小説・アキラの呪い(17)
第四章 彼女が望む理由
珍しく向こうから連絡を寄越したのは、帰省が終わってすぐのことだった。その内容は簡潔で「部屋の片付けをするから今週は来るな」ということらしい。今更部屋が片付いていないことを気にするような奴じゃないはずだが。ひとまず疑問に思いつつも承諾した。ーーーもしかして好きな奴でも出来たんだろうか?
なんて馬鹿馬鹿しい考えも一瞬頭を過るが、すぐさま打ち消された。あの姉と恋愛沙汰ほど食い合わせの悪いものは他にない。想像するだに寒気のするような不気味さだった。いっそのこと恋や愛に興味でもあれば、彼女もまともな人間関係を手に入れられたかもしれない。そもそも姉は人間関係自体をいらないものだと考えているような女だ。だからこの線はまずあり得ない。
と、そこまで考えて頭が空白になる。姉の思惑が皆目見当もつかなくなったのだ。いつも読みづらいとはいえ、長いこと弟をやっている身だ。今までだってなんとなくの予想くらいは出来た。ところが今回は、考えてもまるでわからない。
姉が、晶が、わからない。
本当に、こんなことは初めてだった。
***
姉宅に向かう当日。その日は何時間か早く目的地を目指した。先週会っていないことが気がかりだったから。暫く定期的に会っていたせいか、顔を見て話したいという思いに囚われた。
その日は激しい雨が降っていた。傘を差していてもお構いなしに濡れてしまうほどに。激しい雨音に酩酊するような秋。この雨が涼しさを連れて来るとは誰が言ったことだったか。朝のニュースでアナウンサーだったような。発言には責任を持って欲しいもんだ。もう9月も終わりなのに、涼しさの気配すら見えないじゃないか。俺は心の中で顔すら曖昧なアナウンサーを恨んだ。夏は好きだが、蒸し暑いのは苦手だ。とりわけ雨の日は特に。この湿度の高さには閉口するしかない。だから梅雨時期や台風なんかは最悪だった。そういえば台風が新しく発生したとも言っていた。驟雨はそのせいなのか。次から次へと生まれる気流の渦がこの時期は特に勘に触る。俺にはどうしようもない力の渦に揉まれているようで。少しはこっちの都合も考えて欲しいもんだ、と小さく悪態を吐きながら踏み出した足が水溜りに浸かった。
深いため息を地面に落とすように、俺はヤケクソになって走り出した。どうせもうびしょ濡れなのだ。これ以上濡れたところで大した変わりはないだろう。
結局滴るほどずぶ濡れの状態で姉の部屋へと赴くことになった。腕時計を確認すると、約束の時間より1時間半早い。時計が防水で良かったと考えながら、いつもの癖で前髪を払うと、濡れ切ってぺっとりと額に張り付いている。もはや手の施しようがない。今日は風呂でも借りなくてはならなそうだった。
『濡れたなら来なくてもいいのに』
そうすげなく言い放つ姉の姿がありありと目に浮かぶ。まあいいさ、今日は姉の顔を見にきたんだから会えさえすればそれで構わない。でも風呂だけは貸してもらおう。このままだと十中八九風邪をひく。
インターホンを一応押す。今日は祝日だからもしかしたら在宅かもしれない。そんな期待と共に2度ほど押したが応えはなかった。珍しいことに外出中らしい。珍しことに。
俺は仕方なく合鍵を取り出してドアを開けた。今までこういうことがなかったわけではないし、勝手に入ったと怒られることはない…と思いたい。
「姉さん〜いる〜?入るぞ〜!」
結局日和った俺は、大声を出しながら入るという手を打った。声がデカければデカいほど罪も軽くなるような錯覚があった。
しかし、張り上げられた声は薄暗い室内に吸い込まれていった。なんの物音もしない。本当に主は部屋を空けているらしい。
まあ、約束通りに来なかったのだから、そんなもんかもしれない。俺は玄関でバックパックを下ろすと、その中で濡れないように守られていた食材たちを取り出した。とりあえずこれらを冷蔵庫にぶち込んでおく必要がある。秋とはいえまだまだ気温が高い。夏の方が食べ物の足が早いことくらいは俺も知っていた。廊下の電気をつけながら歩くと床は夏なのにひんやりと冷え込んでいる。素足で触れるフローリングに寒気を催した。
リビングの電気をつけると、入り口のすぐ横に冷蔵庫があった。ろくに料理もしない晶には勿体無いほど立派な代物だった。きっと今日も空気だけ冷やしているに違いない。
開けて中を覗くと、案の定そうだった。綺麗に空だ。奇妙なほどに。今までも使った形跡が無いとは言え、それでもお茶ポットくらいは冷えていたのに。常備していたはずの調味料から何から全て取り払われてなくなっていた。
それだけではない。やけに綺麗だった。ーーーまるで掃除でもしたみたいに。姉のそんな几帳面な姿を俺は一度も見たことがなかった。庫内を観察するうち、だんだんと背筋が冷えるのを感じた。
そう言えば、廊下もやけに片付いていた。いつもはもっと雑多なものが置いてあるのに。先週言っていた片付け、とはこれのことだったのか?でもこれは片付けというよりーーー。
「ううっ」
その時だった。誰もいないはずのリビングから声がしたのは。振り返り、リビングを見渡す目に飛び込んできたのは横たわる女の姿だった。ここにいるはずのない姉が手首から血を流して倒れている。敷かれたカーペットには夥しい量の血液が染み込み赤黒く変色していた。
「晶!!!」
叫んだが、足の力が抜けてその場に崩れ落ちてしまった。震えが来てどうしようもなかった。おかしくなりそうな頭でどうにか手だけを動かし、救急車を呼ぶ。応対する落ち着いた声にも心を鎮める効果はなかった。通話を終えると同時にスマホが手から滑り落ち、血溜まりを荒らした。血が飛び散ったが構わなかった。彼女が目覚めさえするのなら、もうなんでも構わなかった。電話で教えてもらった応急処置をなんとか施しながら触れた手は死んだように冷たい。俺よりもずっとか細い手に触れながら呟いた。
「どうして…こんなこと…」
すると、
「あんたのせいよ」
下から強い瞳が睨んでいた。
「晶っ!」
「あんたのため、だった…」
そう言い残して、彼女は再び意識を絶った。ずっと頭の中で繰り返していた。
「俺の…せい…」
どこか遠くからサイレンが聞こえる気がした。濡れた髪から滴った雫が姉を無情に濡らしていることにすら、気が付かなかった。それほど言葉に囚われていた。そしてそれは救急車がやってくるまでずっと続いた。確かなのは握った手の温度だけだった。
***
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