここで押さえておかないと、助っ人の彼としては肩身が狭くなる。それは後々プレーに響いてくるだろう。
 主将はフォークを要求した。一球目はストライクだ。
「へえ、変化球投げれたんだ」
 主将のリードに追い込まれ、打者の表情が少し崩れてきた。今度はインコースにストレートを要求する。
 京太郎が投げた途端、ランナー二人は走った。いいコースにきた球は、小気味よい金属音と共に、外野へ運ばれた。だが、素早く反応した外野手が主将に返球し、ホームで仕留めた。
「アウト!」
 そのジャッジに京太郎は安堵した。とはいえ、まだ気の抜けない状態である。一、三塁にいるランナーは、舐めているのかリードが大きい。顔を強張らせる京太郎に、主将がウィンクを送る。すると、別の意味で顔が引きつった。
 四番打者にヒットを打たれて一点入れられたが、アウトも一つ取った。相手捕手であるランナーが、二塁で京太郎の心をかき乱す。何度けん制してもセーフになる。嘲笑うその姿に、神経が逆なでされる。
 助っ人なのに一番足引っ張ってるじゃねえか。
 そんな焦りが仇となり、盗塁されて三塁に進まれる。その後、投球が乱れ始め、初回にして三点入れられてしまった。なんとか主将のカバーでアウトを取り、攻守交代する。
 ベンチに戻ると、監督が明るく声をかけてきた。
「上出来! 全然逆転チャンスあるよ。藤原くんがいなかったら、投手不在でもっとひどいことになってたんだ。その調子だよ」
 励まされたが、京太郎は俯いた。気合は十分、状態もよかった。準備もしてきた。だが、いざマウンドに立つと違う景色が広がり、プレッシャーを感じた。
 チームの負担になりたくない。もっと頼れる存在でいたい。スポーツで結果を出せなかったら、オレは本当に取り柄がなくなる。テストでいくら赤点を取ったっていい。こういう得意分野でくらい、自信を持ちたい。
 京太郎が暗い顔をしているのに気づき、主将は言葉をかけた。
「ちょっと! なに思いつめた顔してるの。まだ一回よ? よく見てなさい。うちは強豪というには少し力不足かもしれないけど、いい選手揃ってるのよ。あんたは何も難しいこと考えなくていい。ただ自分らしく精一杯、私のミットだけ見て投げなさい」
「うっす!」
「そう、私以外の何も見なくていいの」
「キャプテン、それ誤解を招くっす」
 先輩たちは一番打者こそアウトになったものの、二番、三番と続いた。次にバットを振るのは主将だ。京太郎はその気迫に息を飲む。物腰の柔らかい、いつもの雰囲気とは違い、獲物を虎視眈々と狙う獣のような目をしている。相手エースは気圧され、コースが甘くなった。主将はそれを見逃さず、ホームランを出して三点返した。
 チームメイトの活躍に、京太郎の心はすっと落ち着く。その時、検査中のエースの言葉を思い出した。
 ――そりゃ三振で黙らせたり、ホームラン出すのが一番気持ちいいよ。自分が活躍するのは楽しい。でもチームが負けた時の悔しさ、半端じゃないから。お前まだチームを背負えるほど上手くないんだからさ、一人で勝とうとするなよ。ちょっとでもチームに貢献する。それが助っ人の役割! 主役はお前じゃない。脇役には脇役の仕事がある。ミスは当たり前、しぶとく食らいつけ。
 二回以降、京太郎は打席で冷静にバントを披露した。どれだけバカにされようとも勝てばいい。自分はアウトになったが、無事に一点返した。守備でも調子を上げていき、打たせて取った。盗塁を狙うランナーに翻弄されることもなかった。主将と守備陣のフォローが安心させたのだ。
 やがて三振を取るようになり、回を重ねるごとにストライクを取る。打席でもバットに当たるようになり、本領を発揮し始めた。点を取られながらも取り返す展開に、相手チームの腹黒兄弟バッテリーが呟く。
「調子こいてるね、あれは」
「そろそろ格の違いを見せてあげようか。ここはじんわり毒を回すように」
「いや、徹底的にぶっ潰す」
「それじゃすぐ終わっちゃうじゃん! なぶっていくのが面白いんでしょ?」
「ふざけんな! 完膚なきまでに叩く方が気持ちいいだろ」
 取っ組み合いになりそうなところで、強面監督の一喝が入る。

