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笑う門には福来る 第18話 明日ありと思う心の仇桜

 拓海は布団の中、横たわったまま思考に耽る。不登校になって、もう半年が経つ。時間が空けば、余計に教室に戻りづらくなる。今さら行ったところで、成績も人間関係も意味などない。最近ずっと無気力だ。ゲームをする気にもなれない。
 まるで砂漠をずっと歩いているようだ。水分も休める陰もなく、ただ果てしない道をフラフラと進んでいる。この干からびた心に、モチベーションという名の潤いが欲しい。
 重い心を引きずりベッドから降りると、扉にメモが貼り付けてあった。
『シュークリームからの挑戦状、冷蔵庫にて待つ』
 この書き方は絶対茂だ。寝起きからスイーツというのは邪道だろうが、がっつり食べるよりマシだった。
 家の中は静まり返っている。なんとなく音が欲しくて、テレビをつけた。報道番組の出演者たちが、不登校について語っている。
『最近増えているという引きこもり、不登校の子が教室に戻れる方法はないんでしょうか?』
『個人差はありますが、そのまま中退や卒業するケースが多いですね。学校以外の対人関係がないという状況は、本人の自己否定感を膨張させてしまいます。そのストレスにより、うつや不眠、家族への暴力といった影響が……』
 拓海は電源を消した。部屋にいても鬱々とする。外に行くのもだるい。動く気にもなれず、リビングでぼーっと窓の外を眺めた。空は憎たらしいほど晴れている。
 だんだん自分が落ちぶれていくような感覚がする。最近、寝つきが悪い。頭も働かない。鼓動が落ち着かない時もある。ご飯を前にしても、箸を持つ気力すらなく、食事という行為自体を重たいと感じるようになった。
 ずっと家にいて、何も嫌なことは起きていない。けれど、楽しくもなかった。楽をしているはずの現状は苦しいばかりだ。まるで誰かが、生きるなと言ってるように思えてならない。お前はもう、終わりだと。
 拓海はため息をついた。少しでもストレスが逃げてくれたらと願いながら。

 母からは、無理して行かなくていいと言われている。それは一見、優しい気遣いと取れるが、もう行けないのだろうと諦めたとも感じられる。行けるものなら行きたい。普通に過ごして、普通に卒業したい。人間が嫌なだけで、勉強は嫌いではない。
 とはいえ、担任から受け取ったプリントを解く気にはなれなかった。プリントだけ渡されても、できるわけがない。教科書を見るだけでは、難航するに決まっている。
 山積みのプリントを見るたび、放置されているようで悲しくなった。教師も母も兄も構う時間などない。自分のことで精一杯だろう。だが、自力でできる気がしない。頭では必要性を感じていても、心がついてこないのだ。
 兄たちは進路のことを考えている。その姿を見聞きすると、自分も何かしなければという罪悪感に襲われる。いつか弟にも妹にも追い越されて、自分だけが取り残されそうだ。
 窓越しに太陽を見て思う。俺の心も照らしてくれたらいいのに。太陽は照らすどころか、眩しいだけで目も開けられない。刺すような明るさは、毒だ。太陽の下を歩く人間は、一体どんな未来を想像しているだろう。俺には真っ暗な未来しか見えない。
 後ろを振り返れば、情けなくなるだけだ。自分が嫌になるばかりだ。目の前にある階段すら、一つも上がれないなんて。

