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笑う門には福来る第12話 恋に師匠なし

 公園には水たまりが大量発生していた。ブランコや滑り台、茂みの蜘蛛の巣は水滴がついて煌めいている。子どもたちは傘を差し、自身の体とランドセルをかっぱで覆って集合していた。
 茂はねこじゃらしを手に、登校班と合流する。
「おはよう! いい天気だね!」
「カエルにとってはな」
 あとは坊主の石川を待つのみだ。その間、茂は傘を思い切り振ってひっくり返し、暇をつぶす。
「壊れちゃうよ?」
 結果、元に戻せなくなった。
「松本くん、傘入れて?」
「自業自得だろ」
 数分後、なんとか元に戻したところで全員が揃い、学校に向かって歩き始める。
「昨日のあれ見た? テレビ」
 石川が話題を振る。
「『中学生中二病クイズ』? それとも『異世界ばーちゃん』? いや、『たんたんのおつかい』か!」
「お前はどこの世界のテレビを見てきたんだよ。ドラマ! ほら少女マンガを実写化したやつ」
「見た! よかったよね」女子が反応した。
「壁ドンとかさ、あんな感じにかっこつけられたらいいんだけどな」
「現実にいたら、ただのおかしいやつじゃん。つーかもはやカツアゲに見える」
 松本が呆れ顔で意見した。
「あれはイケメンがやるからいいんであって、あんたじゃ無理」
 尾野の厳しい意見に「くそっ! 結局顔かよ!」と石川が嘆いた。
「桜井さんは多分、壁ドンしたら怖がっちゃうんじゃない?」
 茂の一言で急に元気になる。
「だよな!」
「あんたじゃ、何しても怖がるよ」
「俺の何が怖いんだよ!」
「頭と大声じゃない? 桜井さんと同じ三つ編みやってみたら?」
「できるか!」
「やってもドン引き確定だろ」
 靴箱に到着すると、ちょうど桜井も登校してきた。石川があいさつしようと口を開くも、尾野に防がれてしまった。
 昔いたずらで驚かせたりして、泣かせたのがダメなのか。過去の俺を恨む。

 一時間目は家庭科である。ピカピカに磨かれたシンクを前に、生徒たちは着席している。先生が入ってきて、石川の号令がかかった。桜井に笑ってもらえるよう、茂を含めた数人に協力要請してある。
「起立! 礼! ありがとうございました!」
「まだ終わってないどころか、始まってもない!」
「いやー、よかったですよ! なぐもん先生」
「ブラボー、ファンタスティーック」
「調理実習、不参加にするぞ」
「すいませんでしたー」ふざけ隊の声が揃う。
 クラスに笑いが起こる。石川がチラッと視線をやると、桜井は尾野と顔を見合わせ笑っていた。石川の心に幸せが広がる。
「俺、これで飯三杯は食える」
「どれで? 材料何も用意してないぞ」
 味噌汁を作るため、班で手分けして動き始める。茂の班には石川、坂口、尾野、桜井、隣の班には西岡、松本、藤丸が集結している。
 隣の班は早くも軽口を叩いていた。
「西岡っていい出汁取れそうだよな」
「お前、風呂の残り湯飲むのかよ? 汚ねえな」
「出汁は断然いりこだよねー。勝負にならなーい」
「それはそれでムカつく」
 一方、石川は桜井と同じ班でテンションが上がる。
 昨日見たドラマに、調理実習のシーンがあったのだ。これを機に距離が縮まるかも、と石川は期待した。
 十分後、具材を切り終えた西岡は、暇つぶしに知識を披露する。
「なあ、調味料の『さしすせそ』って知ってるか?」
 その問いに藤丸と松本が答えた。
「サーロイン」
「しし肉」
「ステーキ」
「背脂」
「肉そばー」
「お前ら何見て言ってんだ。コラ」
 そこに茂が乱入する。
「違うよ! 『さ』さすがですね! 『し』知らなかった! 『す』素敵! 『せ』センパイ勉強になります! 『そ』そうなんですね! でしょ」
「お世辞の見本か! 砂糖・塩・酢・しょうゆ・味噌だよ。これくらい常識だろ」
 石川と茂が反論した。
「え、『そ』ってソースじゃねえの?」
「大将、なんでしょうゆが『せ』なの?」
「味噌が『そ』に入ってるのもおかしいよな。頭文字じゃねえもん」
「二人とも、手が止まってるぞ」
 坂口が軌道修正に入り、茂は再び具材を切る。
「なんか隠し味入れる?」
「やめとけ。まずくなる」
 石川は、しいたけを切る桜井を見て思う。ここでいいとこ見せたら、「まあなんて家庭的!」となるはずだ。だが、桜井の作ったものも食べたい。いつか俺のために作ってくれたら……。
 石川は気合を入れて玉ねぎを刻むも、目がやられて手元が狂い、指を切ってしまった。
「目がっ! 指がっ!」
 藤丸が出血した指にかぶりつく。
「はい止血―」
「やめろ汚ねえ!」
「もう何やってんの?」尾野が呆れる。
「石川くん、その血ちょっとくれる?」
「入れる気か? 魔法薬でも作る気かお前」
 石川は落ち込んだ。いいとこどころか、大失態だ。その上、尾野に包丁触るなと取り上げられてしまった。
「大丈夫? 絆創膏はる?」
 桜井が顔を覗き込む。
「おう! これくらいなんともねえって」
 指より心が痛い。次の瞬間、石川ははっと気づく。絆創膏もらっとけばよかった。まるで結婚指輪みたいじゃないか。石川は己の選択を悔いた。
 また落ち込んでぶつぶつ言いだした石川を横目に、茂が心配の声を上げる。
「石川くん、大丈夫? お清めに塩塗る?」
「鬼かお前は」
 松本は茂の扱いに徐々に慣れてきた。今や藤コンビと並んで、漫才コンビと言われるほどだ。別に笑かそうと思ってはいない。ただ垂れ流しのボケを処理しているだけだ。ボケを放置すれば、もっと面倒になることを松本は知っていた。
 ――何で無視したの? ねえねえ、僕のボケ面白くなかった? どの辺がダメだった? すぐ直すよ。
 直してほしいのは、そのボケる癖なのだが……。
 落ち込んでいた石川は、完成した味噌汁を飲むと、即復活した。
「お前ら天才かよ! めっちゃうめえ!」
「まあ、伊達にママ手伝ってないからね」
 嬉しそうな女子たちに混ざり、茂も汁を口にした。
「ホント、いいお嫁さんになるわねえ!」
 対抗するように隣の班の藤丸が、おすそ分けにきた。
「はいしげるん、あーん」
 茂はそれに応じた。
「……吐きそうになったの俺だけか?」
 松本のつぶやきを聞き、桜井が不安そうに口を開く。
「おいしくない?」
「いや、味噌汁はうまい。藤原の発言だよ。問題は」
 桜井は安堵した。その様子を目撃した石川は悟る。
 桜井は松本に気があるのだろうか。接点のない二人だが、ツンデレが好みなのであれば自分に脈はない。
 ドラマでも、ツンデレ男子が主人公の女の子をキュンとさせていた。俺もツンデレになれば、あるいは――。
「松本さま、お願いがございます」
「却下」
「俺をツンデレマスターにしてくれ!」
「は?」
「任せなさーい!」胸を張ったのは茂である。
 休憩時間に事情を聴いた松本は、興味なさげに言った。
「アホらし」
「いやいや、真剣だからな? お前のそのツンとデレの使い分けを教えて欲しいんだよ」
「別に使い分けてねーよ」
「いい? 石川くん、ツンデレは基本素直に言わない。誘われてもまず断る。そして説得されて初めて、仕方ねーなって参加するんだよ」
「なるほど!」
 松本は心当たりがあって、恥ずかしくなった。
「そしてツンデレに欠かせないワード、『別に』を使いこなすこと!」
「師匠! 勉強になります!」

