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笑う門には福来る 第8話 修学旅行

 待ちに待った二泊三日の修学旅行である。生徒たちはグラウンドに集合し、リュックを背負い、大きなカバンをバスの腹部に入れ乗り込んだ。西岡と石川は早くも揉めている。
「お前、誰の許可とって窓側座ってんだよ」
「許可なんかいらねえだろ。つーか席順通りだし」
「代われ。十円やるから」
「十円ごときで動くわけねえだろ!」
「お前、十円バカにしたら十円に泣くぞ」
「百円なら考えてやらなくもないけど」
「お前にやるくらいなら、ガチャ回すわ!」
 騒がしい二人を委員長が注意する。
「お前らさっさと座れよ。バス出発できないだろ?」
 西岡は舌打ちして通路側に座った。藤コンビが後ろの席に身を乗り出し、議論する。
「大将は何で窓際がよかったんだろうね」
「きっと片肘ついてかっこつけたかったんだよー。青いねー」
「そんなんじゃねえよ!」
「きっと自分のお腹が邪魔になることを悟って、通路側に座らせようとしたんだよ! トイレ休憩の時、降りにくいから。大将なりの配慮だよ」
「えー、そう? どっち座ってもお尻ハマって抜けられなくなると思うけどー」
「お前らデコピンとしっぺどっちがいい?」
 大将がこめかみに血管を浮かべて言った。
「お前らも座れ! 藤コンビ!」
 委員長の声に二人は素直に従った。
 松本は周りの浮かれっぷりにため息をつく。発車すると、まもなく藤コンビはボケを乱発した。
「いやー、楽しみじゃのう。旅行なんて何年ぶりか」
「六年ぶりですよー」
「どこへ行くんだったかな?」
「水族館ってさっきも言ったでしょー」
「懐かしいのう。初デートしたとこだろう」
「そうですよー」
「あの頃は二人とも若かったなあ、白髪もしわもなかった」
「手つなぐだけで、たこみたいに真っ赤になってましたねー」
「今や階段上るだけで、お互いの手を借りるようになっちまった。昔からどんくさいからなお前は。何もないところですっころんでよ。危なっかしいったらねえ」
「あら、昨日椅子でうたた寝して転げ落ちたのは、どこの誰でしたっけー」
「さあ誰だったかな? 坊主のほら、石川ってやつ」
「俺そんなヘマしねえよ!」
 石川のツッコミが飛ぶ。
「やけにリアルな会話だな」
 こんな調子で延々と会話が続き、高速に入った。
「そういやお前、魚苦手じゃなかったか? 目が合って気分悪くなってたろ」
「マジ無理あれー、包丁でぶっ刺してやろうかと思ったー」
「イルカショーははしゃでたな」
「手振ったところマジ尊いー、ジャンプめっちゃ映えるしー」
「そうそう、親子共演ちょー萌える!」
「一気に若返ったな! 高速入り口で何があった!」
 石川のツッコミで終了したと思いきや、今度は歌を歌い出す。
 松本は西岡が大人しいのに違和感を覚えた。
「石川、西岡寝てんの?」
「え、起きてるけど」
「うえっ」
「あ! お前まだ吐くなよ? 酔ったなら言えって! 袋! 袋!」
 松本は騒がしさに嫌気が差した。
「酔うのわかってんなら、薬飲んどけよ」
「うるせえ! 忘れたんだよ……!」
 茂が後ろの席に顔を出す。
「酔うから窓際がよかったわけか。なるほど」
「そうならそうと言えよ! 変わったのに!」
「ゲロ大将じゃ、かっこつかねえもんな」
 松本の命名に茂が便乗する。
「大丈夫? ゲロ大将」
「お前ら後で覚えとけよ……!」
 隣が妙に静かだと思い、茂は藤丸の様子を伺う。寝息を立てて夢の中を彷徨っているようだ。
 バスは高速を降りた。バスガイドさんの説明後、茂は前に出てマイクを借りる。
『みなさんこんにちは! ただいまこのバスは横島水族館へ向かっておりまーす! たくさんのお魚さんやいるかさんが、みなさんをお待ちしていますよ! さあ入り口が見えてきました! みなさん、上をご覧ください! 綿あめのようなふわふわ白い雲の上、天使たちがラッパを吹いております!』
 松本は冷めた目を向ける。
 天井しか見えねえよ。静かに座ることもできねえのか、あいつ。
『今度は下をご覧ください! 三途の川で悪魔がお出迎え!』
「生死彷徨ってんのか!」
『運転手さん、運転お疲れさまでした! ここからは横島水族館公式キャラクター、なぐもんにバトンタッチ!』
 南雲は苦笑を返し、声を張る。
「はい、なぐもんです。水族館を背負った覚えはないが、集合時間しっかり守ってくれよ? そして他のお客さんの迷惑にならないように。わかったか?」
『みんな! なぐもんの言ううことわかったかな?』
「はーい!」クラスメイトの声が揃う。
「ここは幼稚園か!」
