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ソロモンの72柱悪魔召喚のやり方。蜜猫的考察。

こちらは悪魔印章を使った召喚魔術のやり方説明書。かの有名な魔術書「ソロモンの小鍵(ゲーティア)」に記載されている、悪魔印章を使用した儀式である。何度もこの儀式を行っている蜜猫の考察を踏まえながら記したい。

先立って悪魔召喚の特徴を述べておくと、「目に見えないもの(霊体)や楽器隊(音)や異臭をとにかくイメージする魔術で、実際に悪魔が降りて来たりましてや憑依するものではない」という点だ。
召喚魔術と言えば、悪魔、天使、精霊など様々な目に見えないものを対象にできるが、それらは「実際にいるかどうかは関係なく」、術者の脳内にて構築されるイメージの産物で成り立っている。ゆえに効果範囲は術者自身の脳内(意識変容)であり、「高度な思い込ませ=イメージ」に頼ることになる。想像力・妄想力が必要な魔術だ。
(そういった理由から「天使がいるよ」とか「あなたに悪魔が憑いているわ」という認識は魔術理論としてはあり得ない。見えると主張する意味もないことである。)

イメージに頼るばかりでは少々強引なため、儀式日を限定したり、悪魔の印章(シジル)を使って視覚化したり、悪魔の能力に危険値があったりとリスクが設定されている。リスクが高い分(いつでもできない分)、必死だからやるわけで、ゆえに脳へかけるストレスと意識が高くなる。

なお、召喚魔術は、厳密には「召喚魔術」と「喚起魔術」に分かれる。
・召喚魔術は外部のエネルギーを自分の中に取り込む術(invoke)
・喚起魔術は外部のエネルギーを特定の場所に呼ぶ術(envoke)
悪魔を呼び出す場合は喚起魔術に分類される(後述する)。しかしここでは「悪魔召喚」というわかりやすい単語で説明する。


蜜猫の考察

召喚魔術の成功率を上げる方法としては、祈祷文を正しく読んだり所作を正確にするということよりも「悪魔に対して謙虚な態度で接し命令する」ことだ。
例えばトランスに入っていて、視覚化する時、相当な労力をかけている。正直、わたしでも祈祷文を正しく読んでいるかわからないくらい、意識が朦朧としているのだ。ついでに空腹で手が震えるし。そのくらいの方が意識と無意識の狭間にいるわけで、願いを落とし込みやすい。
もちろんこれは他の魔術でも言えることだが、スマホ片手に祈祷文を読んで構わない。だが間違えたからといって問題ない。

それよりも大事なことは、「悪魔と接する態度」。術者が謙虚であり尊厳に値する存在でなければ悪魔は力を貸さないだろう。感情的になったり、懇願や請願をすれば悪魔はそこにつけこんでくる。これは懇願ではない。惑星護符は感情的請願に近いが、悪魔召喚は理論的なミーティングに近い。終始冷静でいながらトランスを保たなければならない。

わたしはロノウェを召喚することが多いのだが、この悪魔とは親しすぎず、離れすぎず、といった一定の距離を保つように心掛けている。召使のようなものだと考えているが、悪魔は力ある者にしか仕えないというので、わたしも旧約聖書でいうところの「聖」と「義」であるように常に戒めている。

蜜猫が思う、歴史的背景

ところでなぜ悪魔召喚は「命令」であるのかと疑問に思う。原書の英語を見るに結構な命令口調で、「悪魔であっても霊なのに、命令で果たしていいのだろうか?」と思ってしまうのだ。

これは当時の自然信仰(土着信仰)を制圧したユダヤ教(そののちキリスト教の禁欲主義)的思想によるものだと思われる。金枝篇で言うところのバアル神やアドニス神が悪魔に成り下がった概念だ。ユダヤ・キリストから見ればこれらは異教の神=悪魔であるが、正直、ユダヤ・キリスト教ではない人から見れば「霊」以外の何者でもない。
当時の術者は異教の神に対して「命令」して従わせていたが、わたしの場合は根幹に自然崇拝があるので、これら異教の神(悪魔)に命令していいのだろうかとも戸惑う。

実際にこの思想の違いによって、ソロモン魔術系統でも「命令系の伝統派」と「友好系の近代派」といった流派に分かれるらしい。命令するか友好的に願いを伝えるかの違いはあるが、悪魔は「霊(spirit)」であるから、どちらも「悪魔に対して謙虚な態度で接する」ことに変わりはない。
伝統派は原書のように「神の名を借りて悪魔に命令する」スタイルだ。対して近代派は対等に接するスタイルなのだが、あまりにも自由すぎて、魔法円すらない時もあり、魔術的(脳科学的)に視覚化できているのか曖昧な表記も見受けられるため、わたしは以下のように考えた。

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