 三限目の国語で、石川は早速実践した。先生が中々号令をかけない石川に催促した時だ。
「べ、別に」
 どう考えても今ではない。
 生徒たちは、漢数字の四字熟語を班で考え、黒板に書きに行く。茂たちは「百」の担当だ。
「百発百中とか?」
「もう例題に使われてる」
「百人一首とか?」
 茂の意見に松本が慎重になる。
「……意味は?」
「百人の兵で将軍の首を取りに行こう的な」
「物騒だな。石川もなんか出せよ」
「別に」
「お前ただ『別に』って言ってればツンデレになると思うなよ?」
「もう時間ないよ? 三つ書かなきゃ」
「僕が書いてくる!」
 尾野の急かす声に茂が飛び出していく。絶対ろくな答えではないが、これがいつもの授業風景だ。

 百%勇気……踏み出す一歩が未来を変える
 百足競走……みんなで足並みそろえよう
 八百屋……野菜を食べましょう

 パーセントの違和感、そして三つ目はもはや四文字ですらない。
 石川はクールを保とうと踏ん張り、上がる口角を抑えている。

 理科室への移動中、石川は本音をこぼした。
「ツンデレって難しいんだな」
「見た目に合わないことしてるからだろ。お前の取柄は元気とバカ」
「それ褒めたつもりか?」
「じゃあ松本くんの真似してみれば? 全てのことはものまねから学習する」
「いいな! それ」を慌てて訂正し、
「まあ、いいんじゃねえの?」と答えた。
「そうそう! そんな感じ!」
 見本にされる松本はたまったものではない。ミョウバンで結晶を作っている時も、視線を感じて集中できない。何か喋ればおうむ返しだ。
「お前にツンデレは無理だ。諦めろ」
「ふん、だが断る」
 徐々にツンデレの意味を見失っていった石川は、菩薩顔で無言のまま給食を口に運んでいた。
「松本くん、ヨーグルトいる?」
「いらねえ」
「石川くん、いる?」
「別に。お前が食べて欲しいっていうなら、食べてやる」
 ヨーグルトを口にした石川は、くしゃみをして思い切りぶちまけてしまう。
「おい汚ねえぞ」松本が注意する。
「おい汚ねえぞ」石川が真似をした。
「お前だよ」
 尾野がティッシュをとってきた。
「はい、自分で拭いて!」
「仕方ねーな」
 昼休憩、石川は外に出ず、松本の真似をして読書に励んだ。その後ろで西岡が子分と話している。
「今日は東山のやりたいことやろうぜ」
「え、いいの?」
「順番決めたろ」
 茂はその様子に感心した。
「大将、丸くなったね。体も心も」
「体は元からだとか言わせんな!」
「雨でグラウンド濡れてるし、トランプしよっか」
「石川、お前もやんねーか?」
「俺はいい」
「珍しいね。読書なんて」
「別に。そういう気分だったからな」
 上達してきた石川に、茂が喜ぶ。
「石川くん、今度はデレだよ! ツンだけじゃ、ただの意地悪だからね」
 松本が本を閉じると、石川もそれに倣う。トイレに行く時でさえ、ついてきた。
「お前いい加減にしろよ?」
「だって俺、桜井に振り向いて欲しいんだもん」
「俺は『もん』とか使わねえ」
「デレってどうやんの?」
「知らね。藤原に聞いてみれば?」
「お前みたいに生粋のツンデレにはわかんねえかもだけどさ! あるんだよ。ギャップ萌えってやつが! 俺もそういうの欲しいんだよ!」
「付け焼刃じゃ、後々ボロが出る。ありのままが一番いいって言うだろ」
「モテるからそんなこと言えるんだよ!」
「ツンデレなら、俺じゃなくてもマンガ見りゃいくらでも……」
「桜井がお前のこと、す、好きだったらどうする?」
「別にどうもしねえよ。興味ないし」
「じゃあ協力してくれよ!」
「そんなに言うなら、一回告ってみれば? そしたらお前のこと、意識し出すかもよ」
「いや、フラれるのが目に見えてる」
 石川は白目を剥く。
「とりあえず、俺の真似するのやめろ」

 二人が教室に戻ると、藤コンビが女子から借りたヘアゴムで髪を結んでいた。
「何やってんだ? お前ら」
「何って練習するんでしょー。デレの」
「僕が全力で褒めるから、石川くんは照れてみて?」
 女子役二人が早速、茶番を始める。
「ねえねえ、イッシーってさ、小柄って言われなーい? 羨ましー」
「んなことねえよ。男は小さいと、舐められるんだよ」
「でも小さいのって可愛くない? むしろ、でかい男の方が見下ろし感あってムカつく~」
「可愛いって言われて喜ぶ男がどこにいるんだよ」
「ねえ尾野さん、小柄な男ってどう?」
 リアル女子に話振るなよと、石川は焦る。
「んー、別にいいんじゃない? たまにいるじゃん、女子の方が高いカップル。っていうかこれからまだ伸びるでしょ。強いて言えば、気にしてるやつより堂々としてる方がいいかも」
「桜井さんはどう?」
 石川の胸が高鳴る。
「えっと、小柄な方がいいかも。大きな人は怖いというか……」
 石川は淡い期待をもった。
「ほら、石川くんかっこいいって!」
 茂が言った。
 そこまで言ってないと、尾野が否定する。
「イカした坊主にこの触り心地! たまらないよね!」
「ほぼ髪の話じゃねえか! 小柄どこいった!」
「つっこんでくれるのは嬉しいけど、デレの練習なんだからデレてよ」
「うっ、ま、まあな……」
「もうちょっとニヤけて、頬染めてー」
 演技指導の通りにすると、「きもい」と尾野に一刀両断された。
「じゃあ次は、落ち込んだ女子に頭かきながらボソっと褒めるデレ!」
「松本くんのバカー、ブスって言うことないでしょー」
 藤丸が泣くフリをする。
 俺を例題に使うな。松本は内心つっこんだ。
「はいそこで『おい』と話しかける!」
 もはやドラマ監督である。
「おい、そんなところで何やってんだよ?」
「見てわかるでしょー。ほっといて! どうせあんたもブスって思ってんでしょー」
「はいそこで、『確かにブスだな。涙で顔がぐちゃぐちゃだ。もったいねえ。笑うと可愛いのに』」
「そんなはずいセリフ言えねえよ! ヘタレな俺には!」
「言わなきゃツンデレになれないよ?」
「まあ、イッシーは直球型だからねー。可愛いとか好きとか、普通に言った方がいいと思うけどー」
「ツンデレやめて告白の練習する?」
「お前ら飽きただけだろ! 人の心を弄ぶな!」
 尾野はその光景を冷めた目で眺める。
「ホント、男子ってバカだよね」
「でも、楽しそう」
 桜井は微笑ましい目を向けた。
「じゃあ今度は石川くんが女子やってよ! 僕がお手本見せてあげるから」
 茂はそういうと、ヘアゴムを石川の頭上に乗せる。
「結べねえだろ俺じゃ!」
「あはは、天使の輪っかー」
「いい加減返して! それ遊び道具じゃないんだから」

