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小説・「アキラの呪い」(18)

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 目覚めると、白い蛍光灯が縦に伸びているのが見えた。消毒液の匂いが鼻をつき、今自分が何処にいるのか分かった。格子状の白いパネルを嵌め込んだ天井には見覚えがあった。以前入院した病院と同じだ。その光景から失敗を悟った。ーーー無駄なことをした。不要な痛みを経験し、不要な血を流した。それなのに必要な結果は2度目にも関わらず手に入れられなかった。その事実は私を酷く落胆させた。阻まれてしまった、また。いつもそうだった。私の邪魔をするのは歩、あのたった一人の義弟だった。今度こそその繋がりを断てる、と思ったのに。

『あんたのせいよ』

 後悔していた。あんな風に言うつもりはなかった。混濁した意識が言わせた戯言に過ぎなかった。そう言っても心優しいあの男は気にするのだろう。まったく面倒なことこの上なかった。弟が私の死の原因だと思ったことなどなかったのに。私を殺せるものなんて、最初から私しかいなかった。私と他者はいつもそんな関係だった。今回こそは完璧だったはずなのに。遺書も残した。片付けもした。会社への退職願も提出済みだった。引き継ぎも全て終えている。あとは死というピースをはめるだけだった。だが、最後の欠片は未だ手の内にある。完成しないジグソーパズルを眺める時のように心が波立つ。
 苛立つ心とは裏腹に妙に身体は気怠い。血を流しすぎたのかもしれない。やっぱり部屋のことなんか考えずに、翌日以降に歩を呼ぶべきだった、と後悔しながら首だけ動かすと、ベッド脇には見慣れた顔がイスに腰掛け腕を組んで眠っていた。その顔には僅かに色づいた夕日が照りつけている。
 「…歩」
 視線の先で弟はやけに寝苦しそうだった。眩しいからかもしれない。私は無意識のうちに身体を起こし、彼の方へと手を伸ばしていた。手で陰でも作ってやるつもりで。弟は眉間に深く刻まれた皺のせいか、酷く疲れて見えた。ゆらゆらと上下する頭が危なっかしい。その姿を見て、私は全てが無意味なっていくのを感じた。
 ああ。間に合わなかった。
 恐れていた。こんな日が来るのを。この気分を味わうのは実に二度目だったが、繰り返される感情は酷くなるばかりだった。今回は隠し仰そうにもない。不様な姉の本当の姿を。
 「私だって努力したのよ…」
 「ごめん…」
 考えなければならない。
 弟と距離を置く術。弟の人生から己を消す方法を。そうすることでしか、この恐怖からは逃れられないのだから。一番恐ろしいことの兆しが今まさに見えていた。だから、考えねばならない。ーーー全てが台無しになる前に。
 気がつくと、爪を噛んでいた。僅かに滲んだ血を舐め取りながら、答えを出せないままでいた。何かの報いのように、自ら切り裂いた手首が痛んだ。別に構やしなかった。それよりも彼の見る夢が気になった。そのせいで弟の傍をどうしても去ることができなかった。そんなことができるくらいなら、死など選ぶ必要はなかった。悪いのは全て私だった。けれどもし、私の人生に弟がいなかったなら。私は痛みも苦しみも感じることはなかったのかもしれない。
 それでも、いずれにせよ私は自ら死を選んでいただろう。それは確信に近い予想だった。この退屈な世で意味あるものは水無瀬歩だけだ。それは今も昔も変えられないことだった。私は執着しすぎてはいけなかったし、歩は私と関わるべきではなかった。ーーーまして、家族になどなってはいけなかった。彼がいないことは、生きていないのと同じだ。死に臨む度、鮮明になるのはその事実ひとつだけだった。
 「ごめんね、歩」
 逃げろ、というべきだったのに。まだその一言が口から離れない。そのときだった。彼の目が開いたのは。
「姉さん。何に謝ってんの」
 ああ。弟のこの目が怖かった。全て見透かされているようで。清らかで鋭く突き刺す眼差し。彼の前では丸裸にされてしまう。かつてはこの男から逃れようともがいたこともあった。
 「…死ねなかったでしょ。だから」
 大きく息を吸い込み、重ねて言う。
 「今日こそ死ななくちゃならなかった。あんたこそなぜ邪魔をしたの?」
 舞い降りた夜の静けさに耳鳴りがした。弟の目は張り詰めた光を湛え、いまだこちらを見据えている。すると、突然彼の押し殺した哄笑が静寂を乱した。
 「俺は何度そんな言葉を聞かされればいい?」
 大きな両手が彼の顔を覆った。耐えきれないと嘆いている様な姿勢だった。言葉を吐き出す間中も小さな笑い声が口端から漏れ続けていた。それは彼らしくないものだった。誰かを嘲笑うなんて、歩は滅多にしない人間だった。普段の彼は高潔と言っていいほど優しい男だったから。
 「姉さんは知らないんだろ?俺が今どんな気持ちか。助かってよかったって、傍にあんたの気配を感じた瞬間からそんなことばかり考えてたのに…馬鹿みたいだよな?本当に」
 「気が付いてたの…」
 「気が付かないはずがないだろう。なんのために俺がここにいると思ってんのさ」
 また彼はせせら笑うような口調で吐き捨てた。
 「なんのため?また約束でもさせる気なの」
 「いいや。そんなもんもう無意味だろ。自殺なんて絶対にさせない。だから見張ってんだよ」
 そう言い放って彼は足を組み替え座り直した。どんな手を使っても阻止すると言わんばかりの態度だった。
 「そんなに私が死ぬのが嫌?私はそんなに嫌じゃないんだけど」
 「姉に生きていて欲しいって思うのは自然なことだと思うけど?」
 嘲笑の響きはまだ消えない。
 「そう…?私にはそうは思えない」
 「そう言うだろうと思ったよ」
 大きな体を小さな椅子の上で持て余しているような弟の姿を見ながら言った。
 「…入院期間は?」
 「二週間。職場には俺から連絡しといた。スマホ悪いけど勝手に使った。…姉さん、あんた仕事やめたのか?」
 「ああ。まあ。貯金もあるから…なんとかなるでしょ」
 すると歩は、「そういうことじゃないんだけど…」とぼやいた。
 「どれくらい寝てた?」
 「今日で3回目の夜。ほんとしぶといよ。な?姉さん」
 冗談めかして弟は言ったが、その目は微塵も笑ってなどいなかった。頬杖をついて前屈みになると、彼は感情を隠す様に目の端だけでやっと笑って見せた。
 「そう。…歩、頼みがあるんだけど」
 頼み、と言う言葉に反応したのか肩が跳ねるのが見えた。
 「…なに」
 「私の家に行って、服とか色々持ってきて。それから、悪いけど血まみれになった敷物袋に詰めて縛っておいてくれない?賃貸だから汚れると困るのよ」
 「俺が席を外してる間、姉さんが死なないって保証は?」
 「ないわ。でも、死ぬ前にあんたに話さないといけないこともあると思った。まだ生きてることにしたの。だから歩、行ってきて。退院したらあそこで話すことがある」
 すると深いため息が聞こえて
 「わかった。その話、必ず聞かせてもらうからな」
 歩は席を立つと、よろめきながらも振り返らずに出て行った。握られた手が、込めすぎた力に震えているのが見えた。その激しさとは裏腹に病室のドアは音もなく開き、男を送り出した。閉ざされた空間にはまた一糸乱れのない沈黙が降りた。それでも私には、残された感情の跡が漂っているように思えてならなかった。


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