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千々布敏弥『先生たちのリフレクション』を読んで考えたことについて

 千々布先生といえば、怖かった先輩ですら恐れていた「めっちゃ怖い人」というイメージがある。何が怖いのかは、よくわからなかったのだけれど。

 そのせいもあってか、自分は本書を読んでいると、なんとなく「ずっと叱られている」気分になる。それは多分、一つ一つの言葉が鋭いからだろう。また、著者自身が述べているように、全国津々浦々の研究会などで、同じようなことを何度も聞かれたり、目にしたりしているから、問題意識(怒り?)も高いのだと思われる。
 では、著者は何を問題視しているのか?その怒り(?)の矛先は、現場の教師と、都道府県の教育センターの指導主事のそれぞれに向けられているように感じた。自分は現場の教師なので、この点についてのみ触れたい。
 ちなみに、タイトルに挙げた本について触れているのは最初だけで、あとはそこから派生して考えたことになっているので悪しからず。


「信念」にとらわれた教師

 「どうしたらいいんでしょうか」「教えてください」と聞いてくる教師に、辟易している様子が伝わってくる。よくいるマニュアル求める教師もこれに含まれる。筆者はそのことについて、「こうせねばならない」という「信念」にとらわれているのだと指摘する。具体的には、次のような信念を挙げている。

●教師は学習内容を、子どもの能力差に配慮して学級集団全体が向上するように指導する必要がある
●子どもに対しては学習方法まで含めて、教師がきちんと指導しないといけない
●教師は常に子どもに規律ある行動をさせる必要がある
●学習成績の不審な子どもの指導はやっかいだ
●年間の授業の進め方の大枠は、指導書を参考にすべきだ

千々布敏弥『先生たちのリフレクション』(2021)教育開発研究所(P17)

本書の主張と致命的欠陥

 このような「信念」を持っていると、いくら言っても、何を言っても教師はなかなか変わらない(本人が変えようと思わないと変わらない)という認識が、筆者の根底にある。そして、それらの信念は、教師自身の「リフレクション」によって、変化していくという主張だと理解した。
 なお、肝心の「リフレクション」については他者(バンマネン)の理論をなぞっているだけな上に、どのようなリフレクションによって、先生がどのように変わったのかという具体的な事例がないために、「よーし、今日からオレもリフレクションしてみよ!」という意欲をまったく喚起できていないという点が、本書の致命的欠陥ではないかと思う。ただ、リフレクションが必要だという点は理解できるので、リフレクションについては別に勉強しなおしたい。

「自分たちのことば」を失った教師たち

 さて、千々布先生によって、血祭りにあげられている「教えてください」教師について、石井英真先生も『授業づくりの深め方』で、その問題点を指摘している。


(3)自分たちの実践を語る自分たちの言葉を持つことの意味とは
 専門職としての教師の力量形成を考えるとき、教師自身が、自分たちの授業の構想・実施・省察のプロセスを語る自前の言葉と論理(現場の教育学)を生成・共有していくのを促進することが重要です。こうして(中略)授業の標準化・形式化を回避し、教師集団の自立性を確立していくことにつながるのです。
 ところが近年、実践的指導力重視の教員養成改革が展開する中、それが即戦力重視へと矮小化され、実務家として実践できること(コンピテンシー)、あるいは教育公務員としての組織人的な責任感や態度(まじめさ)が過度に強調されているように思われます。一方で、目の前の子供たちに誠実に向き合い、教師としての公共的使命や理想とする教育のイメージや実践の方向性を内的に熟考し、社会や人間や子供や教育に関する観や思想を深めていく学びの機会が、養成段階でも現職研修の段階でも空洞化しているように思われます。そうして今や教師たちは、教育の理念や方向性を、自らの実践の意味を、学習指導要領などからの借り物の言葉でしか語れなくなってしまってはいないでしょうか。

石井英真『授業づくりの深め方』(2020)ミネルヴァ書房(P309~310)

 このことに関連して思い出したのは、先日の勉強会で出会った、ある退職した先生のことだ。持ち込まれた膨大な量の実践記録を読ませていただいた瞬間、数十年前の教室の出来事のはずなのに、子どもたちの姿が次々と目の前に浮かび上がってきた
 その圧倒的な言葉。見取り。そして何より「この子たちを何とか育てたい」という愛情。「これを読んだら、自分も何かせずにはいられない」という思いに突き動かされたことを思い出した。
 残念ながら、今の現場に、(勤務校だけかもしれないが)そのような熱い「ことば」をもった「職人教師」はほとんど存在しない。いるのは、「労働者としての教師」だ。