 帰宅の音がする。この時間は小春だ。話しかけられても、答えられる気がしない。拓海は部屋に逃げた。することもないため、これまでの作品を見返す。自作のキャラクターストラップやイラストを彫った木製メダル、家の模型など……。
 これが誰かの役に立つのなら、報われるだろう。遊んでいるだけだと思われたくない。この積み上げてきた全部が無駄であったなら、俺は一体何のために生きているんだろう。
 拓海は自分が情けなくなり、二時間くらい泣いた。
 家族が帰ってきて、家の中に生活音が響く。京太郎が部屋に戻り、拓海は布団をかぶった。泣いた後を見られたくなかったのだ。
「タク? 寝てんのか?」
「……起きてる」
「お前、まさか一日中横になってたのか? 飯は?」
「シュークリーム食べた……」
「もうちょいなんか食っとけよ」
 ガサゴソ探る音の後、筆記用具とノートの擦れが聞こえた。課題をしているのか。あの勉強嫌いの兄が。
 顔を出すと、教科書を開いて懸命に問題を解こうとする兄の姿があった。
「ねえ、熱でもあるの……?」
「ねえけど、もうバカとか赤点とか言われんの、いい加減黙らせたくてよ。オレまだ一年だし、あと二年もすりゃ90点一つくらい取れるようになんだろ。だから、ちょっとでもやっとこうかと」
 いつもならキレて終わりなのに。何か火付けになる出来事があったのだろう。
 一歩踏み出せずにいる拓海には羨ましく思えた。
「勉強苦手なのに、どうして学校毎日行ってるの……? 嫌じゃないの……?」
 拓海の呟きに、シャーペンを持つ手が止まる。
「まあ、楽しいかって聞かれると正直、義務感の方が強いな。でも、部活の助っ人とか、友達とバカやって駄弁ったりとか、案外面倒なことばっかでもねえよ。そりゃ、勉強なんか社会出ても役に立つか微妙だけど、やんねえよりはマシかなって。無駄な悪あがきに見えるか?」
「いや、立派だと思うよ。毎日学校とかバイトとか、いろいろできてる。俺と違って……」
 鈍感な京太郎でも気づいた。拓海が不登校について、悩んでいることを。行くべきという義務感と、行きたくない本音が、複雑に混ざりあって悲鳴を上げていて、行けない自分に引け目を感じていることを。
 気の利いたセリフなど言えないため、思ったことを素直に口にした。
「不器用なオレからすりゃ、お前の多趣味は十分すげえことだよ。オレは、筋トレ以外これといって趣味ねえし。そんだけ趣味あるなら、何かフリマアプリにでも作品出せば? やろうと思えば、お前もできるって。今はなんか、心折れてるみてえだけどさ」
「……」
 母が二人を呼んでいる。
「とりあえず、飯食おうぜ。寝るのも悩むのも、エネルギー使うんだし」
「ん……」
 気合を入れて頑張れるほど強くはない。そうしようという強い理由が欲しい。それがなければ、きっと前に進み続けることはできない。変わるきっかけが欲しい。待っているだけで転がってくるものではないのだろうけれど。
 久しぶりに家族と食卓を囲む。
「あ! たっくんがいる!」
「悪い……?」
「ううん、うれしい!」
「食べれる分だけ食べればいいからね。残しても、うちの残飯処理代表取締が」
「だから何なんだよ! その役職!」
 笑う気にはなれないが、ご飯には手を付ける。黙々と口に運ぶ拓海の横で、京太郎が思い出したように話を振る。
「あ、そうそう! 不登校のやつが復帰するルート、なんか知ってっか?」
 拓海は堂々と公言してしまう兄を睨んだ。誠司がその疑問に答える。
「あー、義務教育なら留年はないし、とりあえず課題こなして、時々別室でテスト受けてりゃ、卒業はさせてもらえると思う。あるだろ? ふれあい教室的な」
 そこに母が口を挟む。
「一理あるけど、そこから教室に上がれた子ってどれくらいいるんだろうね」
 悩む自分よりも周りが盛り上がる状況に、拓海は嫌気が刺した。口を出さないで欲しいと願う自分を薄情ものだと感じた。心配とは時に、プレッシャーになるものなのだ。
「まあ、せめて中卒までは頑張れ」
 さすがに黙っていられず、拓海は口を開く。
「でも、中卒で職なんてないでしょ。よくてフリーター……」
「芸人とか社長とか、意外と中卒いるぞ。その人間嫌いは何とかしないとだろうけどさ」
「社会はどう転んでも人と関わるようにできてるからね。少しでも話せるようにならないと。カウンセリングとか受けてみる? さっきのふれあい教室も、見学しようと思えば……」
 かき乱された拓海の心は、母の言葉で爆発した。
「ねえ、どうしてそうやって追い込むの……?」
「追い込んでるわけじゃない。こういう方法があるって」
「俺が立ち直ってもないのに、勝手に話進めないでよ……!」
 拓海の怒りに誠司が反応する。
「じゃあいつになったら立ち直るんだ? 部屋こもってて回復するもんなのか? こういうのは、外に出てちょっとずつ克服していくもんなんだよ」
 茂は不穏な空気に割り込もうとしたが、一足遅かった。拓海は席を立ち、泣きそうな顔で部屋に戻っていった。
 兄たちは何もわかっていない。外に出るだけの気力がないことを。人と対面した時の焦燥感も。