 掃除を終えて五限目の英語——。
 黒板に貼られた絵の中にある単語を発表していく。
「じゃあ次は、桜井さん」
 反応がない。先生が再度呼ぶと、はっと我に返る。
「……はい」
「どれでもいいよ? 太陽でも駅でも」
 急に当てられて、頭の中は真っ白だった。茂がそれに気づいて、石川を小突く。
「サニーって言って、早く」
 戸惑いながらも、持ち前の大きな声で応えてみせた。
「サニー!」
「なんで石川くんが答えるんだ? あとサニーは晴れで、太陽はサンだ」
 無駄に恥かいた。
「おい藤原、ボケるなら自分で」
 言われるまでもなく、茂は勢いよく手を挙げた。
「はい! リーマン、JK、マイグランドマザー」
「欲張りだな! しかもほぼ日本語だし」
 先生は挙手制に切り替えた。桜井は安堵したが、頭はぼんやりしたままだ。さらに体が熱くなってきている。保健室に行きたくても、言い出す勇気を持っていなかった。
 六時間目、クーラーの効いた音楽室にリコーダーの音色が響く。五人ずつ前に出てテストを行う。弾き始める前に、茂が石川を小突いた。ピーポーとリコーダーで救急車の音マネを披露する。教室には笑いが起こるが、茂の顔は真面目だった。
「なんだよ? さっきから……」
 茂がリコーダーで指した先には、顔色の優れない桜井が俯いていた。はっとなり、石川が駆け寄る。
「おい、大丈夫か?」
 桜井は首を横に振る。
「保健室、いこう」尾野が声をかける。
 立ち上がると、桜井はよろめいた。
「俺が運ぶ! 乗れ、桜井」
 背を向けてしゃがむ石川に、尾野は呆れた。
「あんたねえ……」
「階段だってあるし、保健室まで遠いだろ?」
 普段なら遠慮する桜井だが、よほど辛いのか石川の言葉に甘えた。
 藤原が知らせてくれなければ、誰も気づかなかったかもしれない。小柄といえど、女子くらいおぶっていける。落とさないよう、揺らさないように慎重に歩こう。
 松本は石川の背を見送った。
 お前はそれでいい。変にかっこつけるより、そうやって実直に行動すればいい。ツンデレなんて、ただ誤解を生みやすいだけだ。真似して得なんか一つもない。

 保健室に到着すると、薬品の匂いが鼻をくすぐる。部屋を見渡すと、カーテンで仕切られたベッド、体重計や椅子、処置する道具が並んでいる。先生の姿がない。大きな声は出さない方がいいと察して、控えめに呼ぶ。すると、奥から先生が顔を出す。
 桜井をベッドに寝かせるように指示され、それに従った。先生がスポドリと保冷剤を取りに行っている間、石川はバインダーに挟まれた紙に名前を記入する。戻ってきた先生に堂々とサボり宣言すると、苦笑しながら了承された。桜井の親に連絡すると言って、看護教諭は出て行った。
 二人きりになり、石川は頭を悩ます。どういえば元気になるのか。励ましの言葉が思いつかず悟る。
 俺がなんか言ってもうるさいだけか。いつも驚かせて、泣かせて、困らせて。迷惑かけてばっかだな、俺。
 窓から入る風で、ベッド横のカーテンが揺れた。少し回復したのか、桜井が口を開く。
「ありがとう……石川くん……」
「お、おう。しっかり休めよ」
 好みのやつにはなれねえかもだけど、せめて助けてやれる存在にはなりたい。この先、桜井が俺を好きになることがなくてもいい。なんかあったら、頼れる。そんな友達になれたら、それで十分だ。
 桜井が親の車で帰っていった頃、石川は帰りの会で我に返る。いきなりおんぶしたことで変態と思われたりしていないか、急に不安になってきたのだ。
 イケメンがやるならまだしも、俺だぞ。元気だけで取り柄のない、需要もないバカだぞ。合わせる顔がねえ。
 百面相する石川を見て、茂が微笑む。
「石川くんの恋、実るといいね」
「実ったら、のろけ話聞かされそうで嫌だ」
「やっぱり松本くんは、ツンデレの鏡だね」
 松本は無言で茂の足を蹴った。