先生たちの事情―研究者の盲点―

 一人の現場に立つ教師として、かつて「職人教師」たちが連綿とつないできた教育実践の文化は、この10年で途絶えたと感じている(少なくとも、自分の地域では)。だから、いくら文科省や研究者たちが「現場で工夫していいんだよ!」「学校、教師の裁量だよ!」「手法にとらわれないで!」「授業改善!」と叫んだところで、もはやそれを受け取って喜ぶ教師は少数派だ。

 目の前にいる35人の子どもたちの中には、朝から泣きわめいて学校に行きたくないと叫ぶ子もいれば、授業についていけなくて、ずっとおしゃべりや手いたずらをしている子もいる。休み時間に友達とけんかをして、教室に戻ってこない子。酷いときには校地外に飛び出しているから、捜索隊を派遣しなければならない。放課後に「友達とゲームでトラブルになった!」と保護者から電話がかかってくれば、すべての仕事が吹っ飛ぶ。

 そのような中では、どんな教育改革も、「上から降りてくるもの」であり、「やらされ仕事」と化しつつある…。それならいっそ、怒られたりやり直したりするのも面倒だし、「教えてください」と最適解を聞くのがコスパもいい。めんどくさい保護者からクレームが入っても、少なくとも授業については「今、国としてこういう方向性なんで」と言い訳も付く。だから私は、千々布先生が述べた「教師の信念」を、「先生たちの事情」という言葉に読み替えることにした。

 千々布先生も、石井先生も、そういった事情を(知ってはいても)理解できていないから、「ああしろ」「こうしろ」と、「やること」を増やそうとしている。それはまた、ある意味では「研究者たちの事情」なのかもしれないが…。

変わりたくても変われない先生のこと

 「先生たちの事情」に関連して、あともう1冊触れておきたい。一大ムーブメントとなった、川上康則先生の『教室マルトリートメント』に、こんな先生が登場する。


私が講演会の講師として出向いた時のことです。終了後に、個人的に相談をしたいという先生から声をかけられました。その先生は特別支援学級の担任をなさっており、受けもちの子どもから毎日のように「バカ!」「死ね!」と言われてきたとのことでした。それでも一生懸命こらえてきたのだけれど、ある日、ついに耐え切れなくなり、「爆発」して一気に強い圧をかける指導に転じるようになってしまった、と打ち明けてくれました。
「いけないと分かっているんです。私を見ると、子どもの目が怯えているのが分かるから。だけど、言われっぱなしでスッキリしないじぶんもいます」
(中略)その表情からは、なんとか救いを得たいというような悲壮感すら感じられました。私が、
「先生、今日はわざわざ参加してくださりありがとうございます。会が終わった後に、こうやって相談に来られたということは、本当は『自分のことを変えたい』と思っているということですよね」
と、伝えると、その先生は声を上げて「うわーっ」と涙を流されました。
「変わりたいけれど、変われない。でも変わりたいと思っている気持ちもある」。こうしたアンビバレント(両価性)な状態に陥った時、SOSやヘルプを出せる場が教師にも必要です。

川上康則『教室マルトリートメント』(2022)東洋館出版社(P259~260)

 初めて読んだときに、衝撃が走った部分だ。「変わりたいけれど、変われない。でも変わりたいと思っている気持ちもある」こんな先生もいるのか、と。

 先生たちは、「不安」という事情を抱えていると言っていいと思う。私は、そのことに気が付くのにずいぶんと時間がかかった。

 児童・生徒指導はもちろん、保護者対応もそうだし、授業なんてもっとそうだ。そんな不安を抱えながら「学び続ける教師」として、授業を改善し、変化し続けることが求められている。分かっては、いる。でも、できない。そんな先生が今はいっぱいいるのではないかと思う。

じゃあ、どうする

 本当は、がっつり教材研究をしていきたい。どんどん授業研究をして、互いを磨きあっていきたい。教師になったからには、授業にこそ時間をかけるべきだ。子どもたちや先生たちとともに、自分も成長し続けたい!そう思って十数年。私が目の当たりにしてきたのは「自分たちのことば」を失い、「学びから逃走する」先生たちだった。だから、今の先生たちに必要なことは、高い理想を掲げた校内研究でもなく、リフレクションでもないのだと思う。
 もっと先生たちのことをしっかり見ることから始めたい。正直、自分の仕事で手いっぱいになりがちだけれども、「朝早いね」とか「よくやっているね」とか、先生たちのいいところを見つけて褒めて、そして不安には寄り添って、時には代弁者となっていくことが必要なんだと感じている。

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