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笑う門には福来る 第7話 子は生むも心までは生まぬ

 昼前、藤原家三男の拓海がベッドで目を覚ました。体を起こす気になれず、しばらく寝転んだままぼんやりする意識に身を任せる。
 壁には完成されたジクソーパズルが飾ってあり、棚の上には組み立てられたヘリやジオラマ、机にはパソコンが置いてある。制服は数回着て放置したままだった。窓際の壁のバンドポスターと、投げてある筋トレ器具は次男のものだ。
 拓海はゆっくりと体を起こし、ため息をついて布団から出る。家にはもう誰もいない。学校や仕事に行っている。
 偉いな。世間一般からすれば普通のことだけど、俺にはそれができていない。新学期開始から一ヶ月足らずで、俺は早くも不登校になった。中学二年で転校すれば、当然浮く。一年生ならまだしも、すでにできたグループには入れなかった。
 俺のことなんて誰も知らない。そんな環境なら、何もなく平穏に過ごせると思った。誰とも関わらず、ただ大人しく授業やテストを受けて、部活には入らずさっさと家に帰って趣味に没頭する。それだけでよかった。
 でも、そう上手くはいかず、こんな俺にも話しかけてくれる人はいた。単純な興味からだろうけど、俺はあいさつすら上手く返せない。会釈が精一杯だ。気にかけてくれるのは、きっといい人だと思う。それがわかっていても、俺には苦痛で仕方がなかった。迷惑かけてる自分が嫌だった。俺なんか、ほっといてくれて構わなかった。

 起床してまもないのに、もう落ち込んでいる。嫌な生活だ。お腹が空かなくても何か食べないと、活力は出ない。食べても出ないけど。
 お菓子と牛乳を腹に入れて、テレビをつける。シーンとしたリビングにいてもつまらない。テレビを見たところで気がまぎれることはないが、静寂の中にいると、余計自己嫌悪に陥りそうだ。
 引きこもってからというもの、俺の世界は灰色に染まった。泣けもしない。笑えもしない。何もする気が起こらない。気づけば、二時間が経過していた。なんて無駄な過ごし方だろう。
 拓海はテレビを消して、部屋に戻る。
 さて、今日は何をしよう。この生活は暇だけど気楽じゃない。何かしていないと、嫌なことを考えてしまうからだ。
 音楽を聴きながら絵を描くこと数時間、集中し始めればあっという間に過ぎた。学校もこれくらい早く過ぎてくれたらいいのに。
 ヘッドホンをしていて、帰ってきた音もただいまの声も聞こえなかったが、スマホを見ると夕飯の時刻を過ぎていた。すでに全員帰宅している頃だろう。ヘッドホンを外すと、ノックの音がする。だが、訪問者は入ってこない。
「ご飯、食べれる時でいいから食べてね。ラップしてあるから」
「うん……」
 母から見れば、学校サボって遊んでばかりの不良息子だ。行かなきゃいけないのはわかっていても、想像以上に負担がかかって足がすくむ。普通のことができない自分に嫌気が差す。情けない。
 母の気遣わしげな声がした。
「拓海、聞いてもいい?」
「何を……?」
「学校で何があったの? 別に無理に行かなくてもいいと思う。ただ、その理由が知りたくて」
「別に……ありきたりなことだけど? 人間関係とかそういう……」
「あんた昔から人見知りだもんね。ネットでもいいからやりとりする相手、見つけなさい。人間関係はこれから先もついて回るんだから、そのうち慣れるよ。今は逃げてもいいけど、いつかは乗り越えなきゃいけない時が来る。兄弟と上手くやってるんだから、出来ないはずないでしょ。少しずつでいいから、練習しなさい」
 黒い感情が湧き上がる。そういうことは考えたくない。自分で自然に考えるならまだしも、人に言われると急かされている感じがする。一気に不安が押し寄せてきた。
「そのうち慣れるって、俺もう中二だよ。俺は母さんみたいに度胸ないからさ、簡単に乗り越えるとか言わないでよ。俺だって、このままじゃだめなのわかってる。でもどうしていいかわからない……」
「ちょっとあいさつして受け流してたら、やり過ごせるもんよ。案外似た人がいて、友達になれるかもしれない。話しかけなくても、聞かれたこと答えるだけでいいじゃない」
「それができないからこうなってるんでしょ……! 俺は普通じゃないんだ。母さんと一緒にしないでよ……」
 自分でも思うよりひんやりした低い声が出た。
「……わかってあげられなくて、ごめんね」