 兄の食べ残しを見て、茂は思う。僕は兄に何をしてあげられるだろう。何か声をかけても傷つけてしまいそうだ。だが兄はきっと変わりたがっている。背中を押して欲しいと願っている。このままでいいとは思ってないはずだ。
 拓海は扉に背をつけ、座り込んだ。涙を拭い、嗚咽を漏らす。理解されない虚しさと、自分の情けなさに支配されていく。ストレスの海に溺れそうだ。
 息をしようともがいて水面から顔を出しても、すぐに海中に引き戻される。助けなんてこないのに。自分で泳ぐ力なんて、もう残ってない。どうせこのまま溺れて死んでしまうんだ。俺なんて。
 全身が氷水に浸かったように、拓海の心はすーっと冷えていった。

 風呂上がり、茂は部屋でアルバムを開く。兄をどうしたら笑顔にできるか、ヒントを探すためだ。きっとそれは、いつものように笑わせることではない、他の何か。
 幼い頃の写真を見返し、昔兄に言われたことを思い出す。あれは運動会の帰り道のことだ。まだ笑顔に切り替えることができなかった頃である。
「どうしたの? 元気ないけど。シゲの組、優勝したんでしょ? もっと喜びなよ……」
「リレー、僕のせいで負けたって言われた」
「じゃあその子に後悔させてやりなよ。他のことでその子が困ってたら、助けてあげるの。シゲを責めたこと、謝ってくれるかもしれないよ。まあ、言ったことすら忘れてる可能性もあるけど……」
 兄は茂の頭を撫で、続けた。
「俺はシゲが誇らしかったよ。どんどん抜かされていくのに、全然あきらめないで必死に走ってた。俺ならあの場面、やる気なくして歩いてたと思う。シゲがあんなに頑張ってたんだもん。俺も苦手なこと、頑張ってみようかなって元気もらえたよ……」
 茂は立ち上がって部屋を出た。今は僕が兄になればいい。

 一方、拓海はベッドに腰掛けて俯いていた。閉じこもってから楽しいことが減った。ゲームも絵も、どこか気の抜けた状態で手を動かしていた。夏祭りにも行けていない。昔は楽しかったのに。みんなが楽しんでいるものに混ざれない。一人では楽しくない。情けない。こんな矛盾だらけだなんて。
 どんなに手を伸ばしても、もう戻れないのか。誰かと遊び、笑えていたあの頃には。この先なんの楽しみもなく、ただ罪悪感に押しつぶされる日を過ごすくらいなら、遺書を書いてみようか。どういう死に方が一番だろう。死ぬのも楽ではない。

