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小説・「海のなか」(43)


***


 境内に誰もいないことを悟った時の心情をどう言い表せばいいだろう。虚しかったわけじゃない。悲しかったわけじゃない。ただ、心底がっかりしていた。今日も当然のように夕凪がそこにいると無根拠に信じていた自分自身に。
 俺たちには約束がない。確信もない。すべて分かっていて、それでも毎晩通うと決めたはずなのに。いつの間に期待していたんだろう。夕凪が現れてから、あの場を立ち去るまでの記憶は曖昧だった。彼女がどんな顔をしていたかすら朧げでそれがひどく残念だった。昨日までは夕凪の小さな変化すら逃すまいと、些細なものまで拾い上げていたはずなのに。俺を揺さぶることがどんなに容易いか、夕凪はきっと知らない。表情ひとつ、声ひとつ、身動きひとつで十分だ。俺はそれが嫌ではなかった。今までの夕凪との交流で得た、虚しさの色合いを忘れかけてしまう程度には。だからこそなおさら、近頃浮かれすぎていたと自覚しないわけにはいかなかった。
 今日の夕凪について、俺がはっきりと覚えているのはたった一つだけだ。境内の裏から出てきた時。あの時の表情だけ。夕凪は驚いて、それから焦ったような恥いるような顔をした。あの顔が忘れられない。あんなもの、見ない方が幸せだった。夕凪にとって自分は取るに足りない存在だという思い込みが解けてしまいそうだ。急な上り坂の後には同じく急な下り坂が用意されている。間違いなく叩き落とされるのならば、その前の僅かな浮上に何の意味があるだろう。もしそうなれば、昨日まで身を浸していたはずの生温い幸せすら、手に入れることはできない。そんな恐れにじわじわと侵食されてゆくのを感じていた。結局はくだらない自己保身だった。いつだって邪魔をするのは俺自身だ。傷つきたくなくて、いつもその時を逃してしまう。いい加減少しは変われたかも、と思っていたのに。過大評価だったみたいだ。臆病は死ぬまで治らないらしい。
 耳の奥には夕凪の約束が染みていた。あの約束に振り回されたくはなかった。去り際の態度の大人気なさが急に恥ずかしくなってきて、俺は足を早めた。もっと笑えばよかっただろうか。もっと話せばよかっただろうか。もっと夕凪を見てもよかっただろうか。ーーーそうすれば少しは夕凪の中に俺の居場所はうまれるだろうか。
 いつのまにか誰かに好かれることばかり考えてしまう。これが俺の悪癖だった。彼女は誰のことも好きにならないし嫌いにならない。あらゆる意味で平等なのだ。そんな独りの後ろ姿が昔から羨ましかった。まるで俺の持っていないものを全部手にしているように感じて。そして、持っているものをあっさり捨ててしまいそうな執着のなさにさえも、いつのまにか惹かれていた。
 次の日から、夕凪は境内に座って俺を待っていた。その姿はまるで許しを乞うように見えた。あの日の出来事に対する複雑な心情がそう見せるのか、それとも実際にそうなのか。それは夕凪に尋ねなければわからない。どうせ俺には意図を測ることなどできない。人は見たいようにしか見ないのだから。



小説・「海のなか」(44)へつづく。

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