 バスから降りて、各々中へ入っていく。茂は、半分寝ぼけた藤丸の手を引き歩いた。その後ろに松本が続く。
 大きな水槽の前に立つと、ガラスの向こうで魚たちが悠々と泳いでいた。
「刺身―、フライー、煮つけー」
「マルちゃんたら肉食!」
「いや魚だからな?」
 藤丸の食欲は限界を知らない。タコを見てたこ焼き、サメを見てフカヒレスープと指をさす。
「調理するなよ。これ観賞用だから」
 副班長の坂口がカメラを向けて言った。藤コンビがポーズを取ると、シャッターが切られる。
「松本くんも入ろう!」
 ふいっと顔を逸らし、遠慮した。松本は足早に歩き去る。いまいち乗り切れないのだ。かつてはしゃいだ時期もあるが、もう知ってしまった。
 あれは母親と祖父と三人で水族館に行った時のことだ。テレビで紹介されていた魚を見つけて報告しようとしたら、母は電話で誰かと話していた。通話を終えると、謝られた。両親は共働きである。休日が取れても、行かなければならないとすぐに離れていってしまう。
 続きは祖父と回ったが、写真家の血が騒ぐのか、魚や俺を被写体にシャッターを切りまくっていた。そこに立ってくれと言われてその通りにすれば、当然、一人の写真になる。
「じいちゃんも入ろうよ。一緒に撮りたい」
「俺は撮られるより、撮る方なんだがな」
「じゃあ俺も魚の写真、撮りたい」
「いいぞ? でもこれはまだお前には早いな。今度使い捨てカメラをやるから、今日は我慢だ」
 祖父は楽しそうにレンズを覗いていた。周りの子は、親と談笑しながら回っている。忙しいのだから仕方がない。わかってはいるが、虚しくてしょうがなかった。これではしゃぐの、バカらしい。いつしかそう思うようになった。
 一人で回るのも、悪くはないものだ。だが同級生がいる以上、どうしても自分と比べてしまう。自分が冷めているのではない。彼らが子どもなのだ。松本はそう言い聞かせた。
 茂は魚を指差して名前をつけていく。
「これが松本ジュニア、これがビッグ松本、これがド根性松本」
 人の名前で遊ぶな。松本はそうつっこみたくなる衝動を抑えた。
 一同は魚クイズを発見した。選択問題である。さんまを漢字で表すと? という問いに各々予想する。茂はもちろん四択の中に縛られずに答える。
「三匹揃うと丸くなるから、三丸!」
「それ骨全部折れてるだろ」
「生まれてすぐは目が三つあるから、三目じゃなーい?」
「妖怪か」
 坂口のツッコミで茶番は終了し、ほとんどの生徒がいるかショーに向かう。人が少なくなり、松本は足を止めた。賑やかなところに行くと、冷めているのが際立ってしまうからだ。
 俺は静かに楽しもう。俺はもう子どもじゃない。
「松本くん、いるか観に行かないの?」
 茂が戻って来た。
「まあな」
「じゃあ僕とヒトデ観に行こう」
「一人で行ってくれば?」
「僕と松本くんは二人で一つなので、足しても一人です!」
「言ってることめちゃくちゃじゃねえか」
 問答無用で腕を引かれ、苦言をこぼす。
「俺に構わずイルカショー行ってこいよ。別に俺、興味ないし」
「いるかに興味持たないって、一体何しに来たの?」
「お前も残ってるじゃねえか」
「イルカショーは今だけじゃないよ。後でまた観に行けるもん。松本くんとラブラブするなら今しかないし」
「気色悪いこと言うな」
 その後、振り回されて無駄に疲れた。
「見てみて! 松本くんにそっくり!」
「ふざけんな」
「顔しかめてブッサイクなとこ似てない?」
「……」
 まともに茶番に付き合っていると、頭がおかしくなりそうだ。つっこむだけ無駄なのだ。放置が一番効く。
 一時間後、土産を手に生徒たちはバス内に戻る。
「みんないるか?」
「藤原くんがいませーん!」自己申告である。
「よし、いるな」
「先生、仕事して!」
「ツッコミが仕事じゃないからな」
 茂はしれっと席を交換して、松本の隣に座っている。
「お前、元のとこ戻れよ」
「坂口くんには許可取ってるよ」
「俺に許可取れよ」
「隣いい?」
「もう座ってるし、出発するからいいけどさ」
 茂は買ったお菓子の包装紙をビリビリと破き出す。
「もう食うのかよ」
「これはバス内用、これは家用、これはホテル用」
「昼食えなくなっても知らねえぞ」
「一緒に食べようよ。半分こすればお昼食べれるし」
「藤丸にやれば? あいつの腹ブラックホールだろ」
「はいあーん」
「自分で食えるわ、アホ」
 クッキーを奪うように取り上げ、口に放り込む。食べないとうるさそうだったからだ。
「俺はお前のふざけに付き合う気はねえからな」
「えー、試しに一回付き合ってみようよ」
「他当たれ」
「松本くんは、ツッコミとボケどっちが大事?」
「どっちもしねえよ。何だその聞き方、めんどくさい女か」
「今のがツッコミじゃなければなんという?」