 とある日の夕方、帰宅した京太郎の右足には包帯が巻かれていた。
「それどうしたの?」小春が聞く。
「さては筋トレ中にダンベル落として、教室の扉で小指をぶつけ、上履きの中に大量のまち針が」
「それは『さいなん』だったね。うんがないにもほどがあるよ」
「んなわけねーだろ」
 京太郎は茂の推測を否定した。
「バスケ部の試合に助っ人で出て、ちょっとな。あの野郎ラフプレー多すぎんだよ!」
「キョウちゃん、ドジだね」
「こっちは被害者だぞ? もっと労われよ!」
「これが男の勲章ってやつか!」
 治療に専念するため、筋トレは腕のみにした。これでは、自転車での通学は無理だ。京太郎は松葉杖をつきながら、できるだけ自分でやろうと踏ん張った。いつもバカにされている上に、手伝ってもらうのはプライドが許さない。自分では何もできないという劣等感を、自覚したくなかった。
 骨折くらい、根性で乗り切ってやる。そう意気込んだが、どれだけ気合を入れようとも骨折が瞬時に完治するはずはない。
 着替えを取りに階段を上がる際、もどかしさに思わず舌打ちした。少しつまずいただけで転びそうになり、一段ごとに時間がかかってしまうのだ。そこへ、ちょうど長男が階段を上がってきた。京太郎の包帯をさすって呟く。
「いたいのいたいの、とんでいけー」
「それで治ったら医者いらねえわ!」
「手伝ってやろうか?」
 ありがたい申し出だが、いつも下に見られるのは癪だ。
「オレはそこまで軟弱じゃねえよ」
「おんぶと横抱き、どっちがいい?」
「どっちも嫌だわ! なんだその二択! 少女マンガ? 普通に肩貸せよ」
「やっぱ手伝ってほしいんじゃん」
「あ」
「それが人にものを頼む態度か? 『お願いお兄ちゃん』って言ったら貸す」
「頭わいてんのか! 妹ならまだしも、いい年した弟に言われてえか?」
「いや? お前に恥かかせたいだけ」
「恥かくくらいなら、自力で上がったるわ!」
 ようやく部屋にたどり着き、服を手にする。これから風呂へ行かなければならない。いつもならなんでもないことだが、今の京太郎にはハードルの高いミッションだった。
 上ってきた階段を一つずつ慎重に下りて、椅子に腰かけ服を脱ぐ。京太郎は何気ない動作で一苦労する自分に腹を立てた。
「僕もお供していい?」茂が服を脱ぎ始める。
「おう」
「わー。筋肉バッキバキ!」
「だろ?」
 湯船に浸かるのは難しいが、髪も体も自分で洗える。だが、足は曲げられないため洗ってもらう他なかった。
「相手強かった?」
「強かったけど、強豪ってわけじゃねえな。むしろ小汚ねえ真似してくるから、一々腹立った。何回顔面殴ってやろうと思ったことか」
「何点決めたの?」
「三十点は決めたな」
「じゃあ赤点だね」
「テストだったらな! お前バスケのルールわかってるか?」
 自力で挑むも上手くいかなかったため、包帯は弟に巻いてもらった。嫌でも無力を痛感する。

 その後、数日にわたってストレスが蓄積していった。足手まといになるのが目に見えているため、バイトはしばらく出られない。思い切り体を動かすこともできない。学校の階段でも苦労した上に、唯一得意な体育は見学しなければならなかった。
 友人も兄弟も、最初は気遣ってくれたが、段々扱いは雑になっていった。なぜなら、京太郎が自力で挑んではミスをして叫ぶからだ。さらに、腹をくくって人に頼む際にはキレ気味であった。
 一週間後、京太郎はついに爆発した。
「だー、もう! イライラする!」
「うるさい……やることないなら勉強でもすれば?」
「勉強なんて、学校だけで十分だろ」
「再試当たり前の人が何言ってんの……。どうせ授業中、寝てるんでしょ?」
 京太郎には返す言葉がなかった。
「これを機に、なんか新しいこと始めてみれば……?」
 ゲームをする三男の手元を覗き込む。
「それ難しいやつか?」
「全然。操作も簡単だし……」
「じゃあ対戦しようぜ」
「えー……」心底嫌そうだ。
「何だよ? 負けるのが怖いのか?」
「コントローラー壊されそうで嫌だ……」
「そこまで怪力じゃねえわ!」
「怪力だよ。自覚ないの……? りんごを素手で潰す人が怪力じゃないわけない……」
「じゃあ、ストレス発散になりそうなものないか? 運動以外にオレ思いつかねえんだけど」
「食べる……」
「運動してねえんだから、脂肪増えるだけだろ」
「どこまで筋肉第一なの? キョウは何目指してるわけ……」
 他にないかと言われて、三男は渋々「歌ったら?」と提案した。

