サラダ。

「これ、ヤダ」
 小さい子どもが、白い皿に映える濃い緑色のブロッコリーを隅に追いやる。お母さんは、食べないと大きくなれないよ、と諭す。子どもはそんなことは知ったこっちゃない、と言わんばかりに口を閉ざす。ブロッコリーは、まだシャキッとしている。
 
地下鉄の改札口を出て、階段を上がり、すぐそばにあるコンビニへ、一人のサラリーマンが入る。サラリーマンは、おにぎりの棚から昆布と梅干の握りを、隣の棚からサラダの入ったプラスチックの容器を取る。サラダたちはみずみずしく見えた。
 
 東京の一等地にあるオシャレなカフェで出されるサラダは、上品なドレッシングをドレスのように纏い、ほんのりと暖かい色の照明に照らされる。まるでサラダの舞踏会のようだった。

 まだ日も浅い時間帯、野菜畑の間を縫って通る土の道の上を、一台の軽トラックが走る。荷台に黄色い空っぽのかごをたくさん積んでいる。運転するお爺さんは白いひげが似合っている。車内はジャズで満たされている。これから、野菜は、サラダは生まれる。

 私は、映画館でキューピーマヨネーズの宣伝を見た。大御所歌手が登場するバージョンの宣伝ではない。
外国のビル群を背景に、サラダは映しだされる。音楽と語り手の声が、私をそっと包む。その宣伝は、あまりにも美しかった。普段、野菜を、サラダを食べない私は、その映像美と音楽に、野菜を食べる新たなきっかけをもたらしてくれた。
 それまで子どもっぽい感覚で嫌っていた野菜が、グッと私に近づいてそっと抱きしめてくれた。そんな風に感じた。野菜は、かけがえのないもの。これは、私が知っていて、頭の奥の方へと押し込んでいた、基本的なこと。
 日常に溢れすぎた食べ物の中で、飽食の毎日の中で、私はわがままを言っていた。野菜は要らない。サラダは食べない。美味しくない。でも、それらはまるで違った。野菜は、サラダは真に私の友である。これを、今気づいた。もう遅いかもしれない。でも、まだ会話のチャンスはある。改善の余地はある。長い人生において野菜は、サラダは不可欠だ。

〝Whole food. それは、すでに生き方だ。〟

 このことを先の宣伝で知った。
 全体を食べる。食を考える。未来を考える。
 『ON THE EARTH&』
 だから、私はちゃんと食べることを心がけていきたい。
 そばにはキューピーマヨネーズのドレッシングでも置いて。


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