 松本はため息をついて窓を見る。黙りはしたが、隣の視線が痛い。
「なんだよ?」
「松本くんって笑ったことある?」
「俺を何だと思ってんだよ」
「ツンデレメガネ男子」
「逆にお前は泣いたことあんのかよ?」
「あるよ? ゲロ大将が鼻から牛乳出した時、笑いすぎて泣いたよ」
「なかっただろそんなこと! ねつ造すんな!」
 前方からツッコミが飛んでくる。
「今なくても、これからあるよきっと」
「どんな予言だよ。お前、俺の隣に座ってたいなら黙っとけ」
 口を閉じるも、顔がうるさかった。
 次の目的地が近づいて、茂は再び前に出る。
『えー、ご乗車ありがとうございます。まもなく便所~、便所です。お次はお手洗い、終点はトイレ~』
「トイレ巡って何が楽しいんだよ?」
『ではみなさま、心ゆくまでうんこアートをお楽しみください』
「保存してんの? 流せ今すぐ」
 南雲のツッコミも相まって、ひと笑い起こり、車内は盛り上がる。対して、松本は一つも笑っていなかった。
 一同は鍾乳洞に入る。自然にできた大きな柱が立ち並び、見上げれば竜の牙のように突き出した天井が広がっていた。ひんやりとした空間はとても神秘的で、生徒たちは見入る。
 そんな中、茂はナレーションを始めた。
『ここは、年月かけて工事されたダンジョン』
「いや自然にできたやつだから」
『名のある冒険家も攻略するのに六十年かかった』
「人生の半分以上じゃねえか」
 藤丸がナレーションに手を加える。
「いやー、すっかり歳とっちゃいましたよー。足腰も目も耳も悪くなってー。もはや自分の家ですよ。ここは」
『彼はインタビュー当時八十五歳、その冒険家の亡骸がこの洞窟のどこかに眠っているという。番組スタッフ総動員で探してみたが、骨の一本も見つからなかった。もしかしたら、あなたが今踏んでいる地面の下に埋まっているかも』
「縁起でもないこと言うな!」
「隊長! ここに骨のかけらがー」
『CMの後、衝撃の場所で遺骨発見!』
 藤コンビは西岡のポケットの中に手を突っ込んだ。
「どんなマジック使ったら、地面の骨がポケットに入るんだよ!」
『灯台下暗しである。引き続き捜索を』
「何のための身体検査だよ!」
「隊長! この膨らんだところが怪しいでーす」
「普通の腹だよ! 脂肪しか詰まってねえとか言わせんな!」
 松本は一連の流れを見て思う。何でずっとボケられるんだ。疲れないのか。見てるこっちが疲れてくる。一日中笑ってんのか、あいつは。


 日が暮れた頃、ホテルへ到着する。豪華な食事、いつもと違う寝床。生徒たちのテンションは上がる一方である。
 大浴場で賑わうクラスメイトたちを一瞥し、松本はシャワーを浴びるとさっさと上がる。
茂はそれを見逃さなかった。
 茂たちが湯から上がると、松本は部屋で本を読んでいた。
「旅行きてまで読書したいやつの気が知れねえな」
「枕投げしようぜ!」
 大将チームには西岡と茂、石川チームには石川と坂口と藤丸が入る。
「おい、お前もやれよ! 人数足りねえだろ」
「俺パス」
「チッ、ノリ悪いな。だから友達できねえんだよ」
 みんなが誘うも、松本は頑なに断る。
「何でわざわざ埃舞うようなことするんだよ。ドッジなら学校で山ほどやってんだろ。別にここでしなくても」
「いや定番だろ? 枕投げ」
「定番だからやるっていうのは、俗物の考えだろ。俺はいい」
 松本は布団に潜る。
「もう寝るの?」
「じじいかよ。まあいいや、五人でやろうぜ」
「やだ! 松本くんがやらないなら僕もやらない!」
 茂が宣言した。
「それじゃ俺一人になるだろ!」
「勝てねえのかよ?」
「上等だコラ、三人まとめてかかってこいや!」
 三対一の枕合戦が勃発した。
「ねえ、松本くんはどうしてそんなにつまらなそうにしてるの? 何なら楽しい?」
「お前らがいると何も楽しくねえ」
「そんなこと言わずにさ、一試合だけでも」
「一人だから入れてあげようとか、そういうのいらねえから」
「僕は松本くんと遊びたいから誘ってるだけだよ? 同情とかじゃなくて」
「それが迷惑だってことがわかんねえのかよ。学習能力のねえサルが」
 あからさまに機嫌が悪い。
「でも松本くん、一人の時だって笑ってないよね。楽しいわけじゃないんでしょ」
「……お前はいいよな。いつもバカみたいにボケまくって、それにつっこんでくれるやつがいて」
「松本くんがボケたら、僕つっこむよ?」
 家では一人が当たり前で、食べる時も寝る時も、静寂がついて回る。そのせいか、浮かれた声が余計にうるさく感じて、自分との温度差にイライラが募った。松本は布団を深くかぶって音を遮断するも、中々寝付けない。
 好きなだけ騒いで、一同はようやく布団に入る。それでも寝る気がないのか、しゃべり続けている。