 京太郎は、今日も茂に手伝ってもらいながら風呂に入る。
「シゲ、カラオケ行かねえか?」
 長男なら即却下する。三男は外出しない。小春は自分ばかり歌おうとする。消去法だった。
「いいけど、急にどうしたの?」
 経緯を話すと、茂は提案した。
「それなら別にカラオケじゃなくても、家で歌えばいいじゃん」
「うるさいって文句言われるのが目に見えてる」
「そりゃリビングとか部屋ならね? 風呂ならうるさくないし、いい具合に反響するよ」
 納得はできるものの、実行する勇気はなかった。見かねて茂が先陣を切る。京太郎も好きなロックバンドの曲を歌ってみた。案外、歌い出せば乗ってくるもので、気づけば五曲目に突入していた。やがて扉を叩く音がした。
「はやくあがって! ハルがはいれないでしょ?」
 風呂上りに出くわした兄には、鼻で笑われた。
「ナイス音痴」
 この方法はやめようと即決する。
 京太郎は数日にわたって努力した。ある日の帰宅後には、妹の折り紙に付き合ってみた。
「もう! キョウちゃん、なんかい『やぶったら』きがすむの?」
「……悪い」
「あとここ、カドはきちんとあわせないとダメなんだよ? わかった?」
 どっちが年上かわからないようなやりとりも、しばしばあった。
 他にも慣れない読書や、ひたすらテレビを視聴するなど、いろいろ試したが、すぐに飽きてしまった。
 見かねた茂が「コントやろう!」と誘いにきた。笑いもストレス発散になるとの主張に了承する。
「では参りましょう! コント『スーパー』」
 茂の掛け声から始まり、京太郎はノートにあるセリフを読む。
「えっと、まずはキャベツと人参と……ん? ピーマン高いな。不作? 全然棚に並んでないけど」
「いえ、キャベツくらい大きくなって、高品質なんです」
「ギネスでも狙ってんの? ただでさえ子どもピーマン食べないのに、なんでわざわざ巨大化すんだよ。かぼちゃならわかるけど、よりによってピーマン?」
「ミンチと一緒に肉詰めどうですか?」
「どんだけ肉買わせる気だよ!」
「お兄さん、おつかいですか? 合格発表前の受験生のようにメモ握りしめて、ひょっとして初めて?」
「んなわけねーだろ」
「どれどれ? ほう、次は食パン二つですか。ちょうど安くなってますよ!」
「お、マジで?」
「ほらこれです」
「真っ黒こげじゃねえか! 売れるかそんなもん! 火力強すぎだろ。自宅のトースターで焼かせろって」
「一つ六十円になります」
「捨てろ!」
 茂は臆することなくメモを覗く。
「ふむふむ、次はお菓子ですね! 砂糖なんかどうでしょう? 安くなってますよ?」
「直球! じかに食えってか!」
「半額ですよ」
「砂糖が半額って珍しいな。逆に怪しいわ」
「十年前に桁間違えて、ここ一帯砂糖ずらっと並んでるんですけど、まだなくならなくて。六つくらい買っていきません? さらに半額にしますんで」
「糖尿になるわ! もっとポテチとかそういう……」
「あー、ジャガイモ不足で値上がりしてまして」
「いくら?」
「一つ千円になります」
「この世の終わりだな! どう考えても跳ね上がりすぎだろ。おやつはいいから、総菜なんかおすすめねえか?」
「そうですね。焼き鳥とかどうです?」
「いいな。ねぎまある?」
「いや、丸焼きなんで」
「解体しろよ! 業者手抜きか?」
「今朝、外で公開火入れしたんですよ」
「マグロの解体ならわかるけどさ。つーかスーパーがやることじゃないだろ。他には?」
「総菜といえば揚げ物が定番ですね。ドーナツなんてどうです?」
「それおやつ! さっき言えそれ! ポテチのくだりで欲しかった! 三つくれる?」
「毎度あり~」
「メインはもういいから、サラダある?」
「鳥サラダなんてどうでしょう」
「いいな。ささみのやつ」
