マンガに現実の音楽が引用されるとなんか嬉しいよねって記事③

不定期連載の第3回です。記事のポリシーについては第1回をご参照ください。



ひとつ前の記事はこちら。



例によって前置きなしでどんどんいきます。





⑦W.A.Mozart / 『Exsultate Jubilate K.165』



引用先の作品



講談社、沙村広明
『シスタージェネレーター 沙村広明短編集』より


作品解説


『無限の住人』の作者の短編集。


この作者は『ブラッドハーレーの馬車』みたいな残酷系歴史モノと、『おともだち』『ハルシオン・ランチ』『波よ聞いてくれ』に代表される、サブカルへの清濁併せ呑んだキレッキレな台詞回しで引っ張る現代劇を得意球にしています。


要素としては相反するため一作中でそれらを全て堪能するのは困難ですが、本作は短編集ゆえ両方のつまみ食いが手軽にできるので、入門編としておすすめの一冊です。単純に内容のアベレージも高いし。


あと本作に限らず、この作者は結構な頻度でホクロの位置が特徴的な女性を登場させるのも特徴。やっぱフェチなんかな?



引用箇所の考察



同上、P48より


SMを題材にした短編、『久誓院家最大のショウ』のクライマックスにて、主人公が死にゆく父親に座りながら自宅のピアノで弾いていた曲。クラシックゆえ演者によって解釈が色々異なるものの、そういう音のニュアンス部分は今回の引用にて特段重要じゃなさそうなので、リンク先は完全な好みでキャスリーン・バトルにしました。特撮好きとして実相寺昭雄関連はやっぱ外せないです。


リンクを貼ったとおり本来は管弦楽なんですが、ピアノアレンジもあるため、多分そっちを弾いてたんだと思います。ムズそうだけど。


この状況に至る経緯として、名家の放蕩娘だったドSの母親にドMな父親が心奪われる→駆け落ちを試みるも失敗→離れの家に住むことを条件に結婚が許される→蜜月の果てに主人公誕生→母親が早逝し父子家庭に、という家族背景があり、父親は亡き妻の面影を主人公に重ね、自分を虐めているコラ動画を甲斐甲斐しく作り続けて欲求を満たす日々を送っていたんですが、自身も病を患い余命幾ばくもない状態となります。


父親は自分と妻の性的嗜好や、病気のことを最後まで主人公に伝えないまま逝くつもりでいたんですが(その理由については作中だとあえてボカされていますが、Mの人間が欲しいのは蔑みであって憐れみではないからだと個人的には解釈しています)、父親のことを慕う訪問看護師によって主人公も全てを知ることとなり、父親の本当の望みを最後に叶えるため、主人公はコラ動画の内容を実際にプレイとして父親に施すことにします。母親そっくりな自分が跡継ぎに…という構図は少しだけ歌舞伎町の女王とも似ていますね。


そんな文脈のもと、父親が天に召される場面において讃美歌でもあるこの曲の歌詞が1ページに渡って引用されている以上、今回はシンプルに父親の満たされた心情の代弁、として解釈するのが妥当かと思われます。画面上にない情報を音楽で補完、という意味では映画のBGM的とも言えますが、マンガは音がない都合上歌詞のある曲じゃないとこの演出が成立しない代わり、フルで流さず欲しいとこだけ切り貼りしても違和感がなく、むしろ一番大事な箇所をより強調して伝えられる、という特徴があります。今回の場合だと『思いがけぬ静安の時』→『聖処女』の歌詞が正にそうで、心情の代弁には外せない箇所にも関わらず、実際曲を流すとしたら間奏込みで2分ぐらい聴かなきゃダメなんですが、マンガならたった2コマで完了。省エネ。


あとSMって現在はオタク的な文脈と結びついて表現や価値観が多様化していますが、本来はサドとマゾッホみたいな貴族の嗜みを起源にしているので、教養必須なクラシック音楽とはそもそも親和性が高いんですよね。この短編はSMに関してはそういうオールドスクールな価値観を踏襲しているので、思想の出典を明確にするために引用はポップスじゃなくてクラシック、その中で歌詞の意味合いが場面とマッチしてるものを選んだ、というのもありえそうです。


