チェコ小話 vol.1 「光らないボタン」

 見知らぬ土地で見知らぬ人たちと暮らしていると面白いことが頻繁に起こります。記憶の隅でほこりをかぶせておくにはもったいない、かといって大した話でもない。そんな行き場のない「小話」をお伝えしたいと思います。

 チェコの普通電車には日本のバスのように停車ボタンがあります。ボタンを押すとボタンが光り、車内アナウンスが流れ、電車が駅に停車する仕組みです。そのボタンを押さなくても基本は停車してくれるのですが、小さい駅はボタンを押さないとスルーされます。私が住んでいるのはまさにその小さな駅の近くにあり、通学にもその駅を利用しなければなりません。
 
 ある日、いつものように電車を降りようと停車ボタンを押しました。しかし、いつもは光るはずのボタンがなぜかその時は光らなかったのです。不思議に思って何度も繰り返し押していると、近くにいた老婦人が、チェコ語で「光らなくても止まるのよ」と教えてくれました。なんだ、押すだけでいいのか。笑顔で会釈をして、無事に電車が止まり、家にたどり着くことができました。

 それから数週間がたったのち、またいつものように停車ボタンを押すと、ボタンが光りません。しかし私も学習しています。「電車のボタンは光らなくても止まるんだ」と。そのまま席につき、後は着くのを待つだけ。のはずだったのですが、しばらくしてどうやら様子がおかしいなと気づきます。駅が近づいているはずなのに全く電車のスピードが落ちないのです。これはもしやと思い、ボタンを連打していると、またも近くのおじいさんが「ボタンは光らないこともあるんだよ」と言ってきました。やっぱり勘違いかなと思い、会釈をして着席。ガタンゴトン。電車が駅に近づき、何の遠慮もなく全速力で駅をすっ飛ばしていきました。やってしまった。焦りました。まあ焦りました。ぱっと見るとさすがに気まずかったのか、おじいさんは狸寝入りを決め込んでいます。そして以前ご紹介した通り、チェコの電車では、車内で車掌さんのチケットチェックがあり、きちんと用意していないと罰金を払う羽目になってしまうのですが、なんとこのタイミングで運悪く前から車掌さんがやってくるのです。もちろん私が持っているチケットはすでに無効。電車が次の駅に着くのが早いのか、車掌さんが来るのが早いのか。車掌さんが先なら罰金の上に大目玉。しかも言葉はチェコ語。体は冷や汗でびちゃびちゃになっていました。ガタンゴトン。カツカツ。ガタンゴトン。ドブリーデン(チェコ語でこんにちは)私の1つ前の席まで車掌さんが迫ってきたその時、キキ―。電車が停車しました。何とか間に合った。ほっと胸をなでおろしたその瞬間、肩をポンとたたかれ、振り返ると車掌さんが一言。「ドブリーデン!」私はこれほど恐ろしいこんにちは、を後にも先にも聞いたことはありません。

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