「ゆで卵とミンチとバラが入っとります」
「肉ばっか! 一つも野菜入ってないじゃん! サラダと名乗るのもおこがましいわ! もういい、巻きずしある? 今からごはん炊いたら遅くなるから」
「こちらにシンプルなのがございますよ。一本三十円」
「なに、訳あり? 破格だな」
「ご飯とのりのみなんで」
「中身なんか入れろや! 巻く意味あった?」
「ふむふむ、後は牛乳ですね? お安くなってますよ」
「それもどうせ何か訳ありだろ?」
「はい! 期限切れてます!」
「切れたのはダメだろ! 切れそうなのは安く売ってもいいけど」
「フードロス減らすためにも、一本どうですか? このまま捨てるの、もったいないと思いませんか? せっかく牛から搾り取ったのに。牛に失礼ですよ」
「切らしたのが悪いだろ、それは! こっちが買って切らしたならわかるよ? でも売るときから切らしてるとな?」
「三日くらい過ぎても、死にはしませんよ!」
「それ店員が言っちゃだめだろ! あ、もう時間ねえや。会計さっさと済ませて……」
「当店、全てセルフレジになっております!」
「いい加減にしろ!」
 ネタが終了し、一段落と思いきや、茂は別のノートを取り出した。

「続きまして! コント『持ち物検査』」
「まだやんのかよ」
 呆れながらもどうせ暇だからと、付き合うことにした。
「よーし、鞄出せ~」
「先生、鞄忘れました」
「お前何しにきたんだよ」
「朝寝坊して、フレンチトースト食べてたら遅刻しそうになって、めっちゃ焦って」
「朝飯抜けとは言わないけど、ゆったりしすぎじゃねえか?」
「朝飯はしっかり食べたいんで」
「しっかり食べて、うっかり鞄忘れてるけどな。授業どうすんだ?」
「寝ます!」
「朝寝坊しといて何言ってんだよ。マジ何しにきたのお前。じゃあ鞄いいから、ポケットの中身出して」
「全く君は人に頼ってばかりだね! たまには自分で考えたらどうだい? 今ほとんど修理に出してるから何もないよ」
「誰が四次元ポケット持ってんだよ! 早く出せ。これなんだ?」
「クッキーが入ってた袋です」
「これは?」
「味のなくなったガム」
「ゴミばっかだな! お前のポケット、ゴミ箱か」
「まだまだありますよ? アイマスクと入眠剤と……これ枕です」
「何で鞄忘れてんのに枕持ってこれたんだよ! 寝る気満々じゃねえか。遅刻してもいい
から、鞄取りに帰れ」
「いいんですか、遅刻しても! じゃあもうひと眠りしてきます!」
「うん、もういっそ休めば? でも明日は土曜だけど登校しろよ」
「何でですか? ブラックスクールですか! 生徒に勉強ばかりさせて殺す気ですか!」
「授業参観なんだよ! お前そもそも勉強する気ゼロだろ。ちゃんと親御さんにプリント
渡したか?」
「誕生日にあげました」
「別に誕生日じゃなくていいんだけど」
「ちゃんと包装してリボンつけて」
「プレゼント開けたら、授業参観の知らせってタチ悪いぞ? つーか紙を紙で包んでどう
すんだよ。サプライズすんな。ハードル高いから」
「泣いて喜んでましたよ?」
「変わったお母さんだな」
「初めてプリント無事に持って帰ってきた! って」
「今までどうしてた?」
「道端に捨ててました」
「チラシじゃないんだから。大事なお知らせちゃんと届けてくれよ」
「あー、でも明日母さん仕事って言ってました。明日休みますね」
「なんで! 予告すんなよ。ちゃんと来いって」
「だって授業参観でしょ? 親いなきゃ意味ないじゃないですか。何しに行くんだって話
ですよ」
「勉強だよ! 勉強しにこいよ!」
「日曜なら空いてるらしいんで、日曜来てもいいですか?」
「休みだよ! 何しに来るんだよ!」
「え、休み? あっもしもし母さん? 日曜学校ないって。カラオケ行こう」
「仲睦まじいのはいいけど、スマホ没収!」