 八回裏、自陣の攻撃で京太郎に打順が回って来た。ところが、兄弟のサインが中々決まらない。サインを出しては、首を横に振っている。たまらず弟がタイムを取った。作戦通りと、上がる口角をグローブで隠す。
「ねえ兄ちゃん、あのバッター、モテなさそうだよね」
「バレンタインに母親からしかもらえないタイプだろうな」
「そのくせ、無駄にかっこつけたがるんだよね。こういうやつは、ど真ん中ストレートで押さえると一番悔しがるよ。イケる?」
「楽勝♪」
 京太郎の耳には途切れて聞こえていた。詳しくはわからなかったが、バカにされていることだけはよくわかった。
「コソコソしてねえで、さっさと投げてこいや!」
 途端、投手の雰囲気が変わった。ピリピリとした空気に鋭い目、体が硬くなるのを感じた。何が何でも打つ気だったが、気づいたらストライクを取られていた。球は重い音を立てて弟のミットにおさまる。一瞬、気持ちで負けたことで手が出なかったのだ。
 二球目も振り遅れてストライクだった。監督の指示が出てバントに切り替えるも、ボールの勢いを殺せず転がっていき、足が追いつかずアウトになった。
 完璧に三振を取りたかった兄は舌打ちする。
 その後続いた打者も打ち取られ、一点も入れられなかった。相手のエースも捕手も風格が違う。あの二人には、修羅場をくぐり抜けてきた経験値がある。圧倒的な差を見せつけられ、ベンチ全体が険しい空気に包まれた。
「今まで手加減してたのかよ」
 誰かが悔しそうに言った。その時、扉が開く音がした。
「何しけたツラしてるんですか? 格が違うのは当たり前でしょ。それを覆すのが面白いんじゃないですか」
 そこには、好戦的な笑みを浮かべたエースがいた。
「検査は?」
「異常なし。監督、もうそいつ使えないでしょ。ピッチャー交代」
 選手たちに笑顔が戻る。
「これ勝ったら、みんなで焼肉食べ放題いきましょう!」
 監督もポテチを手に声を張る。
「これまで死に物狂いで、血吐きそうなくらい耐えてきたんだ。目の前にいるのは選手、いや牛だ。狩りつくすぞ!」
 部員の雄叫びがグラウンドに響く。
 慣れない球数を投げて疲労していた京太郎の背中を、エースはグローブでトンと押した。
「お疲れ。助っ人にしては頑張ったじゃん。上出来。あとは外野で俺の勇姿を目に焼き付けなよ。体力だけはあるんだからさ」
 京太郎は守備位置につく。オレも、あんな風になりたかった。