 涙が乾く頃、ノックがして茂が入ってきた。
「……何?」
 今ふざけられても腹が立つだけだ。何か酷いことを言ってしまう前に、出て行って欲しい。
 茂は何も言わず、拓海の前に立った。
「放っといてくれたら助かるんだけど……」
 一瞬、いたずらっぽく笑ったかと思うと、茂は抱きついてきた。
「ちょっ……なに……?」
 戸惑いを隠せない拓海の耳元で、茂は静かに言った。
「本当に放っといたら、兄ちゃん救われるの?」
「……」
「鬱陶しくてごめんね。でも兄ちゃんは足りないんでしょ? 温もりが。寂しいんでしょ? いつも一人でこもってるし」
「わかったようなこと言わないでよ……」
 消え入りそうな声で、弟の体を優しく突き放す。
「俺、もうどうしていいかわからないよ。何かしないとって思うほど息苦しくなって、心がついてこなくて……どうせこの先、俺に明るい未来なんてない。みんなみたいに頑張れない。それならいっそ、死んじゃった方がいいんじゃないかって……」
「そんな顔して死ぬつもりなら、ダメだよ。本当にしたいことなら、笑顔のはずだもん」
「バカなことだって思うでしょ? でもね、これが今の俺なんだよ。せっかくこんなのがあるって、みんな気を遣ってくれてるのに、俺はそれを全部跳ね返してる。ごめんね、シゲ。俺もうおかしくなっちゃったんだ……」
「よかった。兄ちゃんの本音聞けて」
 顔をあげた兄に、茂は笑みを浮かべた。
「今は休もう。気分転換いっぱいしよう。ゲームに飽きたなら、他のことやってみようよ。僕も一緒に探すから。寝てばかりもしんどいでしょ? ゆっくりでいいからさ」
 誰より優しい声色だった。弟に頭を撫でられ、拓海は少し落ち着いた。
「でも、学校行かないと就職とかさ……このままじゃ、一銭にもならないもの作って、ただ遊んでるだけだし、バイトだってできっこないし、ニートになったら迷惑かけるし……」
 不安の雪崩が止まらない。こんなことを、小六の弟に言ったところで仕方ないのに。
「もしそうなったら、その時は僕が養ってあげる!」
「え……?」
「その代わり、いろんなの作ってよ。僕ね、兄ちゃんの作品もっとみたい!」
 渦巻いていた黒い塊が、ほぐされていく。弟は楽しそうに話した。
「作り続けてどこかに出してたら、いつかプロデューサー的な人が目を止めてくれるかもしれないよ? 好きなことを仕事にって狭き門だけど、必ずしも会社入ってパソコンとお見合いしなくてもいいと思うよ。不登校のこの時間生かして、他の人より技術磨いちゃえば、有利になると思わない?」
 拓海は力なく笑った。現実的でないような妄想じみたことだが、心が温かくなった。
「そうかもしれないね……」
 情けない。弟にこんなことを言わせてしまうなんて。それで元気をもらうなんて。
「今日はもう寝ちゃう? お風呂入れそう?」
「いろいろ疲れたから寝るよ。ありがとう……」
 寝る時も、茂はそばを離れようとしなかった。
「俺もう小さな子どもじゃないよ……?」
「今は子どもでいいんだよ。心が弱ってたら、大人でも子どもになる。だから今はたっぷり休んで、たっぷり甘えてね」
 おやすみと言って、茂は部屋を出て行った。止まったはずの涙が、またこぼれ始めた。