 二つ目が終了すると、茂はすぐに別のネタを用意した。
「お前、何個やる気だよ!」
「これでラスト!」
 京太郎は渋々ページに目を通す。そこには「メイド喫茶」と書かれていた。茂は気合を入
れて、衣装チェンジして戻って来た。
「お帰りくださいませ!」
「おかえりなさいだろ。そこは!」
「あなたのような方は、お客様として認められません」
「酷いこと言うな。帰ろ」
「嘘です冗談です帰らないでください!」
「どっちだよ!」
「ようこそ人の子!」
「ご主人様だろ! なんか思ってたのと違うし、帰ろうかな」
「か・え・さ・な・い」
「可愛く言っても、このタイミングでやるとホラーだよ!」
「さあさあ、お座りください。こちらメニューです」
「おすすめは?」
「ビールですね」
「居酒屋かここは。他には?」
「そうですね。天使のふわふわクッション、マジカルくるくるエッグ、パリッとエンジェル
ウィングなどがございますが」
「全然イメージ出てこねえんだけど、何? クッション?」
「翻訳すると、冷ややっこ・だし巻卵・餃子です」
「居酒屋じゃねえか!」
「あらま、お嫌いですか?」
「えっとじゃあ、餃子で」
「チン! お待たせしました。パリッとエンジェルウィングです!」
「今レンジの音したの、気のせいか?」
「気のせいです。こちらゲームがついておりまして、お客様が勝った場合、お代を無料にさせていただきます」
「なるほどな? 受けてたとうじゃん」
「ルールは簡単です。僕の質問に対して、『はい』と答えてはいけません。『うん』とか『お
う』とか『ああ』もダメです。わかりましたか?」
「おう」
「はい、お客様の負けです!」
「こいつうぜえ! つーかよく見たら冥土喫茶じゃねえか!」
「おやお帰りになられるのですか? またのご来店、お待ちしております!」
「二度と来るか!」
 三つ目が終了して、京太郎は息をついた。
「ボケる方はともかく、ツッコミは疲れるだけだわ」
「ボケだって体力使うよ? やってみる?」
 交代すると、ボケの方が遥かに難しかった。よくこんな羞恥プレイができるなと、尊敬の念を抱いた。
「やっぱオレ、運動以外で取柄ねえな」
「そんなことないよ? その伝家の宝刀、ツッコミがある!」
「別に好きでつっこんでるわけじゃねえからな」

 二週目にもなると、京太郎はイライラするどころか、逆に静かになった。ただぼーっとポスターを眺めたり——。
「ねえ、魂抜けてんの……?」
「……」
 階段や風呂で手伝ってもらうのにも、全く抵抗しなかった。明らかに元気がない。
「キョウちゃん『びょういん』いく?」
「どこも悪くねえよ」
「じゃあ、なんでそんなに『おとなしい』の?」
 大人しくもなる。いつもなら、重たい荷物を運ぶのはオレの役割だった。今や片足が使えないオレに気を遣って、「やっとくから座ってて」などと言われている。裏を返せば、戦力外通告だ。おかわりも自分で行こうとすれば阻止される。とにかく役立たずを実感しているのだ。
「オレなんか」とぶつぶつ言い出す京太郎を見ていられず、兄弟会議が開かれた。
「ありゃ相当きてるな」
「車イスバスケでも勧めてみる?」
「いや、もう一週間もすれば治るから……」
「リハビリは?」
「一理あるな。キョウはちょっときついくらいがちょうどいいかも」
「いやでも、安静にしてろって言われてるんでしょ? 酷くなったらむしろ延長するし…
…」
「あいつは運動したい。そして自分の無力を呪っている。つまり『できる』と感じられる何かをして、自信を取り戻せば元通りだ。片足でもできることに絞れば、安静にもできる」
「そんな奇跡的な策があるんですかっ!」
「ずばり、手作りうどんだ」
 誠司の意見に一同はずっこけた。
「どういうこと?」
 小春が疑問符を浮かべたが、拓海は察した。
「今夜は母さん遅いんだよ。カップ麺は数足りないし、レトルト使うとキョウが大量消費するからね……。鍋でも味噌汁でも、たまには何か作ってみろって言われてたでしょ? だからそれを、キョウに押し付けようってこと……」
「なんて悪い子!」
「ずる賢いと言え。一石二鳥だろ」
「でもそれって、きょうだけの『はなし』だよね? ほかにもなんかやらない?」
「スポーツ観戦は……?」
「熱狂しすぎて折れてること忘れそう」
 一同は納得の声を出す。
「つりいかない?」
「絶対飽きる。お前もキョウも」
「もちつきは?」
「季節考えろ」
「杵と臼ならここにあるけど」
「何であるんだよ」
「隙間時間なら、腕相撲とかなわとびがいいかも……」
「ならいっそ、スポーツセンターいかない?」
「ハンデつければ、なんとかなるかもな」
「ならいっそ、二十四時間ラジオ体操(座ったバージョン)は?」
「時間の使い方えげつないな。暇人の極みか」
 そんなこんなで、それぞれサポート方法を決めて実行に移すことにした。