「坂口ってモテるよな。しっかりしてるし、優しいし、イケメンだし、ぶっちゃけ好きなタイプは?」
「んー、好きになった人が好きなタイプかな」
「そういうの反則だかんな! じゃあクラスの女子で付き合うなら誰がいい?」
「付き合うとか考えたことないって。俺たちにはまだ早いだろ」
「イッシーは桜井さんだもんねー。歳とか関係ないよー。好きになったら、もうそれは大人の階段上ってる」
「坂口はお子ちゃまってことだよ」
 西岡が鼻で笑う。
「そういうお前はどうなんだよ? 今まで好きな子いたか?」
「……俺からはねえな。女子の方から寄ってくるだろ」
「それはない」クラスメイトの声が揃う。
「太ってるしー、威張るしー、太ってるしー」
「何で二回言った! こういうぽっちゃりも需要あんだよ。知らねえのか?」
「藤丸は? 好きな子いる?」
「えー、僕はしげるん一筋だけどー」
「マルちゃん、一途! イケメン!」
「藤原はどうなんだよ? お前地味にモテるだろ」
「何で?」
「面白いし、優しいし、気遣いもできるしー。西岡とは大違いだよねー」
「おいコラお前ら、揃いも揃っていい度胸してんな」
「そりゃどうもー」
「褒めてねえ!」
 石川は茂に釘をさす。
「ボケんなよ? 藤丸って選択肢も捨てろ。正直に答えりゃいいんだ」
「えっとね、目が四つあって羽の生えた人」
 真顔で答えた。
「ボケんなって言ったろ!」
「もはや妖怪じゃん」
「松本もモテるよな。あんな冷たいやつなのに。バレンタインもらったくせに突き返しやがったんだよ、こいつ。俺なら、一応受け取って食べるくらいはするぜ? どっちがイケメンよ?」
「大将だって、僕が作ったドーナツ食べてくれなかったじゃん」
「ひどーい。乙女の心を踏みにじるなんてー」
「どこに乙女がいるんだよ?」
 茂は泣くフリをする。
「大将は僕のこと、嫌いなの?」
「嫌いじゃねえけどさ」
 悪ノリして石川も女子を演じる。
「そんなっ! 俺のこと愛してるって言ってくれたのに!」
「誰がお前なんかに言うか!」
「二股してたの? 最低!」
「おいでー、しげるん。僕が愛してあげるよー」
「マルちゃん!」
「あんな脂肪まみれの男なんか忘れなよー」
「さっきから俺、貶されてばっかだな! 誰か慰めようってやつはいねえのか? 優しくねえな」
「お前らそろそろ寝ろよ。先生来るぞ」
 坂口が終止符を打つ。松本は全て聞いていた。
 冷たいやつ、ね……。


 一方、藤原家——。
 夕飯前、小春は長男の部屋を訪ねた。
「にーちゃん、あそぼ!」
「今ちょっと無理」
 課題に取り組んでいるようだ。
「いつになったらおわる?」
「あと三十分は無理」
 三十分待ったら、ちょうど夕飯ができる頃だろう。おそらくかわされる。たまに絵本を読んでくれるが、ままごとは参加してくれない。
 続いて、リビングで筋トレ中の次男の元へ行く。
「キョウちゃん、あそぼ!」
「ハルもやるか? 筋トレ」
「やんない。そんなゴリラみたいになりたくないもん」
「んだとコラ! 筋肉ついてる方がかっこいいだろ」
「これだからキョウちゃんはモテないんだよ」
「それ今関係あるか? そんなこと言うなら遊んでやんねえぞ?」
「いいもん! たっくんとあそぶ!」
 衝動的に三男の部屋へ向かう。ノックをしても返答がないので、勝手に扉を開けた。三男はヘッドホンをつけてゲームをしていた。腕をつつくとチラッとこちらに目を向け、ヘッドホンをずらす。
「何……?」
「あそぼ!」
「何するの……?」
「おままごと」
「じゃあ無理……」
「なんで! たっくんはゲームとハル、どっちがだいじ?」
「ゲーム……」
 小春は不機嫌になり、部屋を出た。母はキッチンで夕飯を作っているため、遊ぼうとは言えない。手伝うといっても、あんまりさせてもらえない。
「シゲにいなら、ぜったいあそんでくれるのに」
 暇を持て余した小春は、次男の筋トレにちょっかいを出す。結果、ケンカになって母に止められた。
 食卓につくと、いつもより静かに感じた。ボケ倒す茂がいないからだ。
「ねえかあさん、シゲにい、いつかえってくるの?」
「明後日」
 ちょうどお笑い番組が始まった。いつもなら、ネタ帳を片手にスタンバイする茂の姿がある。長男はふと思った。旅行先でもメモしているのかと。
 部屋にテレビはあっても、風呂の時間や食事の時間、そして寝る時間も決まっているはずだ。見る暇はないだろう。
 リモコンに手を伸ばし、長男は録画した。誕生日プレゼントを選ぶ時も思っていた。茂の好きなものとは何なのか。お笑い以外に何があるのか。昔、何を食べたいかと聞かれて「そぼろご飯」と答えていたのを思い出す。