 拓海はぼんやりと幼い頃を思い出す。動物園で迷った時、茂は俺の姿を見るなり、泣きながらすがりついてきた。眠れない時は、絵本を手に部屋に来て、読んでとせがんだ。公園へ連れ出しては、時間を忘れて一緒に駆け回った。雨の日は折り紙を教えた。兄弟の中では、一番遊んだと言えるだろう。
 わからないことも困ったことも、全て母より先に俺に言ってきた。いつも俺の真似してついてきた。いつのまに、こんなに大きくなったんだね。
 その夜は珍しくよく眠れた。早めに寝たため、朝帯に起きることができた。ノックの後、茂が顔を出す。
「おっ、兄ちゃんが朝に起きてる! 今夜はお赤飯だね」
「そんな大げさな……」
「せっかくだし、リビングいこ!」
 手を引かれるまま、皆の元へ赴く。
「あ! たっくんだ!」
 忙しなく動く母が手を止めた。
「朝ごはん、食べれそう?」
「いい……」
「コーンスープはいかが~」
 茂の提案に、一瞬考えて承諾した。
「ハル、キョウ起こしてきて」
「はーい!」
 口論する声が聞こえて、すぐに乱暴に扉が開く。
「やべえ! 飯食う時間ねえ!」
 ドタバタする兄を横目に、スープを飲む。やけに懐かしく感じた。半年前は、自分も同じように過ごしていたことをぼんやりと思い返す。
 拓海に気づき、京太郎が動きを止める。
「なに……?」
「いや、珍しいなって。おはよう」
「おはよう……昨日はごめん」
「気にすんなよ! キゲン悪い日くらい誰にでもある」
「アニキ、遅刻するよ?」
 京太郎は再び慌てて走り回る。
 数十分後、茂も出発した。
「いってらっしゃい……」
 茂は元気よく返事をして、付け加える。
「もしやることなかったら、僕の部屋探索していいよ! ちょっとは新鮮かも!」
 しばらくして、妹と母も出発していった。
 窓から差す日光に当たり、眩しさとあたたかさを感じる。朝起きるだけで、こんなにも景色が違うのか。今夜もできるだけ早めに寝るよう、心に決める。今できること……些細なことでもいい。何か成長できたら自信になる。
 午前は窓の外の景色をデッサンした。キッチンを漁り、ゼリーを胃袋にしまった後、茂の提案通り部屋を探索する。茂の机には、大喜利まじりのテスト回答や持ち帰った作文が重ねられていた。提出物にもボケているのか。呆れと共に感心を覚える。
 ネタ帳にはぎっしりメモが書かれていて、ボケも努力の結果であると知る。感化されるまま部屋に戻ってノートを開き、今日の日付と天気、やったことを書く。これなら、あとで読んだ時に振り返ることができる。嫌なことばかりではなかったことを、証明できる。
 家事を代わりにこなすことができたなら、母は喜ぶだろうか。
 しばらくして、小春が元気に帰って来た。
「おかえり……」
「ただいま! きょうね、カエデちゃんとね——」
 笑顔で語られるたわいもない話に、眩しさを覚える。とにかく帰りたくて仕方がなかった自分が情けなく思えた。
 ネガティブになりそうな自分に、言い聞かせる。学校はとりあえず、まだ行かなくていい。まずは家の中でできることをしよう。
 茂が帰宅し、家の中が賑やかになる。
「兄ちゃん! 絵教えて? 今度図工でポスター描くんだけど」
「いいよ……」
「ハルもやる!」
 久しぶりに楽しいと思った。人と何かすることが、嫌だったはずなのに。もしこれが学校でできていたら、少し違う未来が待っていたかもしれない。


 一週間かけて朝起きる習慣をつけた三男に対し、誠司は布団からすぐに出られなかった。いつものように早起きしようとするも、体が熱くだるい。頭も痛い。不調を知らせる脳を跳ね返し、体を起こす。今日も生徒会の仕事が山ほどあるのだ。遅刻するわけにはいかない。
 頭ではわかっていても、このまま寝ていたいと本能が叫ぶ。ため息をつく兄に、目を覚ました茂が声をかける。
「どうしたの? 兄さん」
「ケホッ、なんでもない」
「昨日から咳増えたよね? ひょっとして風邪?」
 答えずに部屋を出る。階段を降りようとするも、ふらついた。頭がぼんやりして、注意力が低下している。茂が誠司の額に手を当てる。
「うん、熱だ! 今日は休もう!」
「いや気のせいだろ。熱なんて出てない。絶対出てない」
 リビングに行くと、茂が母に報告する。
「母さん、兄さん風邪かも! 体温計どこ?」
「大丈夫だってこれくらい」
「熱がないなら測って証明してよ」
 普段ならば言い負かすところだが、結果は38.6度だった。
「今日は休みなさい」
「体温計が壊れてるんじゃ」
「休みなさい」
 問答無用といった口調だ。母が学校に連絡を入れる間、渋々マスクをつけて額にシートを貼る。
 文化祭は明日だ。よりによって、前日に休むことになろうとは。病院が開くまで、リビングで突っ伏していると、起きてきた京太郎が驚きの声を上げた。
「まさかサボりか⁉」
「んなわけねーだろ。風邪だよ」
「見かけによらず軟弱だな」
「お前はいいよな。バカは風邪引かないっていうし」
「体調管理出来てねえやつの方がバカだっつーの!」
「ふとんでねてるほうが、いいんじゃない?」
「いいよ。どうせ病院行くんだし、一回寝たら、二度と起きれそうにない」
 兄弟たちが出発するのを耳で聞き、重い腰を上げて病院へ向かった。