 扉の前から気配が消えた。階段を降りていく音がする。こうして会話するだけで、涙が出てくる。親なのに通じない。いや、血が繋がっていても心がそうとは限らないのだ。虚しさを袖で拭っていると、階段のきしむ音がする。
「お邪魔しまーす。兄ちゃん、ゲームしよ!」 
 茂だった。
「ごめん。まだご飯食べてないから……」
「じゃあ持ってくる! 風呂は?」
「いい……」
「何のゲームするか決めといてね!」
 弟は部屋を出て行った。弟や妹の方がよっぽど立派だ。ちゃんと起きて学校行って、やることやって帰って来る。友達もいて、宿題もしている。俺はどれ一つとして出来ていない。
 中学中退なんて絶望的だし、中卒でも働き口なんかそうはない。せめて高卒までは行かないといけない。頭ではわかっているのに、気力が持つとは思えず、腰が上がらない。
 学校行かずに逃げて楽してるはずなのに、なんでこんなに苦しいんだろう。何で行かないのか。誰かに責められているわけじゃない。自分が一番そう思っている。
 戻ってきた茂は、温められたご飯をお盆に乗せてきた。
「食べ終わるまで、マンガ借りていい?」
「いいよ……」
 俺の性格が茂みたいだったら、苦労しなかっただろう。ムードメーカーなんて、俺には無理だけど。
 食事の時も気が休まらない。
 俺、一生このままだったらどうしよう。親のすねかじりニートになるのか。ただの足手まといになるくらいなら、いっそ……。
「兄ちゃんのおすすめどれ?」
「『十七歳の俺、ママになる』かな……。シゲが読んで面白いかはわかんないけど……シゲは何が好き?」
「ギャグかな。勉強になるし」
 こいつは人を楽しませるための努力を惜しまない。だから好かれる。クラスメイトに馴染める。例え途中から入ろうと関係ない。まるで最初からいたかのように、溶け込む力を持っている。
 何で平気なんだ。みんなが望む自分を演じて、苦しくないのか。誰かに合わせていくことで、自分を見失ったりしないのか。
 俺だけか。普通じゃない生活を送っているのは。外に出る理由など何一つない。人間がいる場所全てが危険地帯だ。後ろに並ばれるだけでプレッシャーを感じる。道を塞がれていても、声一つかけることすらできない。息苦しい世界だ。自分の行い一つで、目をつけられたり怒鳴られたりすることもある。

 大抵の人にとっては鼻で笑ってしまうほど些細なことだが、頭に一瞬、可能性がよぎれば怖くなる。早く済ませないと、後ろの人に舌打ちされるかもしれない。通れないと主張すれば、絡まれるかもしれない。
 一つ対応を間違えただけで、相手の目の色は変わってしまう。
 思い出すのは転入初日、好奇の目を向けられたあの瞬間だ。座った途端、前の席の人に出身地の話を持ち出された。
「なあなあ、青葉島ってどんなとこ?」
「そんなに面白いところじゃないよ……」
 一人相手でも精一杯なのに、隣の人も話しかけてきた。
「どこの部活入るか決めた? 見るからに文化系って感じだよな。よかったら見学来ない? 美術部」
「部活はちょっと……」
 愛想はなくても、ちゃんと返せていたはずだ。この時までは——。
 本人は悪気があったわけじゃないだろう。でも、俺は嫌だった。
「わっ!」
「……っ!」
 おそらくちょっとした好奇心だ。脅かしたら、どんな反応するか見たかった。ただそれだけだろう。俺は椅子から転げ落ちるほど驚いた。それを見た相手は笑った。
「大丈夫か? こんなに驚くとは思わなかったわ。逆に俺が驚いたよ」
 その反応が面白かったのか、一日に何度かされた。毎回ちゃんと驚いてしまう俺を見て、楽しそうだった。俺は楽しくなんてない。それがいつ来るか、ビクビクしながら生活していた。相手はもちろん、そのことに気づいていない。きっとこれを笑って許せたなら、友達になれたと思う。
 ストレスが溜まった俺は、我慢できなくなって突き飛ばしてしまった。それも、階段という嫌な場所で。
「いい加減やめてよ……! 俺が怖がるの見て、そんなに楽しい? 俺は君のおもちゃじゃない……!」
 言い切って後悔した。こんなことを言ったら、もう普通に話せない。相手は目を見開いた。
「悪かったよ。でも突き飛ばすことないだろ! 別にお前のことおもちゃとか思ってないし、つーか嫌だったなら最初に言えよ! 黙ってたらわかんねえだろ!」
 言えないから苦労してるんだよ。その後は地獄だった。相手は怪我を負っていた。俺は先生に呼び出され、謝る暇もなかった。クラスメイトの視線が痛かった。きっと俺が一方的にキレて、暴走したように見えただろう。情緒不安定なやつだと思われただろう。
 俺は悟った。ここに俺の居場所はない。