 京太郎が野球を始めたのは、五歳の時だ。幼稚園の単なる遊びの試合である。ストライクを取って、ヒットを打って、塁に出た。活躍して褒められる喜びを嚙み締めた。友だちにも尊敬の眼差しを向けられた。
 小学校に上がると、少年野球チームに入った。そこにはオレより上手いやつが何人もいて、「負けてたまるか」「超えてやる」と努力した。だが、結果追いつくことはできなかった。それが悔しくて、中学は強豪校に入った。もっと力をつけようと、あえて厳しい環境を選んだのだ。練習には食らいついていたが、試合に出ることなどほとんどなかった。最後まで必死に足掻いても届かなかった。
 楽しいだけではだめなんだと、思い知らされた。高校で部に入らなかったのは、諦めたからというよりも家のことを優先したからだ。小遣いくらい自分で稼ごうと思った。ただでさえ大食いで食費がかかっている。誰かの足を引っ張りたくはなかった。
 自立したい一心で、バイトに専念することにした。その選択に後悔はない。部活に入っていなくても、毎日独自に練習してきた。エースの実力も、単なる才能ではないはずだ。短い時間の中、自分でその力を伸ばしてきたのだろう。
 エースは、危なげなく打者二人を仕留めた。チームに活気が戻って来る。京太郎の内心に熱がこみ上げてくる
 あれがエースの力か。すごいやつってのは、存在がでけえ。それに比べりゃ、オレなんかちっぽけなやつだ。
 ここからはクリーンナップだ。いくらエースでも打たれないはずがない。京太郎は気合を入れる。ヒットで塁にランナーが出て、次の打者が続いてくる。強い打球を飛ばされ、ボールははるか頭上をいく。
 京太郎は無我夢中で走り出した。これ以上点を入れられるのはまずい。たとえエースのようなレベルに届かなくても、吐血してでもそこに進んでやる。不格好でもいい。後悔だけは残すな。
 滑り込んで落下地点に入る。球はグローブにおさまり、アウト一つ確実に取った。すぐ起き上がり、三塁に向かうランナーを仕留めようと、力を振り絞って返球する。
「アウト!」
 審判の声に口角が上がる。そのプレーはチーム全体に火をつけた。助っ人があんなに食らいついてるなら、部員の自分だって負けてられないと、飛ばされる球を追い、次々と選手がファインプレーを見せた。
 そして最後の攻撃――。
 一人が粘りファールを出し続け、なんとかヒットを打ち出塁した。一人はバントで繋いでアウトになり、一人は追い込まれながらも塁に出た。その後、一人打ち取られ、ランナー二、三塁の好機がやってきた。代打のエースがスクイズで一点入れ、さらに勢いづく。
 食い下がるチームに、相手エースは苛立ちを隠せない。球が乱れてフォアボールになり、また一点入る。キャプテンがツーベースヒットで出塁し、同点になった。
 相手に焦りが見えてきた。格下にここまで追い詰められるとは思っていなかったのだ。
 勝てるかもしれないと、もう出番のない京太郎は応援の声を上げる。ところが、監督に声をかけられた。
「藤原くんさえよければ、代打で出るかい?」
 次の打者がバットを差し出す。
「今回はお前がMVPだ。打ってこい」
「いいんすか? こんな大事な場面で、オレみたいな落ちこぼれ」
「君は、技術はなくともあきらめの悪さと勢いが持ち味だよ。存分に打ってきなさい」
 ここでアウトになっても引き分けだ。どうせなら勝とう。バットを受け取るその目は、決意に満ちていた。
「うっす!」
 打席に立つ京太郎に、相手エースは苦言をこぼす。
「ここで打てないやつ使ってくんの、マジうざい。お前らが勝てるほど俺たちは甘くないんだよ」
 京太郎は深呼吸をする。いつもより周りがよく見えた。心も落ち着いている。足を引っ張るとか、エースとか、そんなの今はどうでもよかった。ただ、目の前のボールを打ちたい。久々の高揚感に口角が上がる。
 ここで打ったらかっこいいぞ、オレ。
 リードを取るエースにけん制が入る。ギリギリ勝つなんて面白くないと、相手エースは舌打ちをこぼした。いい気にさせたまま終わらせるのは、プライドが許さない。無意識に肩に力が入る。
 投げるフォームに入った時点で、エースとキャプテンが走り出す。それに気づいた投手は、怒りがマックスになった。結果、甘い球を投げてしまう。捕手の弟がまずいと思った瞬間、心地よい金属音を立てたボールは、空高く飛んで行った。ボールはフェンスを越えて落ちた。途端、歓声が上がる。ホームに帰った京太郎は仲間にもみくちゃにされた。
「マジかよ! ホームラン出しやがった!」
「初球デッドボールだったやつが生意気め!」
 京太郎は思った。どれだけできるやつだろうと、努力していないわけがない。いつもムカついていた長男も、何かしら取り組んできたのだろう。劣等感で押しつぶされる前に、追い抜くための努力をしよう。必ず達成できるとは言えないが、気持ちで負けたら、きっと一生できない自分を恨んでしまう。

 試合終了後、一同は焼肉店で乾杯していた。
「さあ食べて! 頑張った分だけお肉は美味しくなってるからね」
 食いしん坊の監督だが、意外と食べさせてくれる。旨味と達成感を噛みしめ、京太郎は爆食いした。
「遠慮がなくて逆に清々しいね」
「いいじゃない。大活躍だったんだから」
 だが、来店した客に箸が止まった。近くの席に座ったのは、親同伴の腹黒兄弟だった。
「何? あてつけ? 勝った後の打ち上げを敗者に見せつけてやろうってやつ?」
「いや、あんたらが後に入って来たんだろ」
 弟は目が赤く、兄は腑抜け状態でものを言わない。
「今度は負けない! 絶対負けない!」
 迷惑だと親に注意されるも、舌を出す。血気盛んな会話をする部員と兄弟に、監督は注意することなく微笑ましく眺めた。
「とくにお前! 次会ったらボコボコにしてあげるから!」
「いや、オレ助っ人だから会えるかどうか」
 兄弟が詰め寄る。
「は? ふざけんなよ! 入れよ! 野球部!」
「なめてんの? ねえ、勝ち逃げなんて許さないからね!」
 親に一喝され、二人は大人しくなった。
 帰り際――。
「たまには練習、顔出しなよ。張り合いがない」
「いつでも遊びに来てちょうだいね。あんたが来ると、いい意味で騒がしくなるから」
「あざっす!」
「藤原くん、今日の試合みたく他の分野でも頑張ってね。例えば再テストとか」
 監督の一言に、うっと嫌そうな顔をする。
 後日行われた再試は、死に物狂いで挑んだ。手ごたえはあった。返って来た用紙には六十点台がほとんどだった。決して自慢できる点数ではないが、成長の証でもある。だが、最後の一枚の点数を見て、京太郎は机に突っ伏した。

 社会:59点

 再再試が決定した瞬間だった。


この記事が参加している募集

#眠れない夜に

69,255件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?