 家に一人残った拓海は、茂に託されたメモを開く。もし兄貴に必要なものがあった場合、買ってこられるのは自分だけだ。だが、外に出るのはまだハードルが高い。
 最近、ようやく朝食にゼリーやスープを口にするようになった。ゲームやイラストに夢中になると時間を忘れるため、昼はまちまちだが、夕飯は必ず一緒に食べている。
 眠い時は昼寝をして、茂の助言でラジオ体操を始めた。勉強はまだ手をつけていない。プリントに手を伸ばし、眺めるたびにやる気がなくなるのだ。早く取り組んだ方がいいのはわかっている。やらなければ、たまる一方だ。
 作ったものをフリーマーケットに出してみるも、中々売れない。時々、今さら抗っても無駄なのではと不安がよぎる。まだまだ理想には程遠い。自分のペースでいいのだと言い聞かせるも、焦りが顔を出す。せめて、おつかいくらい行けるようにならなければ。
 拓海は深くため息をつき、ストレスを逃がそうと必死だった。胃痛がする。考えすぎて頭に熱が集まる。
 長男の帰宅に、悶々とした思考が止まる。介抱できるのは自分だけという、謎の使命感が拓海を突き動かした。今は看病が先だ。改めて茂のメモに目を通す。

 作業× 勉強× ドリンクはこまめに 
 まくら用保冷剤出して
 食欲なくてもフルーツやお茶漬けを勧めて

 早速ドリンクを準備し、保冷まくらと共に部屋へ持っていくと、机に向かって作業しようとしていた。
「熱あるのによくやろうと思うよね……」
「ただでさえ、あいつら(生徒会)は何かとやらかすからな。どうせ明日の朝はフォロー入らなきゃだし、今やっとかないと」
 誠司は咳き込んだ。
「でも、無理してやるのは合理的じゃないでしょ……」
「じゃあせめて課題を」
「だめ……」
「珍しいな。お前がお節介焼くなんて」
「別に。シゲに頼まれた……」
「でも、半日ずっと寝てらんねえよ」
 本を手に取るも集中できず、DVDを漁るもすぐに手を引っ込める。横になった誠司は、趣味も作業もできない自分が酷く無能に思えて腹を立てた。
 そんなイライラが伝わってきて、拓海は遠慮がちに切り出した。
「お昼どうする……?」
「いらね」
「……」
 なぜ茂は心折れずに話しかけられるのだろう。何か口に入れた方がいいと提案したいが、躊躇いが顔を出す。
「看病しなくていいぞ。お前のやること、やりたいことをやればいい」
 お役御免と言われてしまっては、なす術がない。大人しく退出した。拒否されるのが怖いから言い出せない。例え兄弟であってもだ。
 これまで、茂の提案やお節介を跳ね除けてきたことを思い出し、罪悪感が込み上げる。落ち込みから昼食を食べる気にならず、部屋でゲームをして現実逃避に走る。
 結局、俺は逃げているだけだ。これでは、いつまで経っても成長しない。