 茂のマンガをめくる音を聞きながら、ただ料理を口に運ぶ。温かいはずなのに、美味しいはずなのに、なぜか心は冷えていく。
 社会で生きていくのに、人間と関わらないなんて無理な話だ。俺は社会に適合していない。周りに置いていかれるばかりで弾かれる。
 完食したのを見計らって、茂が声をかけた。
「皿、僕が持って行くからゲームスタンバイしといて!」
 これも気遣ってのことだろうが、自分が何もできない無能なやつに思われている気がした。 俺って嫌なやつだ。いつからこうなってしまったんだろう。
 鬱憤を発散するように、俺は弟相手にボコボコにした。それでも茂は笑って楽しかったと言った。楽しいわけないだろ。負けてばっかりで。
 おやすみを交わした後も、俺はゲームを続けた。気づけば日付を超えて朝日が昇っている。同じ家にいるのに、俺だけ取り残されている気分だ。
 画面にはゲームオーバーの文字が表示されている。まるで、お前の人生は終わりだと告げているようだった。電源を切って拓海は思う。こんな風に人生も簡単に終われたら、どんなに楽だろう。

 藤が咲き誇る五月——。
 夏でもないのに気温は二十度を超え、半袖で過ごす日々が続く。
 小春は出かけたくてたまらなかった。大型連休に入ったものの、母は仕事、長男はバイトか部屋にこもって紙と睨めっこ、次男は部活の助っ人に行き、三男は外に出ようとしない。茂と出かけられても、せいぜい公園などの近所だ。
 庭で洗濯物を干す母に、小春はここぞとばかりに主張する。
「かあさん! きょう、シゲにいのたんじょうびでしょ? たべにいこう!」
「そうね。茂、何が食べたい?」
「母さんの手料理! と言いたいところだけど、何でもいいからファミレスかな」
「この前行ったろ」
 長男がスマホをいじりながら言った。
「じゃあフードコート」
「あれはショッピングのついでに行くとこだろ。わざわざ食べるために行くか?」
 次男が筋トレしながら言った。
「じゃあ、みんなどこがいいか言ってみてよ」
「パンケーキ!」
「おやつじゃん」
「焼肉かステーキ」
「高い。お前バカみたいに食うんだから、腹たまるお好み焼きとかの方がいいだろ」
「出前でいいだろ。それ」
 三男が部屋から出てきた。
「兄ちゃんはどこ食べ行きたい?」
「どこでもいい……。っていうか俺行かない……」
「何食べたい?」
 ニコニコと無言の圧力がかかる。
「……パン食べ放題」
 何食べる論争が起こり、母が提案する。オープンしたばかりのオムライス店だ。パート先で割引券をもらったという。決定したはいいものの、三男は行かないの一点張りだった。本人曰く「知り合いに遭遇したら嫌」だそうだ。
「大丈夫。意地悪は家族同伴だと来ないし、もし話しかけてきたら、僕がそれとなく逃がしてあげるから」
 必死の説得で合意を得た。せっかく出かけるなら全員がいい。それが茂の信念である。