 小春が部屋を訪ねると、京太郎はマンガを読んでいた。開いてはいるが、ページが一向にめくられていない。
「キョウちゃん、てつだって! うどんつくろう!」
「は? 茹でるだけだろ」
「ちがうの! こなから、ちゃんとメンをつくるの!」
 急かす妹に連れ出され、言われるがまま手伝うと、思いのほか力仕事だった。小春は生地をペタペタ足で踏んでいる。京太郎は腕でこねていた。普段なら面倒と却下していたところだが、久々に力を発揮できて充実感を覚えた。
 その様子を見て、小春は長男がうどんを選択した理由がわかった。
 一方茂は、風呂の順番待ちの間に仕掛けた。
「アニキ、腕相撲しない?」
「どうした急に」
「僕ね、友達にどうしても勝てないんだよ。だから特訓」
 嘘は言ってない。大将には絶対勝てないだろう。京太郎が片手なのに対し、茂は両手で挑んだ。当然のように瞬殺される。
「これが筋肉の差かっ!」
「伊達にやってないからな。あと普通に歳の差だろ。腕立て伏せ、毎日やってみたらどうだ?」
「えー」
「これくらいで音を上げていたら、つく筋肉もつかねえぞ。それか水の入ったペットボトルを持って、腕曲げるとか」
「もっと楽しいのない?」
「筋トレは楽しむためにやるもんじゃねえぞ」
「でも楽しくやるに越したことなくない?」
 最もらしい意見だ。京太郎はここ数日で痛感している。気の乗らないことを続けていくのは難しい。
「小学生なら、なわとびがいいんじゃねえか? 筒の中に砂入れて」
「お手本見せて!」
「お前オレが骨折したこと忘れてんのか?」
「アニキなら片足で跳べるんじゃない?」
 二人は庭で一緒に汗をかいた。

 翌日には、拓海がスマホゲームを提案した。スポーツ系のカードゲームだ。スマホならコントローラーを壊される心配もない。例えスマホが壊れても、自己責任である。最初は乗り気じゃなかった京太郎だったが、思いのほか食いついた。これで数日は持つと拓海は確信した。
 京太郎のモチベーションが少しずつ戻りつつある中、誠司も動いた。よく晴れた休日のことである。近所の子どもがバッドを持って元気にかけていく様子に、京太郎は地団駄を踏んでいた。
「早よ治れや! オレの足!」
「スポセン行ってこい」
「嫌味かこら」
「今なら俺でも勝てそうだな。行くか」
 バドミントンのラケットを持つ誠司に、京太郎は固まった。あまりの珍しさにバカな頭が冴えわたる。こいつは何を企んでいる。
 勘ぐる京太郎を横目に、誠司は支度を始めた。
「お前座ってやれよ? ハンデな。負けた方がアイス奢り」
「ハルならまだしも、お前長男だろ! プライドってもんがねえのか!」
「ねえ」
「言い切りやがったこいつ!」
 ストレス発散に付き合うためとはいえ、誠司は手を抜かなかった。
 悔しさは拭えなかったが、京太郎の心はすっきりしていた。誠司が動いたことで、鈍感な京太郎でも気づいた。気晴らしに付き合ってくれたのだと。兄弟たちの誘いは全て、自分のためだったのだ。
 京太郎は目頭が熱くなった。だが、兄の選んだアイス(ハーゲン〇ッツ)に涙が引っ込む。
「お前容赦ねえな!」
「しょうがねえな。ほれ」
 奢ってやると差し出されたのは、安い棒アイスだった。
「いや格差ありすぎだろ!」
 ツッコミはしたが、素直に受け取った。兄弟たちの気遣いに、もう少し耐えてみせると意気込み、残り数日を過ごした。
 包帯がきれいに取れ、自由になった京太郎は、自然と笑みを浮かべる。これで変に気遣われることも、自分の無力感を嘆くこともない。運動できないストレスからも解放される。
 お礼にと、京太郎は兄弟を誘った。
「今度の日曜スポセン行かね? 四対一でもいいぜ」
「却下」
「あそぶ『やくそく』してるからムリ」
「外出たくない……」
「ごめん。僕も友達の家行くんだよね」
 冷たい反応の一同に、京太郎のツッコミが爆発する。
「こないだまでの優しさはどこ行ったんだよ!」


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