見出し画像

歌舞伎町ホストクラブで世の本質を見た話③

これまで考察してきたホストクラブのゲーム性、最後はシャンパンタワーについて考えていきたい。

(3)シャンパンタワー

シャンパンコールがシャンパン一本からできるのに対し、シャンパンタワーでは10本20本まとめて消費することができる。その分高額であり、軽く調べた範囲だと相場は100万(席料やTAXなど含めると総計150万程度)以上と相当に割高だ。

キャバクラにもあるはあるが歌舞伎町はじめ一部地域に限られており、基本的に(水商売の世界では)ホストクラブ特有の文化と言っていいだろう。

最初これを見たとき、ソシャゲ課金文化とCD握手会商法に親しんでいた私は「効率よく重課金できて酒もついてくるなんてできたシステムだなあ」と感心してしまったものだ。

消費者として企業に調教された幸福な豚視点だと「課金したら無料で酒がついてくるお得なプラン(※ただし重課金兵向け)」なのだが、ホストクラブの客はあくまで「消費者」ではなく「姫」である。彼女たちは富裕層でなくたって担当のためなら風俗なり水商売なりで体を張って金を作り出してしまうが、そこには課金額で自尊心を満たす以上の目的がやはり、ある。

例えば

・金を使えることを被りに示したい

・担当にとって重要な客だと実感したい

・担当の期待に応えたい

・担当の頼みを断れずなし崩しで

などだ。

(イベント時のシャンパンタワーはホストから頼まれることが多く、そこで頼られることは客によっては嬉しいことでもあるらしい。ちなみに私は頼まれようものなら即破産の客なのでその経験はない。)

やはり動く額が尋常ではないので、金を貯めていくにつれ客もストレスを溜め込むし喧嘩も増える。額に見合ったものを返してくれないと分かれば客がホストを切ることもざらにある。

だが以外なことに、SNSや様々な記事を確認していくと見かけるのが「頑張れば目標を達成できると実感できた」「やり遂げたことで努力できるという自信になった」というかなり肯定的なコメントだ。

最初の記事でも書いたのだが、大きい額を担当に落とそうと思ったら風俗嬢なら鬼出勤をすることになる。

風俗は単価が高いとはいえ客入り次第なので、指名がとれなかったり時期的に客入りが少なかったりするとやはり安定して稼げない。

真面目にやろうとすると、「昨日は何万稼いだけど今日は全然稼げなかった。あと何日で何十万稼げるようがんばろう」みたいに毎日地道なペース配分を考えながらその都度落ち込んだり喜んだりする地道な努力の積み重ねが必要なる。だからこそタワー当日に泣いたり感激したりする人もいるわけで、あっこれ締切に追われる同人作家の修羅場と同じじゃない??

タワーというのは「消費者」視点からだとただ金をぶっ込める便利なツールでしかないのだが、ホストクラブで実際にそれを立てる「姫」にはタワーの背後にそれまでの「物語」の積み重ねが確実に見えている。

高くそびえるたくさんのグラスは、今までのホストとの関係性や努力の積み重ねであり、その結実であり、トロフィーにも近い存在感なのだ。同人作家がイベント会場で自分の本を手にした時の感慨と同じように。

(4)欲望されているのは「愛」よりも「バトル」

こういうスポ根的な、もっと言うなら少年漫画的な「自己実現」の瞬間がホストクラブではしばしば見られる。

高額を使う姫はしばしば「強い」「かなわない」とまるで攻撃力(パラメーター)のように表現される。まれに高額を使い続けるエースは他の姫から「かっこいい」「ああなりたい」と評されることすらある。「かわいい」「綺麗」といった女性的な(もっと言うと女性をモノ的にとらえる表層的な)表現ではなく、それは戦士としての、努力や結果に対する敬意である。

一般的にイメージされる「愛と嫉妬」の空間というのはあくまでホストクラブの表層の部分で、当事者はそこを一つの「バトル」の場と捉えている節がある。それは戦争のような敵の殲滅を意図するものではなくプロレス的な「ドラマ」を生み出すための舞台装置であり、本質的に求められているのは達成感や承認という名の「自己実現」である。現に、客同士のライバル関係は時に「同じホストの順位を上げるため」盟友のようになることもある。

