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健康と天気の話題ばかりなんですが

中学生ぐらいの頃、(多分)50歳過ぎの大人たちの立ち話の内容が、健康か天気の話ばかりだと気づいた。
「どこどこが最近痛い」「これが効くらしいよ。」か「今日も一日中雨だって。」「今年は梅雨が長そうだな。」と言った会話だ。

なんて中身のない会話を繰り返してるのだ。
もっと、有意義な話題があるだろう。世界情勢や政治、仕事、そして、恋愛を含む人間関係の悩みなどなど、いくらでもあるだろうに。

歳を取ると、経験や知識が増え、人間として深みが増し、話題ももっと興味深い、面白いものになるのかと思いきや、そんなことはない。それとも、私の生まれ育った土地が田舎なので、住んでいる人種が問題なのか?
ならば、東京へ行けば変わるのか?世界へ行けば変わるのか?

そんな生意気で分かっていた気になっていた少女は、地元を離れ、東京を離れ、アメリカ・ニューヨークに根を下ろし、30年近い年月を過ごした。
生まれ育っていない国で、第二外国語で、仕事をし、様々な階層、人種の人たちと接触し、様々な会話に興じ、日々を過ごした。

結果、50代になり、今、自分が犬の散歩中にする立ち話は、「健康」と「お天気」と「犬」の3択。ランニング中のチャットランは、「犬」の部分が「ランニング」に変わるだけで、「健康」と「お天気」は鉄板。

つまり、私は、見事に、若い時代に、軽く蔑んでいたおばさんになっているというわけ。まぁ、田舎で過ごそうが、ニューヨークで過ごそうが、行き着く場所は一緒だったというわけだ。
非常に笑える。
でもね、そんな自分に幻滅や嫌悪感はない。それどころか、ああ、自分はなーんにも分かっていなかったんだなぁ、と若かった自分の浅はかさをしみじみ思うのだ。

そんな話題しかしなくなったのは、簡単な事。
もう他の話題は若い頃からやっていて、ある意味、やり尽くしたからか、もう飽きたというか、もしくは、自分がその話題の登場人物じゃなくなったから、興味がなくなったのだ。仕事も第一線から退いたり、リタイヤしたり、幾つになっても恋愛するタイプもいるけど、多くは、若い頃に比べると枯れてくるし、自分の能力の限界がこれぐらいと自覚があれば、ワクワクする挑戦”なんてことは、老後を破綻させかねない。今の平和な日々を淡々と過ごす為に必要なのは、「健康の維持」。よって、自ずと話題の中心が、「健康」に特化されるのである。

そして、もう一つの「お天気」の話題であるが、なぜか、歳を取るにつれ、人工物より自然の方が好きになるというか気になるようだ。新しい建造物やレストランより、毎日、通る木々の変化の方が気になるみたいな感じだ。「あ、どんどん緑が濃くなっているなぁ。夏が来るんだなぁ。」とか、たわいのない、そして、毒のない会話が心地良い。
そういえば、小学校低学年ぐらいまでは、道の石ころや雲の形を見て、面白いと感じていたなぁ。

人間という生き物は、生まれて10歳ぐらいまでは、自然と近くに生き、その後、40年ぐらいは、社会という人間が作り上げたものの中で生き、そして、また段々と自然の近くに寄っていき、最後は、土に還るのかもしれないね。










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