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短編小説・まっくらな男

 喉がゆっくりと締まるような気怠さに身体が支配されていた。今日に限ったことではない。いつだってそうだった。いくら眠ろうと、いくら食べようと、いくら休もうと、いつまでも居座る呪いのような倦怠感。果てのない繰り返しへの飽きが原因だと気がついたのはいつだったか。だが、それを思い出すのすらもはや億劫だった。
 「なあ、それ、いらないならくれよ」
 仕事帰り、コンビニを出てすぐのことだった。不意にそんな声が聞こえてきたのは。最初に見えたのは指先だった。その先はどうやら手にしている食い物に辿り着くようだった。
 「ああ?」
 うめきとともに、眉間に力が入った。誰に言われたところでこんな感じだっただろう。仕事終わりの今ほど独りでいたい時間はなかった。十年前に離婚してからは特にそうだった。睨みつけるように見下ろすと、そこには男が一人しゃがみ込んだまま、こちらを見上げている。笑っているようだ。コンビニから漏れた灯りが顔に複雑な影を落としていた。年の頃は20やそこらだろうか。線の細い顔とは裏腹に、体つきはしっかりしていた。猫目の上には丸く薄い眉が浮かび、こちらを揶揄うようにひくついている。思いの外、しっかりと目が合ったことに動揺し、俺は一歩後ずさった。カツアゲか、と一瞬怯えたが、目の前の表情からは不思議と邪気を感じない。暗い夜の中で青年の明るい髪だけがやけに輝いて見えた。光の残像が目の奥に残り、俺を惑わそうとしていた。
 「だからさ、そのチキンくれよ。どうせ嫌いな味なんだろ?」
 そう言うと、金髪はまた瞳を歪ませて微笑んだ。なぜか心を許してしまうような、愛嬌のある笑顔だった。なんだこいつ。悪態と共に手にした紙袋に目をやった。確かにこの中に入っているフライドチキンは苦手な辛い味だった。ついさっき間違えて買ったばかりで、処分に困っていた。なぜわかったのだろう、と疑問を持ったが面倒になってそれ以上考えるのをやめた。
気がつくと、俺はそいつの方にチキンを放っていた。後ろで「やりぃ」という言葉と共に包装紙を破る音を耳が拾ったが、立ち止まらなかった。もう会うこともないだろう。そう思った途端、なぜか不意に、後ろを振り向きたいような気がした。けれどそれを思案するにはあまりにも疲れすぎていた。