 あれは絶対嘘だ。食べに行くと金がかかり、手作りでも負担をかけてしまうと、比較的手間のかからない料理を挙げただけだろう。欲しいものは何かと聞いても、笑顔だの愛だの、具体的なものを言ってこない。
 次男がしれっと嫌いな野菜を長男の皿へ移した。
「自分で食え」
「げっ」
「バレないとでも思ったのか?」
「キョウちゃん『おこさま』だね」
「ね」
 次男の額に血管が浮き出る。
「シゲって、何が好きで何が嫌いだっけ?」
 長男の呟きに母が答えた。
「そういえば、キョウみたいに残すことも誰かに押し付けることもしないね。茂だけよ? いつも美味しかったって言ってくれるの」
「逆に不自然だろ。毎日言う方が」
「すきなものないんじゃない? シゲにい、いつも『さいご』にえらぶよね。アイスえらんでって、かあさんがいったら、みんながえらぶのまってるもん」
 小春に続いて、次男も語り始める。
「毎回買うもん違ったよな。でもドーナツ買った時は、真っ先に選んでたろ」
「一番安いの選んでんだよ。多分」
 長男の意見に母が異論を唱える。
「バイキング行った時は好きなのとってるはずでしょ」
「みんなが好きそうなやつ取ってきてんじゃねえの?」
「サラダとかも食べてたろ」
「キョウは絶対食べないもんね、野菜」
「ハルね、きいたことあるよ? シゲにいが『ぜんしゅコンプ』っていってたの」
「マジか」
「そういや、子どものくせにえらい渋いやつ選んでたな」
「嫌いなもん一つくらいあるだろ絶対。歩けねえくらいの時、なんか吐いてなかったか?」
「あれ何かの部品だったろ。確か」
「小さい頃は野菜残したこともあったけどね」
「あれはキョウの真似したんだろ。食べろっつったら躊躇なく口に入れたぞ」
「食べ物に頓着してねえだけじゃねえの? ほら、テレビでなまはげ見て泣いてたことあったろ。多分嫌いなもん、なまはげだよ」
「どんなプロフィールだよ」
 次男の結論に長男がつっこむ。
「あれは単に怖かっただけじゃない? ハルも泣いたことあるし」
「ないもん!」
「あった」
「あと幼稚園の運動会で、かけっこ最下位になって泣いてたな」
「そりゃ悔しいでしょ。リレーで一番早く引き継いだのに、自分がゴールした時ドベだったら」
「シゲにい、はしるの『にがて』なのかも。ハルがおにやったら、すぐつかまるし」
「あれは手加減してんだよ」
「そんなに運動神経悪いか? 体育の成績どうだった?」
「よかったと思うけど」
 結局考えてもわからずじまいだった。どうせ本人に聞いても、大喜利で返ってくるだろう。
 長男は布団に入り、隣に茂がいないことに違和感を覚えた。考えてみれば、アルバムをよく眺めているのも謎だ。普通、昔の写真を毎日のように眺めたりはしないだろう。
 尽きない疑問を今気にしても仕方がないと、長男は目を閉じた。


 修学旅行二日目――。
 誰より早く起きた松本は、準備を済ませて読書中である。
「松本くん、早寝早起きだね。三文の徳あった?」
 茂が起きてきた。
「別に」
「松本くんって兄弟いる?」
「いない」
「だから大騒ぎに慣れてないんだね、納得。でもうちの三番目の兄ちゃんも、どちらかというと溶け込めない感じなんだよね。ペアで一人余ったら、入れてもらって三人になるよりも、一人でやりたいタイプでしょ」
「まあな」
「松本くんなりの楽しみ方があるんだよね? 教えて?」
「お前に教えて何の得がある?」
「気になって夜も寝れないから、教えてくれたらぐっすり寝れる」
「お前昨日ぐっすりだったじゃねえか」
「夢の中でも考えてたよ? 松本くんはどうしたら笑ってくれるのかな? いつ笑ってるのかな? って」
「……笑わなきゃだめか?」
「笑えない人生って幸せだと思う?」
 松本は黙った。その沈黙を破ったのは、西岡のいびきだ。
「鼻つまんでやろうか」
「いいね。寝起きドッキリやろう」
 まずは、水族館で買ったもふもふキーホルダーで顔をくすぐる。大将はふふっと笑ったきり、またいびきをかく。松本がペンを取り出し、顔に落書きし始めた。
「松本くんったら、いたずらっ子」
「お前が言い出しっぺだろ」
 家では、起きたらもう両親は出発している。一人でご飯を食べて、誰もいない家に行ってきますを言って、登校するのだ。寝起きドッキリなんて、普段はできっこない。忙しい朝にそんなことをしたら、両親は怒る。
 思わず口元がニヤつく。西岡が起きた時、どんな反応をするだろう。松本はふと我に返って、いたずら心をしまった。くだらない。こんなことしたって何の意味もない。
 ドッキリは茂に任せて、しおりを読む。俺はあんなガキみたいなことしない。
 茂は大将の鼻にティッシュを詰めたり、布団を剥がしたが起きる気配がない。最後の手段と、枕を投げつけてみた。