 茂が帰ってくると、誠司は自室で映画のパンフレットを眺めていた。
「シゲ、暇―。なんかない? 退屈すぎて死にそう」
「やることないなら遊ぼうよ」
「移るぞ」
「バカは病気しないから!」
「お前は変人ではあるけど、バカじゃない」
「頭脳明晰? それほどでも!」
「そこまで言ってない」
 茂はボードゲームを取り出した。オセロである。
「いいのか? お前俺に一回も勝てたことないだろ」
「風邪引いた兄さんになら、勝てるかもしれないでしょ?」
「じゃあハンデ、四つ角全部やる」
「ぺろっぺろに舐めてくれちゃって! 後悔しても知らないからね?」
 茂の白が有利と思われたが、後半巻き返されて、盤上はほぼ真っ黒に染まった。
「オーマイガー!」
 今度は別のゲームを持ってきた。樽に剣を刺し、おっさんを飛ばした方の負けである。
「じゃあ次これ! これなら勝てる! だって運ゲーだもん」
「お前そんなに負けず嫌いだったか? 負けても悔しそうな顔一つしなかったろ」
「だって兄さんの負けたとこ見れるチャンスだし、弱ってる今しかないって思って」
「風邪でそんなにステータス下がるわけないだろ。つーか意外とドSだな」
「兄さんさ、いつもできる男って感じに振る舞ってるじゃん。だからたまには無様なとこ見たいっていうか、同じ人間だってことを証明したいんだよね」
「……」
 おっさんを飛ばしたのは誠司だった。
「兄さん、運ゲー苦手説浮上」
 兄が負けた記念と、茂は写真を撮る。
「そんなの、もっかいやんないとわからないだろ」
「意外と負けず嫌いだよね、兄さんって」
 引き分けた後、誠司は横たわった。茂は風呂を洗いに階段を降りて行った。
 まるでサボって遊んだような背徳感に懐かしさを覚え、誠司の口角が上がる。メッセージでアイスを所望すると、茂は数分で持ってきた。
「ちゃんとドリンク飲んでる?」
「飲んでる」
 アイスを腹に入れた後、まぶたが重くなってきた。何にも縛られない一日だった。たまには風邪を引くのも悪くない。休んでいいという口実ができる。
 眠った長男の傍で、茂が課題や書類を覗く。アニキなら発狂する量だ。いや、兄さんも内心発狂しているのかもしれない。進路のことでアニキと揉めるなんてらしくない。いつもなら軽く受け流すはずだ。

