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バリアフリーとは社会の幸福度をあげること

先日、こんな記事を書きました。

書きたいままに書いただけだったんですが、嬉しいことに日経COMEMOさんに少しだけ記事を取り上げていただきました。

そんな流れで、日経COMEMOさんより直々に次のテーマへのお誘いコメントをいただいたので、書いてみようと思います。

次のテーマはこれらしいです。

「バリアフリー」というのは、すごく繊細で難しい言葉だと思います。言葉の意味を直訳すると、「障壁(バリア)が ない(フリーである)こと」と言ったところですが、何が難しいかって、障壁(バリア)は人それぞれで異なることが多いからです。

例えば、平坦な道に大きな岩があれば、大抵の人にとっては障壁になりますよね。でももし、歩き疲れた人がやって来て、「ちょうどいいや」とベンチ代わりに座って休んだとしたらどうでしょう?

このように、ある人にとっては障壁になることでも、ある人にとっては利益になる、みたいなことは往々にして起こるわけです。

そうなってくると、「バリアフリー」という言葉の定義は人によって変わってくるのではないかと思っていて、日経COMEMOさんのテーマにある「環境を整えれば、障害はなくなるのか?」というのも、必ずしも「YES」とは言えないのではないかなと。

ただ、多くの人が障害に感じるものを取り除くことで、社会の幸福度は上がっていくとは思います。先ほどの大きな岩の話も、歩き疲れた人にとっては利益になったとしても、いつも通る多数の人にとっては障害になるので、それを取り除くことで環境は良くなります。多数決の原則みたなものですね。

結局、「バリアフリー」というのは、あくまでも当事者が感じるものであって、誰かから押し付けられるようなものでもないし、人によって捉え方は異なるだろうというのが僕の認識です。もう少しテーマに即して言えば、"自分が関わる" 環境を整えれば、障害は "減らす" ことができる、といった感じですね。

なので、こちらもテーマの一つである「究極のバリアフリーとは何か」についての答えは、「100人いれば100人にとって何不自由なく生活が送れる環境」です。先の例からもわかると思いますが、正直これはすごく難しい。人は皆、それぞれの事情を抱えて生きているわけですからね。それに全部対応するというのは、まさに究極のカタチかなと。

ただ、「バリアフリー」という言葉は、多くの場合、ハンディキャップを抱えた方向けに使われますが、ここの認識を少し変えるだけでも環境は良くなると思います。

ダイバーシティ(多様性)が重視される現代の世の中においては、昔に比べて「個」を尊重する意識が強くなっています。昔であれば、「直さなければいけないこと」とされていたような事であっても、今では「個性」と捉える向きもありますよね。

さらに、SNS などの発達によって、誰でも自由に情報を発信できるようになり、自分を知ってもらえるチャンスが増えたということも大きいと思います。今の時代、「言ったもん勝ち」みたいな部分もあって、自分の好きなこと、やっていること、考えていることを自発的に発信していくことで、社会との親和性を高めることもできますし、自分の生活や仕事を充実させる要素にもなり得ます。

このようにツールや社会の動きが変わってきたこともあり、ハンディキャップも「個性」のひとつであると言うことができます。

つまり、個性を尊重する="個性として" 何かができない/難しいことがあれば、周囲がサポートする、という考え方を多くの人が持つことができれば、ハンディキャップという言葉自体なくなるかもしれないし、それこそ究極のバリアフリーに近づけるかもしれませんよね。

このコロナ禍において、世界の環境が激変しました。今まで当たり前のようにやってきたことが、突然できなくなり、新しい障壁が生まれました。

例えば、テレワークに慣れていない企業や人は、「会社に行けない」ということ自体が大きな障壁になったでしょうし、反対に会社に行くという行動がなくなり、障壁が減ったと感じる人もいるでしょう。

このように、障壁とか障害というのは、時代の流れによって大きく変化するものなんですね。

大切なことは、その時々に生まれる障壁や障害に対して、一人一人が常に考えることです。「自分はこれを障害に感じるけど、他の人はどうだろう?」とか「こうすると、あの人にとってはどうなるだろう?」など、自分だけでなく、相手の視点に立って物事を捉えることができれば、幸せな人生を送れる人(ウェルビーイング)が増えていくはずです。

#日経COMEMO #究極のバリアフリーとは

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