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わたしはこたえをみつけたくない。

わたしはこたえをみつけたくない。

そう思う自分を認めてしまった。これはわたしの中にある根本概念なのだろう。

わたしは答えを見つけたくないし、知らされたくないし、与えられたくもない。

たとえば、物理学の本を読んでいる。これがまったく理解できない。考え方は理解できるけど、どうしてそうなる?と思ってしまう。どうして三平方の定理がでてくる?となった時、きっとこれは物理学の世界の法と秩序からそういうふうに考えなければならないのだな、と思った。

わたしはこうした思いを子供の時から抱えていた。

数学では、どうして数字にゼロをかけるとナイモノになるのか理解できなかった。式は理解できる。でもナイモノをマイナスで考えることも、ナイモノをアルモノで考えることもわからない。わたしの世界では、ないものはないし、あっても目に見えないものもあるが、数値化できない。きっとこれは数学の世界の法と秩序。

美術も習字も音楽も体育も。どうして自由にやらせてくれないのか。わたしは自由に描きたい。自由に綴りたい。自由に弾きたいし踊りたいだけなのに、自由にやると不真面目だと言われた。きっとこれはその世界の法と秩序。

これを強制されると授業は退屈で、美術も習字も音楽もスポーツも大嫌いになる。
わたしが好きなのはその世界の法と秩序ではないし、わたしはそこで生きてない。
みんながだいじにする世界に生きてないのなら、比べる必要もないよね。そもそも単位が違うのだから比べられない。

スカートが短いだの、髪の色やファッションまで。法と秩序の中にいた方がみんな安全安心。
好きでもない制服を着せられて、ジャガイモみたいに並べて、どこから芽が出るかと、誰から買われるのか叩き売りされるのかと、そういうのにうんざりしてた。

比べたり競ったりしないのなら、自己責任で自由にやっていいよね。意味がわからない世界で曖昧に生きるより、自分が納得したいよね。

でもそれはこたえなんてない。
わたしが表現したいこと。わたしの気持ち。わたしのいのちや原初の渦巻きのエネルギーが流出する、これを表現したいのだけど。どうやらこたえはないらしい。

こたえがないなら、正解もない。
ただしさがないなら、わるさもない。
先生曰く、ただエネルギーの流れに逆らわず、外へ出す道を上方向に整えてやるだけで、コントロールしなくてもいい。

つまり誰かが整えた道には疑問が浮かぶし、自分が堕落してたら地下の地下に落ちる。
バランスがだいじ。それならわたしは、逆らわず、我慢せず、素直に、泳ぐように、生きていたい。

先生曰く、ひとが水を離れてから法と秩序が新たになって、空気を得てから他人を気にしてもがく。泳げば楽なのに、水もないのに溺れる。と。

こたえがないことを理解しているのではなくて、わたしはこたえをみつけたくない。
先生曰く、こたえは法と秩序に支配されるから、こたえが見つかった時それは、自分が何かに支配され、あるいは快楽に溺れている時かもしれない。と。

そしてこたえをみつけたくないわたしは、深い深い湖の底で溶けてしまいたい。泡になって消える人魚とか、山に響く唄経のように、自分より大きなものと結合したいのだ。

先生曰く、だからこたえをみつけたくて霊の世界にきても、こたえはない。こたえがないということを理解するために結合するのだ。と。

これはわたしの気付きと、わたしの猫先生が教えてくれたこと。

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