ちなみにこの曲を作ったモーツァルトも大概な奇人として有名ですが、それはさすがに今回の引用と関係ないかな…。



⑧矢野顕子 / 『終りの季節』



引用先の作品



イースト・プレス、黒田硫黄
『黒船』より


作品解説


有名どころ。発表作を片っ端から収録した2冊目の短編集。


ノンジャンル過ぎて解説は正直難しいですが、傾向としては賢い女子・ヘタレ男子・正しい年の取り方をした大人という文系御用達ハッピーセットを登場人物に据えた上で、アイデアと画力と教養の暴力を押し付ける、というのが大まかな作風。つまり最強ってことです。


ヘタレ男子以外の要素は宮崎駿とも通じるところがあって、実際にスタジオジブリで映像化された作品もあります。体調不良の時期もあってか最近は寡作ぎみだけど、仕事を選んではなさそうだし、基本なに書いても面白い人なので、創作し続けてくれてさえいればそれで十分。



引用箇所の考察



同上、P40より


収録作のなかでは少し長めの短編、『わたしのせんせい』の一場面。


主人公は不法投棄されまくりなゴミ山付き田舎の町長候補の娘で、通っている高校の先生と恋愛関係にあるんですが、先生は月日が経つにつれて元来の日和見主義が加速し、『別れたくないけどこのままじゃな…』という煮え切らない態度をとり、主人公をイライラさせます。


そこへダイオキシンを集めて他の惑星へ販売して回る宇宙人が飛来し、先生はそいつらに拉致された上で改造を受け、ゴミ処理場誘致という政策をかかげた主人公の父親を町長にすべく(ダイオキシンのもとであるゴミが集まるので宇宙人的に都合がいい)、現町長を殺害するためのテロ行為をはじめ、宇宙人の尖兵としての活動をするようになります。


先生は最初主人公を巻き込みたくないゆえに一切の説明をしなかったんですが、結局は主人公をゴミ山へ呼び出して真実を伝え、その上できっぱりと関係を終わりにしたいと告げます。


主人公も唐突なことなのであれこれ気持ちをぶつけつつ反対しますが、全て『おれとお前はもう違う』『お前はまだ若い』といって突っぱねられ、結局先生の考えを変えるには至らず、雨の中自転車を飛ばして家に帰ります。その道中で歌っていたのが今回の曲。


そんな経緯から今回の引用も先ほどのモーツァルト同様、主人公の心情の代弁として機能しているのは明らかなんですが、やり方にちょっと捻りが加えられているので、その辺をもう少し掘り下げていきます。


まず今回の曲ですが、意訳すると『恋人との別れは寂しいけど、天気(=運命のようなもの)は自分に優しいし、きっと悪いものじゃなかったのかな』と自分のなかで納得に至るまでの歌詞になります。で、1番は別れの当日、2番はそこからしばらく経って当時を思い出す、という構成になっています。


その上で今回の引用箇所ですが、別れ話の直後である以上1番の歌詞の方がより適切なはずなのに、主人公が歌ってるのって2番の方なんですよね。加えて雨が降ってるにも関わらず、曲においては救いを表す朝焼け(晴れ)についてのサビをわざわざ歌っています。


これらの情報から、主人公は今回の別れ話に全く納得がいっておらず、嫌なことを早く忘れて思い出にしてしまいたいという心理と(だから歌ってるのは2番)、拒絶された自分の感情を誰かに肯定して欲しいという気持ち(だから雨なのに朝焼け)をそれぞれ歌に込めてるんじゃないかな、と思います。だけど実際にはどっちもその場で起こり得ないし、救われる気持ちになんてなりっこないのも同時に主人公は分かってるんですよね。だからサビの最後までは絶対に歌わない。


あとサビの『もえている』の部分は納得していない自分の気持ちの燻りともかかっていて、数日後主人公はそれらの感情を昇華させるため、酔った勢いでゴミ山に火をつけ、宇宙人の手助けをして先生と一緒に連れていってもらおうとします。同じシチュエーションでの雨と火の対比も踏まえ、そんなクライマックスに向けての前フリとしての役割も今回の曲は担っている気がします。


そして画像は今回貼っていませんが、この曲は全てが終わって完全に先生と別れたのち、ラストシーンで主人公によって

6時発の 貨物列車が
窓の彼方で ガタゴト

『終りの季節』作詞作曲:細野晴臣


と、1番のこの箇所だけもう一度口ずさまれています。


ここは歌詞の上では


・いつも同じ時間に聞ける音=恋人との日常の象徴

・走っていく電車=ここから去ることが確定していて止められない


という暗喩で、これを歌う主人公のなかでようやく先生との別れが納得のフェーズに入った、という表現になっています。あとは歌う直前に空を見上げているので、先生を連れていった宇宙人の船(=自分ではどうにもならないもの)と貨物列車を重ねて、ちょっとだけ無常感を覚えたりもしてそう。


