制作

投稿しようと思って忘れてたもの放出④

「劇団で『制作』をやっている」というと、大抵次に投げかけられる言葉は決まっている。
「『制作』ってなにするの?」
わからない。3回に及ぶ定期公演で制作を担当してきたがいまだにわからない。本稿では、制作というものがどういったものなのかということについて2023年春の時点での私の考察を書き連ねていこうと思う。
制作として活動した日々で感じたことの記録は「制作の日記」として別途、数回に分けて記述していこうと思う。

職域について
脚本は「脚本」が、演出は「演出」が、企画立案は「主催」が担う。
制作とは。
おそらくほかの役職がなければ、たとえば「脚本」がいなければ脚本を『制作』が書いたっていいのだろう。
今、うちの劇団では役職が十分に用意されていると思う。その中で「制作」というのは椅子こそ用意されているものの、その佇まいはふわふわした不安定な状態にある。苦し紛れに他の人の手からこぼれ落ちたことを拾い上げ、請け負うものの「これでいいのだろうか」という問いが生まれ続ける。
そして多くの場合、このこぼれ落ちるものというのは「表現活動」と呼べるようなものではない。
また、統一性のない細々としたことばかり請け負うために、その職域は一言で言い表しがたい。
そんなわけで私は「『制作』ってなにするの?」という定番の疑問に対して、「目玉焼きつくったり」などという答えになっているような、いないような返事をするわけである。

さて、少し視点を変えて「制作」の気持ちというところを考えてみたい。これもまた、よく投げかけられるのだが、「何をモチベにしているの?」という問いがある。
これに関しては幸い自分の中に明確な答えが用意されている。
「表現者たちが全力で取り組んでいるから」である。それさえあれば、そんな表現者たちを支えられているという感覚を、表現者たちの姿をささえに生きていける。
表現者というのは役者に限った話ではない。演出家や脚本、大道具制作、小道具制作、音響、照明といった全てのクリエイティブな関係者をさしている。そうした彼らを支えていて、同時にその姿に支えられるという感覚はいわゆる「推し活」に近いのではないかと思われる。こうした背景をもって、私は制作を「最高の推し活」などと称しているのである。
しかしこうしたモチベーションには危うさがあることも自覚している。というのは、モチベーションが表現者たちの姿勢を前提としている以上、その前提がない場合にはこのモチベーションは機能しない。また、支えている実感が損なわれてしまった状態でもモチベーションが機能しなくなる。言ってしまえば、やる気のない役者が増えれば制作としてのモチベーションはなくなる。

本当ならもう少し早い段階で投稿しておくべきだったもの。
順番がしっちゃかめっちゃか。


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