「ぶふっ!」
 さすがに覚醒したようだ。
「てめえ、朝からケンカ売ってんな?」
「そんなことないよ。僕のケンカは非売品だから」
「意味わかんねえこと言ってねえで、謝ったらどうだ? え?」
「ごめんなさい。大将の寝顔があまりにも面白……ゲフン! 可愛かったもので」
 西岡はつっこまなかった。寝起きから怒鳴るのは疲れる。それも、あの茂が相手だ。ムキになるのもアホらしくなり、西岡は準備のため鏡の前に立つ。
「は? 誰だこれ書いたの! 藤原、お前か!」
「松本くんの職人芸です」
 大将の怒りの矛先は松本へ移った。
「お前、昨日散々枕投げ断っといて、なんだその態度! やりたいなら入ってこいや! 素直に」
 その大声に、みんなもぞもぞと起き始める。
「藤原にやれって言われた」
 松本は飄々と答えた。
「そう言われて従うたまじゃねえだろうが!」
「朝からキャンキャン喚くなよ。犬じゃあるまいし」
 頭に来た西岡は、松本を羽交い絞めにしてくすぐった。殴るより、こっちの方がきついと最近気づいたのだ。もちろん、大人しくやられるはずもなく、強烈な肘打ちが返ってきた。
「邪魔だ。暑苦しい。その無駄な脂肪、どうにかしろよ」
「誰かこいつの口塞げ! ガムテープか何かで!」
「朝から揉めるなよ」坂口が苦笑する。
 大騒ぎする中、藤丸は動じることなくスヤスヤと眠っている。茂は、寝起きドッキリのチャンスだと仕掛ける。頭を支える枕を引っこ抜くも、微動だにしない。土産のお菓子を引っ張り出して、鼻先に近づけると、匂いにつられたのかかぶりついた。
 藤丸は寝ぼけていても食い意地を張る男だった。起きているのかと思いきや、名前を呼んでも返事がない。
「きゃー、マルちゃん助けて!」
 がばっと起きる藤丸だったが、何事もないのを確認してまた布団の中へ潜り込む。
「しげるん、うるさーい」
 集合時間前になっても、藤丸は起きなかった。みんなで手を尽くしたが、無駄だった。
「しょうがねえ。持ってくか。来なかったら連帯責任だもんな」
 西岡は、軽々と寝起き姿の藤丸を担いで部屋を出る。
「大将、力持ちだね」
「まあな」
「逆にその体で非力だったらいいとこなしだろ」
 西岡が松本の足を蹴る。集合場所までお互い蹴り合っていた。
「なんだかんだ仲いいね」
「いいのか? あれは」
「藤丸、いい加減起きろよ!」
「あと24時間―」
「ナマケモノを超えてきたな」
 先生の説明の間はぐっすりだった藤丸だが、朝ごはんにはしっかり目を覚ました。


 二日目の午前は、博物館を見学する。クイズを発見した石川は、問題を読み上げた。
「この肖像画は誰?」
 外国人だった。
「カー〇ルー」
「ド〇ルド!」
「腹減ってんのかお前ら、さっき朝飯食ったろ」
「ペリーだろ? こんなの常識」
 西岡がドヤ顔で答える。
「何やった人だっけ?」
「日本が鎖国してる時、漂流してきた人」
 茂の説明に、松本は思わずツッコミを入れる。
「黒船は?」
「大統領暗殺容疑で追われてきたんだよー」
「歴史ねじ曲がってんな」
 少し歩くと、開国してから入ってきたものが展示されていた。そこで藤コンビの茶番が始まる。
「ねえねえ、そこのジャパニーズ、僕と開国しない? ジャパニーズの文化は素晴らしいね! ぜひ輸入したい!」
「そうでしょー、これは置くだけで幸せになれるつぼでー」
「明らかに詐欺師!」坂口がつっこんだ。
「ちなみに僕の国にはこんなの、あんなの、そんなのもありますよ。貿易は怖いものではありません。新たな世界を知る機会なのです!」
「でもあなたタイプじゃなーい」
「オーマイゴット!」
「お前らそれくらいにしとけよ。あんま騒ぐと追い出されるから」
 起きたら寝るまでフルスロットルでボケる茂に、松本はある意味尊敬した。
 バスに戻ると、隣の藤丸が寝に入ってしまった。茂はマイクを借りて前へ出る。
『あー、みなさんご機嫌いかがでしょうか。フジのコウジしげまろです。まあ、最高学年のお兄さん、お姉さんたちがいっぱい! でも、まだまだけつの青いガキ』
 生徒の一人が眠そうにしている。
『ほら見て、大きな欠伸! 大人になりたきゃ、手で覆いなさいね? そう、手で隠して。隠しごとってね、成長していくにつれて増えていくの。子どもとはいえ、もうみんな嘘つけるでしょ? お母さんにも平然と嘘をつく。宿題やったの? やった。ホントはやってないんでしょ? あなたも、そこのあなたも』
『そんなあなたたちもね、小さい頃は全部お母さんに正直に報告してたの! みてみて! こんなの作った! 今日ね、先生に褒められたんだよ! あれから六年、虫歯見せなさい! あるんでしょ? ねえよ! クソババア!』
