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民主主義と選挙制度


 現代の国際社会において、選挙制度の有無は民主主義国家か否かを判断する上で最も重要な指標の一つとなっている。

 しかし、本当に選挙制=民主主義なのだろうか。
 選挙制においては、選挙において多様な主張に基づく議論がなされた後、多くの支持を集めた政策が実現される「多数決の原理」が非常に重視されている。しかしながら、多数決だからといって、少数意見を完全に切り捨ててしまってよいということにはならない。少数意見であるからといって、その意見が間違っていたり、価値がなかったりするわけではないからだ。また、個別の政策論点において異なる意見が主張された際の意思決定の在り方としては、多数派の意見を丸のみすることよりも、議論を経て何かしらの妥協点を見出すことの方が、有権者の意思を反映しており、民主主義によりふさわしいとも思われる。私は、選挙制は、この「少数意見の尊重」という民主主義の大原則をクリアできていないように思えてならない。

 そうした観点でいえば、私は現代社会において相手を「論破」することが個人の知性を評価する基準として用いられていることにも強く危機感を抱く。そうした傾向はネット上のみならず、政治家たちの間でも頻繁に見られる。保守主義の父と呼ばれるエドマンド・バークは、『フランス革命の省察』の中でフランス革命を痛烈に批判し、人間の理性には限界があるため、歴史の叡智や他者の意見に重きをおいて進められる漸進的改革を行うべきだと主張した。しかし現代においては「保守」を自称する政治家や学者の中にも、復古主義的で他者の意見を聞き入れず、国会では野次を飛ばし、議論を行わず勝手な憲法解釈を閣議決定で通し、自分の主張こそが絶対だと信じる者が少なくない。「天皇主義者」で「大東亜戦争を肯定」し、「愛国心」を抱き「戦前回帰を目指す」ことが保守ではない。むしろ急進的で自らの理性を過剰に信じるという点においては、彼らが憎む「左翼思想」とそう大差ない。当然自由こそがすべてと考えるリバタリアンたち(左翼思想の最たるもの)にも私は賛同できかねる。本来の意味での「保守」や「リベラル」が自らの急進的イデオロギーの隠れ蓑として使われ、寛容という言葉がどんどん失われつつある現代社会こそ、独裁国家と同じく、民主主義の最も憎むべき敵なのではないだろうか。

 さらに言えば、選挙制は「多数決の原理」すらも危うくしてしまう恐れがある。現在日本で大きな問題となっている旧統一教会の問題などがその一例だ。もし仮に選挙で票を取るために政治家が宗教団体や大企業と癒着し、不正を行えば、「多数決」が国民の意見を反映しているという大前提が崩れ去ってしまう。さらにその不正を暴く役を担う検察内部の検事長の任期伸ばしまでもが行われてしまっては、選挙が本当に透明なものなのか怪しくなる。立法権と行政権が分立していないことも大きな問題だ。挙句選挙の公約に掲げていたことを当選した途端になかったことにされてしまっては選挙制度など何の意味もなさない。日本だけではない、世界中で選挙についての問題は多発している。

また、できるだけ多くの票を集めるために、人気取りの政策を多く打ち出すようになれば、ポピュリズムに陥る危険性がある。例えばアメリカでは1950年代のマッカーシズム(第二次世界大戦後の冷戦初期、にかけて行われた赤狩り運動)や 2017年のトランプ政権(白人優遇、自国第一主義)、アルゼンチンのペロン政権などがポピュリズムの代表的な例だろう。オルテガは『大衆の反逆』の中で「熱狂」について警告する。世論調査が有名人や人気政治家の一言で全く真逆の結果に変わるように、確たる意見を持たない大衆の集まりがいずれ民主主義というシステムを揺るがすことにもなりかねない。一方で知性のある市民と愚かな大衆という分け方をすること自体に対して疑問を呈したい気持ちもある。選挙だけが政治の場ではない。「愚かで導かれなければならない大衆」の中にも彼らなりのやり方でしたたかに自分たちの生活に向き合うひとびとがいる。そうした人々の営みに目を向けず、自らの知性をひけらかすような知識人たちの態度は傲慢であり、そうした人々もまた、自らの理性を過剰に信じる理想主義者でしかない。

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