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その刷り込みが状況を悪化させる。認知症には無駄な先入観を今すぐ捨てるべし!

この世にいったいどれだけの病気があるのだろう。認定されているものから、未だ解明されていない未知のウイルスまで、私たちが知っている病気など、もしかするとほんの一握りかもしれない。

私たちはネット社会になり、広大な情報の海におぼれているだけかも

「認知症」に限らず、もしかして病気?となった時に、現代の私たちは驚くほどの勢いで、ネットで情報を漁る。今の自分の状況など把握することもせず、自分自身と向き合う前に、やみくもにキーボードをたたいている。

そして膨大な病気に対する体験談やコメントやら感想やらに打ちひしがれていく。

でも、ちょっと待って、それって無駄な落ち込みではないのか?

病気というものは、そもそも同じ病名でも個々反応は違うだろう。なぜなら体質も体格も環境も食べるものも、すべて同じではないからだ。同一条件のもと生きているのなら、その病気に対する診断もすべて信じても良いのかもしれないが、たぶん確実に一人ひとり、病気の進度も症状も同じではないはず。だから身内なり、自分なりが病気かもと思った時にやることは、バランスよく情報を集めることだ。

私が思う理想的なものは、「認知症に関する知見者の本を読む」、「認知症介護の経験のある人の話を聞く」、「身内に認知症がいた人の話を聞く」「自立支援型認知症グループホームを見学する」「医療者の話を聞く」だ。

病気を正しく捉えるには、先入観を捨てることから始めよう

「親が認知症になったかも」という話は、50代以上の人間なら、一度や二度遭遇する。知り合いを含めれば、もっと多くなる。それぐらい身近な病気だ。しかし、認知症に触れるきっかけは、「老々介護」だったり「介護殺人」だったり、「徘徊で行方不明」などと、いきなりハードな闇の世界へ誘われるニュースやドキュメンタリーが多い。私自身も認知症をきちんと知る前は、ものすごく大変で、手に負えない、恐ろしい病気のようなイメージがあった。

そのイメージが変わったのは、とてもお世話になった仕事上の先輩が、入退院を繰り返し、週1回程度、独り身の彼女の生活のサポートをしていた時だった。1年ちょっとの出来事だったが、私は、持病の心臓病が悪化して亡くなる直前まで、彼女が認知症を発症していると思っていなかった。同じ昔話を繰り返すけれど、大正生まれのキャリアウーマンだった彼女の話はとても面白く、何度でも聞けてしまうので、それが病気から来るものとは思わなかったのだ。多少、辻褄の合わないことや突然怒り出すなど、おかしな行動をとることもあったが、私のイメージしていた認知症とはかけ離れていた。そのため、心臓の病気が悪化し、再度入院した時に、医者から「認知症も発症しいてると思われます」と聞かされた時、周りの人々もみな、すぐに信じることができなかった。そうして、彼女は、認知症がどのレベルであったのかわからないまま88歳の生涯を終えた。

そんなことがあったからか、2年後、母が認知症かもしれないと思った時も、それほど慌てることがなかった。たぶん、私は彼女のおかげで、認知症への先入観が消えていたからだ。それから本を読んだり、人の話を聞く際にも、先入観がないと、「そういうパターンもあるのか」といろいろな症状や状況を一例として聞くことができた。

最初に母を連れて行った時に、医者からは、「認知症テストから見ると現在の脳年齢は10歳上の83歳ぐらいで、小脳にも縮みがあるから、半年ぐらいで歩行困難になり、車いすになるかもしれない」と言われた。その言葉に発奮したのかわからないが、母は自分なりに運動を心がけたし、実際に診断から6年たった今も手を添えれば自力で歩けるほどだ。これは先生の診断が間違っていたということではなく、今までの臨床例でいけば、そういう状況もありうるということだ。逆に、年齢が10歳ぐらい上というアドバイスは、私が母を見ていく上で、とても役に立ったし、まだ70代前半なのに!という無駄な焦りや頑張りをさせることもなかった。80代だったら、こんな感じかな~と自然に母の状況を受け入れられていったのだ。