『まあお口の悪いこと! 反抗期ってやつに突入してるのね、君たちは。みんな来年三月には卒業して、中学生になる。女の子たち、お化粧したくなるお年頃よね? 好きな男の子を気にして服もちゃんと可愛いの選んで! でもね、今はお化粧しなくていいの! 子どもだからじゃない。お化粧はね、醜い自分を美しく飾りたいからやってるの! 容姿に自信のない人ほどハマる! あなたはそのままで十分キレイ! あなたも、そこのあなたもみーんなそう!』
 バス内を歩き回りながら、茂はしゃべり続けた。
『男の子もね、女の子を意識してモテたい! かっこつけたい! と思うお年頃。整髪剤とかつけてみたりして。鏡の前で散々いじくって、お母さんに見せたら、何それ寝癖? 違うの! セットしたの! 最初はみんなへったくそ。でも練習して、これまでいろんなことを身につけてきた。そうでしょ?』
『一年生の頃にはできなかったことが、今は簡単になってる。自転車に乗れるようになった。漢字が読めるようになった。身体能力も上がった。小さな体が大きくなって』
 西岡の前に来ると、茂は立ち止まった。
『あら横に大きくなってる人がいる。あの頃は痩せてたのに!』
「うるせえ! お前が俺の何を知ってんだよ!」
『大丈夫。育ち盛りだから動けばプラマイゼロ! 女の子は体重とか気にするお年頃だけどね、太ってないよ! 今は代謝がいいから、ちょっとお菓子食べたくらいじゃ太らない! 高校を卒業するとね、段々肥えていくの。お母さんの二の腕、お腹、見てごらん? プニプニしてるでしょ? あれも若い頃は引き締まってたんだから。運動しなくなると脂肪はついていく!』
 こんな具合に、なんちゃって漫談をしばらくしていると、目的地に到着した。バスを降りて、フェリーに乗り島へ向かう。

 広場に集合する一同の周囲には、マイペースに歩く鹿や、立派な松の木、和服を着た坊主の銅像が立っている。海辺には石が敷き詰められ、遠くには鳥居が見えた。
 各自班にわかれて散策を開始する。事前に決めた藤丸の食べ歩きコースを進みながら、道中の土産屋に入ったり、小川で鹿と戯れた。一同の財布は緩んで、手元にどんどん荷物が増えていく。西岡は悪だくみして、旅行での持ち込みが禁止されているおもちゃを現地調達する。これなら土産として換算されるはずだと。
 藤丸のみならず、一同は歩いては買い食いしていった。ソフトクリームやまんじゅう、肉まん、たい焼きなど、食欲をそそる店がたくさん並んでいるのだから無理もない。
「お前ら金なくなるぞ」
「どう使おうが俺の勝手だろ」
「松本くんは買わないの?」
「腹減ってない」
「じゃあ一口あげる」
「いらねえ」
「松本はどっか行きたいとこなのか?」
「別にない」
 本音を言えば、こまやけん玉などの昔遊びや、駄菓子が置いてある店に興味を持った。だがそれは、胸の内にしまった。
 俺はこいつらとは違う。俺はあんな子どもみたいにはしゃがない。別にここじゃなくても食えるだろ。たい焼きもソフトも。ご当地ストラップだって、旅行から帰った翌日には、どこかにしまってそのまま使わずじまいだろうに。
 そんな冷めた考えの松本も、一応家族に土産を買う。
「これみんなでお揃いにしね?」
「いいねー」
 松本にとっては、正直いらないものだった。西岡が押し付ける。
「お前も買え」
「嫌だ。お前みたいなアホと仲良しだと思われたくない」
「アホだあ? お前だけだぞ、楽しんでねえの。この空気でその発言するそっちがアホだろうが。そんなに嫌なら一人で回ってろよ」
「ああ、じゃあそうさせてもらう」
「おい! 班行動だろ?」
 委員長の仲裁の声も聞かず、松本は店を出た。
「西岡があんなこと言うからだぞ!」
「じゃあこの先、ずっと水差されっぱでいいのかよ? ほっとけあんなやつ」
「しげるん、大丈夫だよー。もっさんはちゃんと一人でも集合場所来れるからー」
「じゃあバスの中でこんなの買ったって分けてあげよう」茂が言い出した。
「どうせ突き返されるぞ」
「受け取ってくれるまで諦めない!」
「しげるん、がんばー」

 松本は下町風の通りに来ていた。今時、駄菓子屋は生き残るのが難しい。コンビニで全て買えてしまうからだ。だが、コンビニでは風情がない。よく祖父と近所の駄菓子屋に行ったことを思い出す。
――今はどこもスイーツだの甘味だの溢れてるがな、昔はお菓子なんかそう手に入るもんじゃなかったぞ。毎日食ってくので精一杯だ。
 祖父は嬉しそうに懐かしいと手に取っていた。家に帰って思い出話と共に食べた。おもちゃも、昔懐かしのものを取り出しては対戦した。最近のはわからんと苦笑されるよりは、ずっと楽しかった。