 車に乗って早めに行ったが、行列ができていた。車の中で待つ間、子どもたちが口々に文句を言う。
「腹減った」
「やっぱりパンケーキいこうよ」
「これなら出前でよかったじゃん。四十五分もあったら、課題何個終わるか」
 そんな子どもたちを母が𠮟った。
「あんたら何歳よ? ちょっと待つくらいできるでしょ。パンケーキは今度母さんと行こうね。今は我慢して」
「はーい」
「アメ食べる人~!」茂が言い出した。
「はい!」小春が一番に名乗り出る。
「何味?」
「アンモニア」
「そんなもんあったら、販売元の正気を疑うわ」
 三男が黙々とゲームを始める中、茂が提案した。
「しりとりしない?」
「する!」
 兄たちは渋々参加し、三男はパスした。
「普通にやったら面白くないな。動物限定で」 
 長男の案だ。
 小春、茂、長男、次男、母の順で繋げていく。
「リス!」
「すいか」
「動物って言ってるだろ」
「イカの最終形態!」
「足十本どこ行ったんだよ」
「はっちゃけすぎだよ色が……」
「じゃあスルメ!」
「干された……」
 一々茂のボケに付き合っていたらきりがないと、長男がさっさと進める。
「カラス」
「捨て猫」
「こぶた」
「たぬき!」
「きくらげ!」
「クラゲじゃないからな。あれ、きのこ」
 茂の番で必ず止まる。そのボケは一段階ランクアップした。
『君キュートだね! 今日お茶しない?』
「しない」
『綺麗だね! キスしていい?』
「だめ」
「おい戻ってこい。結局なんだよ」
「キザなキジ!」
 ようやく進んだところで、長男が続ける。
「ジャッカル」
 次男はしばらく唸ると、苦し紛れに「ルームメイト」と答えた。
「動物とシェアってこと……?」
「じゃあルンバ!」
「掃除機だろ」
「動くものと書いて動物だろ?」
「よく知ってたな。でも図鑑には載ってない。アウト」
「キョウちゃん『だつらく』!」
 続いて、母の番だ。
「ルーマニアのわんこ」
 反則スレスレである。
「コアラ!」
「ラムチョップ!」
「だから調理するな。生きてるやつにしろ」
 茂の茶番がまた始まる。
『ラッキーだよ、僕は! こんな可愛い彼女がいて』
『ライオンより強くてかっこいいのは、あなただけよ』
「結局なに?」
「ラブラブなラマ!」
「ラマでよくね? 何その時間稼ぎ」
 長男から再開する。
「マナティ」
「ってなに?」
「調べてみ? 海の生物」
「人魚に間違われるやつだよ……」
「ティ○カーベル」
「ルーシー!」
「誰だよ!」
 次男のツッコミに小春は正論を返す。
「にんげんも『どうぶつ』だよ? にんげん、まだでてない」
「どこで覚えたんだよ。そんな姑息な手。つーかルーマニアのどうよ? 俺のルームメイトはセーフじゃね? 人間ってことで」
「だーめ! キョウちゃんアウト!」
 母のスマホに通知が来た。
「席空いたって」

 オムライスを前に、家族団らんの時間を過ごす。茂はこの時間が一番好きだった。たわいもない話をするだけでも、心が温かくなる。話題は修学旅行に移った。
「僕ね、レク係になった」
「ぴったりじゃねえか」
「修学旅行か。俺、問答無用で班長にされたな」
「そりゃ、兄さんはしっかりしてるもん」
「俺も班長だったぞ?」次男が張り合う。
「だから何? あんなの立候補する人いないんだから、手を挙げれば即決定だよ……」
「何で俺だけ当たり強いんだよ!」
「リーダーってたまじゃなくない? キョウちゃん」
「真っ先に先生に怒られるタイプだもんな」
「確かにマンガ持ってって怒られたけど!」
「兄ちゃんはどうだった?」
「遊園地で一人迷子になって、時間潰れた……」
「あらま。お土産、何がいい?」
「ぬいぐるみ!」
「高いぞ。遊園地のは」
「自分の好きなもの買って来なさい」
 母は茂の意思を尊重した。茂は物心ついた頃から「これが欲しい」「あれ食べたい」などと言わなくなった。最近、我慢させているのではと懸念しているのだ。兄弟の中で唯一手伝ってくれる上、妹の面倒も見てくれる。助かっている部分は多いが、もう少しわがままを言って欲しいというのが母の心境であった。
「兄ちゃんも今年行くんでしょ? どこ?」
「行かない……学校の連中と何日も顔合わせるなんて、地獄じゃん」
 三男はオムライスを半分残し、次男に託した。
「あげる。残飯処理代表取締……」
「えらいんだか、なめてんだか、わかんねえ役職だな!」

 帰宅後、茂は自室でプレゼントを開けた。父からは、つけひげやシルクハットなどの雑貨詰め合わせ、長男からはお笑い芸人のイラスト付きマグカップ、次男からはネタ帳、三男からはギャグマンガ、末っ子からは絵、母からはお笑いライブのDVDをもらった。夜にはケーキが待っている。
 土産は自分の好きなものをと言われたが、家族の喜ぶ顔が見たい思いが強い。修学旅行は楽しみな反面、寂しくもある。兄たちの旅行中は寂しかった。
 長男がいない時はハプニングが起こっても相談役がおらず、大変だった。次男がいない時は、いつもより静かだった。比較的静かな三男がいない時も、食事の席が一つ空いていただけで物足りなかった。
 僕がいなくなったら、みんなはどう思うだろう。寂しがってくれるだろうか。


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