ちなみにこの短編はダイオキシン問題に着想を得て99年に書かれたもので、作中に流れる時間もおそらくそれとリアルタイムだと思われ(アンゴルモアの年だから宇宙人はそれの暗喩だったりもしそう)、そうなると今回の曲はだいぶ懐メロの部類になります。


女子高生が平然と歌うのちょっと違和感ない?という気もしますが、この主人公は父親が町長候補になるなどそこそこ裕福な家庭で、学校でも授業中に平然と先生へ花を渡したりしちゃう女子なので、そういう基礎教養の高さや浮世離れさ、教師を恋愛対象にとれる大人っぽさを表すためのツールだと考えれば、まあアリかな、と。


蛇足ですがこの曲は実はカバーで、オリジナルは細野晴臣の1973年のアルバム『HOSONO HOUSE』に収録されています。さすがにそれだと昔過ぎるから84年発表の矢野顕子にしたのかな?と読んだ当時は思ってたんですが、数年前にブックオフで黒田硫黄特集のクイックジャパンを見つけて立ち読んだところ、単純に作者が矢野顕子バージョンしか聴いたことがないからだということが判明しました。マジか。




⑨センチメンタル・バス / 『Sunny Day Sunday』





引用先の作品


講談社、ひぐちアサ
『おおきく振りかぶって』
アフタヌーンKC第15巻より


作品解説


超有名どころ。

『神は細部に宿る』を実践してる作者で、全キャラクターに詳細な生育歴を設定したのち、それに基づくパーソナリティーのぶつかり合いや、日常に発生する小ネタの集積で話をすすめる、というのが基本の作風。


一応高校で弱小運動部の端くれだった人間として、現実の部活ってもうちょいドロドロしてね?というツッコミを入れられなくもないですが、人の心情の機微や移り変わりの過程はかなり解像度が高くて、こちらも大人になってそれなりに経験を積んでくなか、突発的に思い出しては遡って共感する描写がすごく多いマンガでもあります。


ただ細部にこだわり過ぎて展開が遅いのは割と無視できない点で、読み始めたころは同じ高校生だったはずが、主人公が1学年進学する間にこっちは就職して子供まで生まれてんの、遅いの通り越してもはやホラーだと思うんですよね。うちの子が高校進学するまでにはさすがに終わってて欲しい…。


引用箇所の考察



同上、P173より


練習中に部員が縄跳びしながら歌ってた曲。これについては単純明快で、作者が取材した高校の部活で実際にこういう練習をしてたんだと思います。だから引用というかドキュメンタリーですね。


曲がこれだったかどうかはわかりませんが、この練習における歌の目的は声出しとリズム取りと団結なので、別に他の応援ソングイディオムに置き換えたとしても成立すると思います。『夏祭り』とか『紅』とか。いや紅は速すぎてムズいか…。


ドキュメンタリーに考察もクソもないので感想に終始しますが、この曲は自分が高校生の頃にはもう応援ソングのレパートリー入りしていて(実際使った)、今回の引用時点(2008年)でもまだ現役、令和になった今でも時々TVごしに応援席からの演奏を耳にしたりと、1999年の初出にも関わらずかなり息の長い愛され方をしてる印象です(それでもこの界隈のなかでは比較的新しめの曲)。


高校球児応援ソングにはブラバンという次世代継承を前提にした最強システムと、甲子園大会のTV中継という約束された露出機会が内蔵されているため、流行歌が忘れられずに生き残っていける理想の天下り先だと思うんですが、今ある曲たちがいつ頃レパートリー入りしたのか、レパートリーは全部で何曲あるのか、どういった曲がレパートリー入りしやすいのかといった点は、陰キャの自分にはあまり明るくない分野なので、有識者にいろいろ質問してみたいところです。





⑦⑧が気付いたら長文になっちゃってたので、⑨を急遽短く語れそうなやつに替えてバランスをとりました。前回あっさりめにするって予告したのに…。


次が最終回なんですが、在庫処分で数を多めにするのと、今回語れなかったちょいボリューミーなやつがスライドしてるので、文字数は結構多くなると思います。3月はガチ繁忙期なので、投稿も遅れそう。


あとそろそろこの考察シリーズに対して自分の中で飽きの気持ちが芽生えて来たので、破滅の音が鳴るのを未然に防ぐため、なんか他のテーマをはさんで息抜きするかもしれません。


更新が無事できたら下にリンクを貼ります。
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