 お互い知っているもので遊ぶ方が、盛り上がるのだ。将棋だって捨てたもんじゃない。ゲームは一人でもできるし、画面は返事をくれない。たわいもないことを話しながら頭を使う。そういった遊びの面白さは、俗物を前にして浮かれているあいつらにはわかるまい。


 二日目の夜、食事後に出し物発表会が行われた。レク係がリーダーとなり、班ごとに披露する。茂の班はコントだ。あんなふざけた集団に入りたくないと、松本は効果音係を買って出た。
 坂口がマイクを持ち、先陣を切る。
『えー、お集まりのみなさま、長らくお待たせしました! これより表彰式を始めます』
 拍手の後、坂口は続けた。
『まずはベストトイレットペーパー賞、トイレで使うペーパーの長さが桁違い! いつもペーパーを持ち歩いているカミヤさん!』
 茂が席を立つ。感極まった様子だ。手で口を覆い、キョロキョロした後に一礼した。
 松本は内心つっこむ。それは表彰すべきじゃねえだろ。エコの真反対だぞ。
「何度もトイレ詰まりました。そのたびにキュッポンして格闘したのも、いい思い出です」
『ぜひ減らす努力をして欲しいですね』
 笑顔で坂口がコメントした。
『お次はZ賞! 居眠りのスペシャリストに贈られます! イビキさん!』
 藤丸が前に出た。
「立っている時もー、座っている時もー、食べている時もー、風呂の時もゲームの時も、睡魔とずっ友することを誓いまーす」
『もはや死んでると思ったのは私だけでしょうか。続いて、ゴールデン蚊取り線香賞! 蚊をめちゃくちゃ殺したカトリさん!』
 石川が前に出る。
「一日に1500匹仕留めました!」
 大量発生か。松本は内心つっこんだ。
「俺は蚊を絶滅危惧種に指定するまで死ねない! 人に気づかれず血を吸って去る! なんという技! その伝統技術を俺は評価したい!」
『殺したいのか、生かしたいのか、はっきりして欲しいですね。続いて、ノーベルフライドチキン賞、一日三食以上からあげを食べる猛者です。そして、チキンの活用方法を十五個も開発した、カラタさん!』
 西岡が立つ。
「食べる以外にも掃除や洗濯、歯磨き、ハエ取り、楽器、リレーのバトン、からあげの可能性は無限大です」
『食べ物をそれ以上、粗末にしないでくださいね。どうせなら全て胃袋にしまってください。ラストを飾るのは、ベストノンコンタクト賞! どんなに人々がコンタクトを勧めても、メガネを割って置いておいても、全く相手にしないその頑固さ、素晴らしきメガネズム! 松本さん、おめでとうございます』
「は?」予定外のことに松本は戸惑った。
 茂が立って一礼する。
「メガネは体の一部です。見えなくて転んでぶつかって骨折しても、コンタクトをしなかった。そんな自分に誇りを持ちたいと思います!」
『コンタクトに何の恨みが……いえ、メガネを愛する心、素晴らしいと思います』
 人の名前を勝手に使うな。
 松本が苛立つ一方で、会場内は大うけだった。
 バカなことやって笑われて、それが楽しいなんて、俺にはわからない。西岡が自らボケに回るなんて、以前では考えられなかったことだ。
 バカにされるのではなく、どうせやるなら笑いをごっそり取りに行く。人を楽しませるという茂の心意気に乗ったらしい。ずいぶん丸くなったものだ。


 その頃、藤原家では——。
 誰にも遊んでもらえず、小春は退屈していた。その上、こんなやりとりが聞こえる始末だ。
「お前が思ってるより大したことないって! ちょっと勇気出して話しかけりゃ、友達なんかすぐできるもんだし」
「その勇気を出すのに一苦労してるんでしょ……それに別に友達が欲しいわけじゃないし」
「別にいじめられたわけじゃねえんだろ? だったら、こういうのは根性で乗り切れる。授業で寝たっていいし、体育へたくそでもいい。バカな俺でも毎日行けてんだぜ? 賢いお前ができないはずは」
「気合で何でも解決できると思うな……!」
 次男と三男の口論に、小春は嫌な予感がした。
「気持ちで負けてたら前に進めねえだろ! このまま逃げ続けても楽じゃねえことくらい、わかるだろ!」
「わかってるよ……。もうほっといて……!」
 扉が乱暴に閉まった。
「シゲにいなら、なんていってとめたんだろう。いつもいやな『くうき』かえてくれるのに。はやくかえってきて」
 小春の呟きはテレビの音に搔き消された。
 三男の心は荒れていた。
 キョウはバカだから平気で行けるんだ。俺は人より何倍も怖がりなのに。それをわかっていないんだ。強いやつに弱いやつのことなんて、わかるはずない。
 深呼吸で荒ぶった心を鎮める。ゲームなら簡単に仲間が増える。レベルを上げれば敵を倒せる。リアルではなんと無力だろう。


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