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実家の壊れた扇風機

この数年前ぐらいから、ニューヨーク在住の友人達が、日本在住の高齢の親のお世話で定期的に帰っている。病院の送り迎えや日常の細々とした用事をこなしながら、納屋や押入れの整理整頓に着手しているとのこと。
で、そこで、自分の親が、ものすごい量の不要なものを溜め込んでいることに驚愕するらしい。

先日、日本から戻りたてホヤホヤの友人が、お土産を持って、遊びに来てくれた時にもこんなことを語っていた。

「いやー、僕が使っていた部屋が物置になっていてさ、そこを片付けて、自分の寝るスペースを作るだけでも大変でさ。もう、絶対使わない物だけじゃなく、壊れて使えない扇風機とかも置いてあるのよ。捨てろよ、って感じのものだらけで、本当、驚くよ。」と。

ご両親の年齢は80代後半と90代前半。田舎の一軒家に二人暮らしだそうだ。
スペースがあるから、”いつか使うかも”って軽い気持ちで、捨てずに置いていたら、どんどんその手のものが増えていってしまったのだろう。そして、それを整理するのが面倒臭くなったのだろう。
と、最初は思っていた。

だが、昨日、84歳の犬友とセントラルパークを散歩している時にした会話が、どうも頭に残っている。なんだか、自分の考えが間違っていた気がしてしょうがない。

「Cさん、今日はこの後、何をされるの?」
「今日はお部屋の整理整頓。」
「あら、先日もそうおっしゃってましたよね。アパートが広くて、物がたくさんあると大変ね。」
「ううん、そうじゃないの。整理しているうちに、懐かしくなっちゃって、捨てられなくなっちゃうのよ。」

何気なく交わした会話。でも、そこに、ある真実が見えた気がした。

長い時間生きていれば、それだけ、その時代の、その年齢の記憶が、脳に、心に刻まれている。それが、その物を見たり、触れる度に蘇る。
あの頃の自分、今よりずっと若かった頃の自分。壊れた扇風機も、新品の扇風機だった時があり、それを買いに行った記憶、それを使った時の記憶が溢れ出す。その時、一緒にいた人、一緒に過ごした時間も蘇る。
もう二度と戻らない時間が脳の中で巻き戻される。懐かしい気持ちでいっぱいになる。それはある意味、快楽なのではないだろうか?

考えてみれば、子供は懐かしむことはしない。(多分)
小学生が、幼稚園の頃の自分を懐かしむって想像出来ない。
中学生が、小学校時代に使っていたランドセルを懐かしいって思って、取っておくとかあるだろうか?多分、ない。
なぜか?
それは、子供にとっては、過去より、今と未来の方が興味があるからだろう。自然に自分の意識はそっちに振られているのだろう。

それが、歳を取るにつれ、それが逆転していくのではないか?
未来の自分を妄想して楽しめるのは若いから。
でも、ある一定の年齢になった時、未来の自分を想像すると、、、私の年齢になると、、、正直、想像したくない。(笑)
ある年齢から、人は、過去を懐かしむことの方が楽しみに変わるのかもしれない。その懐かしむ気持ちを発動してくれるのが、写真だけじゃなく、物。
そう思うと、壊れた扇風機もただのガラクタじゃなくなるね。それは、大切な思い出なのだ。目に見える、触れられる思い出なのだ。

きっと、高齢になればなるほど、沢山の思い出があり、それは自分では捨てられない。
だから、代わりに整理してあげるしかないのだ。
壊れた扇風機に、「ありがとう」と言いながら。











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