***

 黒の地に紫煙が薄くたなびき、凍った呼気と混ざり合うのをぼんやりと眺めていた。束の間のうっとりする贅沢な空白だった。
 「なあ、俺にも一本くれよ」
 灰皿を挟んで横にいる男にねだると、素っ気ない声が降ってくる。
 「ガキはそれでも食ってろ」
 低く掠れた声は聞き取りづらい。言われて手元を見ると「パリッとチキン」とコミカルな文字が吊り下げられた包装紙の上で揺れている。先程投げて寄越したのを受け取ってそのままにしていたのだった。横目で相手を見ると、また美味そうに煙を吐き出していた。左手につままれたタバコの吸い口はへしゃげている。横にいる中年男には、タバコを噛み潰す悪癖があるらしかった。
 こうして言葉を交わすようになってもう一ヶ月程が経とうとしている。初めは単なる気まぐれだった。明らかに間違って買った食い物を持て余す姿になんとなく声を掛けた。あの時だって、本当はもらえるなんて思っちゃいなかった。なんたって初対面だったわけだし。だからすぐに投げて寄越された時には、驚いてキャッチし損ねるところだった。あの日から奢り奢られの妙な関係は続いている。頻度は大体週一程度。正直あの日は助かった。居候先の友人に突然彼女ができて、友人宅に女が入り浸るようなって以降、俺には身の置き場がない。かといってこうも早々に居場所を変えては先々苦しくなるのは目に見えていた。だから女と友人が寝静まる深夜になるまでなにをするでもなく暇を潰していた。行く場所も帰る場所もなくコンビニ前で居座るしかない。ファミレスに行く金などなかった。あの部屋結構居心地良かったんだけどな、などと過去を懐かしんでも無駄なことだった。ここ何年か宿無しなので、こういったことには慣れていた。ただ冬という季節が辛かった。無為な時間の中で、おっさんを度々見かけていた。たぶん行きつけのコンビニなのだろう。毎晩虚な顔で自動ドアに吸い込まれては、弁当なんかを携えてフラフラと出てきた。実は何度かタバコを吸う時に横並びになった時もあった。まあ、あっちは気がついちゃいないだろうが。リーマンはかなりの愛喫家らしく、タバコを喫む時にはたっぷりと時間をかけた。その時だけは顔に生気が宿ったものだった。
 こんな感じで一方的によく知る相手だったから、初めて話しかけた時は我ながら馴れ馴れしすぎたと思わなくもない。だって仕方ないじゃないか。あっちは俺を知らなくても、俺はあいつを知ってるんだ。
 妙なおっさんだ、と思う。あの日と同じように殺伐とした澱んだ雰囲気を常に着込んでいるのに、見ず知らずの俺にこうして律儀に食べ物を恵んだりする。寛大なんだか、いい加減なんだかよくわからない。俺はフライドチキンを開封してを噛みちぎる。満面からはむわっと湯気が立った。この行為だってどう受け取ればいいのかいまだにわかっちゃいないのだ。どう考えても得してるのは俺のはずなのに。なぜか釈然としない。こういう奴は初めてだった。
 親切にする自分に酔うでもない。かといってこの交流を楽しむでもない。こいつの態度はどっちつかずだった。相変わらず口数少なく無表情なまま。隣り合ってあいつはタバコを吸い、俺は与えられた食い物を腹に収めた。ただ、それだけが何度か繰り返された。一度で終わるかと思われた交流は、細い糸が繋がるようになぜか途絶えていない。
 ふと、視線を感じた。見上げると視線の主はすぐに正面へと向き直る。
 「…なんだよ」
 「とっとと食え。冷えるだろうが」
見ると確かに、チキンから上がっていたはずの湯気はいつのまにかなくなっている。
 「なあ、なんでタバコくれねぇんだよ?俺だってもう吸える年だって言っただろ」
 「ああん?そんなもん自分の金で買え。納税だ納税」
 「それができてりゃ言ってねぇよ」
 すると、唐突に乾いた笑い声が降ってきた。一瞬なんの音か分からず、一拍置いてリーマンの声だと理解する。
 「笑ってんなよ、じじい」
 「わりぃわりぃ。なあ、おまえ今度の土曜日、朝から空いてるか?」
 そう問いかけながらも、男はまだ笑っている。笑いのツボがわからない。あんなのの何が面白いんだか。これがジェネレーションギャップってやつなのか?
 「たぶん、まあ…」
 なぜか素直に暇だとは言いたくなかった。
 「じゃあ、そこの向かいのパチ屋あるだろ?そこに朝8時から並んでてくれねぇか。代わりにタバコ一本やるし、勝ったら晩飯も奢ってやるからよ」
 おっさんの指さす先には昔からあるボロいパチ屋がある。
 「獲りたい台でもあんの?」
  「で?この話のるか?」
 そう問いかける顔はいつになく生気に満ちている。いつもは死神みたいな顔してるくせに。
 「3本」
 「あ?」
 指を3本立てて言う。
   「タバコ3本ならいい」
 「ふざけんなよ、タバコがいくらするか知らねぇで言ってんだろ、ガキが」
 「いいだろ、3本くらい」
 「2本だ。これ以上は譲れねぇな」
 そう言い捨てると、中年男はもはやこっちを見もしなかった。仕事で磨いたのだろうか、こいつのポーカーフェイスは恐ろしいほど感情が読み取れない。
 「…わかった。2本だ。その代わり勝ったら絶対奢れよな。俺、中華がいい」
 ため息をつきながら承諾すると、おっさんは灰皿にタバコを押し付けた。
 「今週は勝てる気がする」
 それだけ言って煤けたスーツの後ろ姿は去っていった。針金のように頼りない後ろ姿を見送りながら、無意識に呟いていた。
 「…今日はやけに明るかったな」
 俺はまだ、おっさんを初めて見かけた日のことを忘れていない。あの感情のない死人のような目。特に一ヶ月前のあの日はひどかった。このまま息もせず死んでしまうのではないかと思えるほど、あらゆる何かが削ぎ取られた後のようだった。
 あの時はただの陰気なおっさんだと思ってたんだけど。実はあの日声を掛けたのには、あの目が気に掛かったから、というのも多分に含まれていた。気まぐれで関わった割には、この関係は長く続いている。関係の終わりはいつだろうか。明日すぐにでも終わってもおかしくはない、と思ったがつい先程週末に約束をしたのを思い出した。
 やはり座りが悪い。約束なんて。
 気まぐれで繋がるくらいが気楽だ。きっとそれはあっちだってそうだろう。だからこそ俺たちはお互いの名前すら知らないのに。俺たちには暗黙の了解があった。僅かな心地よさを与え合うだけの関係、ただそれだけだ。
 闇に浮かんでいた煙を眺めていた時の気分が蘇る。ああいう心地よさは、何かが少しずれただけで消えてしまうと経験上わかっていた。あの感覚は唯一俺たちが共有しているはずのものだと思っていたのに。

『失うのが怖くないのか?』

 ふと、そう問いかけたくなったが名前も知らない男を追う術はなかった。どうすべきかはわかっていた。関わりが消えても執着しなければいい、お互いに。けれどそうするには、あまりにも心地良かった。それに相手に関心を持ちすぎた。
「どうすっかなぁ…」
 俺の家、俺の家族、俺の服、俺の金、俺の…。
 何かを手に入れるのは怖い。喪失は何かを手に入れた時点から始まるものだから。闇夜に問いかけても応えはなかった。手放すタイミングはいつだっただろうか。考えてみてもわからなかった。ただ、もう手遅れだと直感が告げていた。この関係から先に立ち去ることは俺にはきっとできないだろう。そんな予感がした。
「めんどうだな」
 そう呟いて重い腰を上げると、ゆっくりと歩き出した。買い与えられたはずの僅かな温もりは寒風に晒されて既に何処かへと失せていた。全てが煩わしくて仕方がなかった。けれど一方でこの感覚を自分が求めていたような気もして、それがとても可笑しくもあった。

【了】

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