 誠司が起床すると、夕飯の時間だった。頭は少々重いが、熱は下がっていた。家族と共にうどんをすする。風呂へ行こうとすると、熱が上がるかもしれないと止められた。茂が濡らしたタオルを持ってくる。自分で拭けると言ったが、
「病人は休むのが仕事だよ? サボるつもりなの? 兄さんらしくない」
 と言いくるめられたため、好きにさせた。
 俺は優等生というイメージがついてしまった以上、何かやらかせば「らしくない」だの「調子悪いのか?」だの完璧を求められるが、放っといて何でもできるような人間ではない。
 ヘマができないから努力する。だが、それが当たり前のように思われてしまう。がんばらなくてもできると思われているのか。初めから備わった力だとでも言いたいのか。俺だって、人並みに弱いのだ。とはいえ、それを簡単には見せられない。生徒会長、長男、優等生。求められるのは頼りになる部分だ。弱さなんて、周りの期待に霞んで誰も見ようとしない。
「シゲはさ、俺のこと兄としてどう思う?」
 頼りになると褒めるのか、それとも冷たいとディスるか。
「んー、もっと笑って欲しいかな。兄さん、いつも楽しそうじゃないから。でも、今日遊んだ時はちょっと嬉しそうだったね」
「……そうか?」
「そうだよ。兄さんは頑張りすぎ! ちょっとくらいふざけたり遊んだりしていいと思うよ。元々真面目なんだからさ、これ以上しっかりされると、周りがだめになっちゃうよ」
 誠司は呆気に取られた。
「そりゃ兄さんは優秀だよ? でもこうして風邪も引くし、ゲームで負けることもある。色々できるからって、ほったらかしていいはずがないんだ」
 大人の目は問題児の方に向きやすい。誠司はそれを嫌というほど知っていた。
「兄さんってさ、ストレス溜まりそうな立場なのに、愚痴ること少ないよね? だから溜め込んで風邪引いちゃうんだよ」
「風邪は関係ないだろ」
「でも、寂しかったんじゃないの? ホントは世話焼かれるの、嫌じゃないんでしょ?」
 現在進行形で背中を拭いてもらっている。
「……お前がやるって言って聞かなかったんだろ」
「だって放っておけるわけないじゃん! 会社員かってくらい仕事魔だし、ご飯ちゃんと食べないし、表情筋死んでんの? ってくらいつまんなそうだし。僕はほったらかしにしないからね。ちゃんと聞くからね。愚痴も弱音も」
「一丁前に言ってんなよ。小六のくせに」
 兄弟仲のリカバリーや家事の手伝い、いつも押し付けて任せてきた。面倒だと、目を逸らしてきた。気づいて欲しいと思いながら、誰かのSOSは見逃してきた。
 風邪のせいか、いつもより素直に自然と言葉が出てくる。
「お前の方がよっぽど苦労してんのにな。ごめん、俺逃げてたわ。お前がやってくれるって手抜いてた。長男のくせに兄弟のこと何一つ、助けてやれなかった。自分のことで精一杯で」
「助けてやれなかった? まだ間に合うよ。気づいた時が変化のチャンス! これから頑張ろう!」
 その激励に、誠司は微笑んだ。
「ありがとな。いつも助かってる」
「お~! 早速面接練習の効果が! いや~、兄さんの成長は早いですな」
「誰目線だよ」

 翌朝、すっかり熱は引き、咳も減った。念のため、マスクをつけて登校する。門には看板が出ていて、生徒たちがテントの下で、飾り付けや食品を運んでいる。誠司の姿が見えると、生徒会役員が駆け寄って来た。
「センパイ! もう大丈夫?」
「大丈夫だから来たんだよ」
「復帰、おめでとうございます!」
「ケホッ、あ~、俺も風邪引いちゃったかも」
「まごうことなき仮病ですね」
「聞いてくださいよ会長~、この人、会長がいない間はめっちゃ真面目にやってたんです! マジウケる」
「俺だって本気出せば、大抵のことはできるよ? 副会長なめんな」
「悪いな。一番大事な時期に休んじまって」
「あれ? まだ風邪なんじゃないの? 藤原クーン、やけに素直な……あてっ」
「口動かす暇があったら、手を動かそうな。もう時間ねえぞ」
 休んだ分、フォローをたくさんしてやろうと思っていたが、役員たちは予想以上の働きを見せた。
 勢いだけで計画性のない広報は、迷子やトラブルのところを嗅ぎつけて、対処や報告をした。サボり癖のある副会長は、フラフラ歩きながらも混んでいるところの手伝いをしていた。ミーハーで語彙力のない書記は、受付と案内を担当した。難しい言葉がつかえないが故に、明るい性格もあいまって、子どもたちにもわかりやすく伝えていた。
 敬語の使えない雑な庶務は、力仕事を率先して行い、ゴミをまとめたり器具を運んだ。無口な会計は、遊ばず淡々と確認作業や指示だしを行っていた。
 思い出すのは、京太郎の言葉だ。
 ――お前には能ナシに見えても、投票で決まったんだろ? だったらただの足手まといのはずねえだろ!
 今なら痛いほどそれが理解できた。
 文化祭の片づけが済んだ頃、誠司は声をかけた。
「この後、時間取れるか? 打ち上げしたいんだけど」
 メンバーの目が点になる。
「いいね! やろう! 明日は大雨だな」
 お疲れ様と互いに労う、ほんの数十分。それも、コンビニで寄り道してアイスを食べるだけの打ち上げだ。にもかかわらず、全員がどこか充実した顔をしていた。


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