医者を絶対視するのではなく、伴奏者として付き合う

認知症はすぐに死に至る病気ではないし、手術や全治するための治療がない。ということは死ぬまでつきあっていく持病のようなものだ。そうなった場合、最初の数回で、医者の良し悪しを決めてしまうのはどうかと思う。また一人の先生にずっと見てもらわなければいけないかと言えば、長い残りの人生、家族を含め、うまく付き合っていける先生に変えることも悪くない。

日本人はセカンドオピニオンに対し、必要以上に、失礼だと考える節があり、「先生の診断を疑っているように思われるのでは?」と、我慢して通い続け、関係を悪化させることがある。最初にも言ったように病気の症状の現われ方は、人それぞれだし、医者ができるのは、バクッとしたその病気の症状を伝え、いくつかの治療法を提案するのであって、占い師のように「ピタッと当てました!」というものでもない。お互いが病状と生活状態を情報交換しながら、より良い生活をキープするための伴奏者なのだ。だから、その伴奏者を選ぶのに、何人かの診断を受け、治療方法を決めることはお互いにとって良い選択だと言えるのではないか。

医者も人間。患者も人間。大事なのは信頼のおけるコミュニケーションが築けるかどうか。

「診察中、患者の顔を全く見ないで、コンピュータばかり見ている」という不満は、患者のクレームに多い。確かに医者の中にはコミュニケーション不足、コミュニケーションが苦手という人もいるだろう。以前、医療カフェという医者と市民で月に1度、医療や病気について学ぶ会に参加していた時に、大先輩の女性がとても素敵な話をしてくれた。

「私はね、心臓の病気をした時に、パソコンばかり見てる先生に、日記のようなものを診察時に渡していたの。毎日こういう日課で、こういうものを食べて、こういう違和感があったみたいなもの。それを続けていくうちに、先生も私の状況を把握すると、症状が理解しやすくなったのか、私と話をしてくれるようになって。私の方がずっと年上なんだし、患者は頼り切りでなく、お医者さんも育ててあげないとね(笑)」。

その彼女の行動はさりげないながら、とても大切な患者側の情報提供を自然な形で行っていた。医者であれば、すべてを熟知して……、というのは思い込みで、先生にも判断がすぐつくもの、付き合いながら様子を見ていくもの、いろいろある。ただ、それを上手に表現することのできる先生が少ないのだ。また、患者側は「何も聞かされていない」と不安になってしまうのだが、先生の持っている知識を最大限に引き出すには、こちらも最大限の情報提供が必要だと言える。

結局、我が家は最初に見てもらった先生のところに通い続けたが、だんだんと先生が笑ったり、冗談を言うようになり、診察時間も和やかになることが多くなった。母は最初の数回は、緊張しすぎて、血圧が上がりすぎるのだが、何度か通ううちに「先生が若くてかっこいいから、血圧があがっちゃう」などの冗談も言っていた。もちろん人間同士、ムカッと来ることもあるが、そんな時は「先生、腹の虫が悪かったのかな?」ぐらいに受け止めたらいい。門切型の先生なので、多少口調がきつく、家族がその状況を受け止められない時もあったが、今思うと、都度都度のタイミングで、先生が提案してくれたことは、良い結果を生んでいた。先生も「この良い状態が維持できるのは、家族の介護力なんだよね」とうれしい言葉も言ってくれた。完治しない病気の場合、患者や家族がどれだけ辛くならず、追い込まず、みんなが伴奏者となり得るよう、協力しあうことが大切。たぶんそれが一番の治療方法なのだと今は思う。

これは病気だけにあらず。すべてのことに通じる人間の思い込みの悪

コロナ禍の中、ややもすると、ネット上にはエキセントリックな書き込みが増えている。完全収束はなく、「withコロナ」として向き合っていくには、いろいろな情報をバランス良く取り入れ、上手に付き合っていくコツをみんなで考えていかねばならない。「絶対」「そうに違いない」といった思い込みは、視野を狭めるだけでなく、他者を攻撃するパワーの源になってしまうこともある。状況は刻一刻と変化するし、人によっても状態は様々、その中で私たちは生きていかねばならないし、未来を築いていかないといけない。

伴奏者とは「寄り添える」人のことだと思う。認知症もウイルスも未知の部分が大きいだけに、私たちは智慧と思いやりを持って伴奏し続けていかないといけないでのだと思っている。


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