通常は女性のものとして想定されていない少年漫画的な生き方が、ホストクラブという一見対極の場で再生産されているのは不思議なものがある。だが、見方を変えれば“だからこそ”商売になっているのだ。女性が望む「承認」はただ「少女漫画的に」「好きな人に認めてさえもらえれば満足できる」もののように矮小化されがちだが、社会の成員の1人として生きる以上、男性と同様の「社会的に上昇したい」という欲望は確実に、ある。その「社会」の指す規模に平均的な違いはあるかもしれないが。

ホストが「店グル」という営業方法に強いのも、店という小規模なコミュニティ(社会)での承認を印象付けることで女性の「社会的上昇」の欲望をうまく刺激できるからのようにも思える。

ホストクラブは現代で「いまだ承認されない欲望」をうまく掬い上げているからこそ、ただのヒモへの貢ぎに留まらない巨額の富の獲得に成功しているのだ。女性の欲望が仄暗いから承認されないのではない。どちらかと言えばそれは「先進国でありながら性別観の変化が追いついていないこの社会の遅れ」によるものだ。

しかしソシャゲやアイドルと同じくそこにゴールはなく、叶わないからこそ客は永久に「上に行こう」とお金を落とし続ける。終わるのは客が疲弊し諦めるか別の道を見つけるかして「卒業」する時だ。まるで少年が成長するにつれ現実と自分の限界に気づき、夢を追うことから「卒業」するように。

◼️ホストクラブという「歪み」

これだけ書いておいて何だが、私はホストが客を風俗堕ちさせる行為は弁解の余地のない「犯罪」だし、普通に司法が介入すべき案件だと思っている。

自分もオタクなので、オタクが「自分の意志と責任で」仕事を変えるのは何も悪いことではないと思う。それに対して外野から搾取だなんだと言われようと自分の人生を自分で選んでいるのなら「素人は黙っとれ」案件だ。

しかし、ホストの「風堕ち」は客自身の判断に見せかけて確実にホストの意志が介入している。どんなに理屈をつけようと相手に人生を左右する選択をさせながら結果だけ享受し責任を負うことのない営業方法は、自粛要請はするが補償はせず赤字や損失を個人の責任として背負わせるどこかの政府と全く同じやり方だ。いかにクリーンさをアピールしようとホストクラブは「業」の元に成立していることを忘れてはいけない。従業員も、客である私も。

じゃあホストクラブという業態が消えればいいかと言うとそうは思わない。ホストに通い始めて知ったのは、普段男性客にはこんなに楽しい娯楽が補償されていたのか、ということだった。

仕事終わり、何となく気が落ちた日に何も考えず騒げる場所があるなんて。

見知らぬ人と話したい時、新しい人と出会いたい時、セクハラやマウントを心配せず閉塞した日々に亀裂を入れる自由があるなんて。

自分とはまったく対極にいる「今時の男の子」が何に触れ何を考えているのか気軽に聴ける機会がこんなにあるなんて。

仕事や地縁や家族関係に拘束されず、自由に突発的に日常から「逸脱できる」コミュニケーションのサービスが、女性は男性よりも少ない。バーや居酒屋での会話だって楽しいが、そこからつきまといや粘着に発展することがないわけじゃない(実際ある)。親密さを保証しながら金を払うことでその場限りに留めておけるサービスは見方によってはとても「優しい」関係だ。

明るい世界の住人が夜の歪なシステムを指差す時、その背後には私たちの男女の就業格差、賃金の不均衡、教育格差、ジェンダー意識の改革の遅れなど「私たち自身の歪み」があることを忘れてはいけない。

昼の世界で稼げる女性の割合がもっと多かったら。ジェンダー的な先入観で邪魔をされず正当に能力を評価されて、議員や高い役職にもっと女性が多かったら。仕事の商談にも使えるくらい、重要な局面で女性のフィールドが想定されている世の中だったら。男性のように「遊び」のやりとりも経験値として評価される世の中だったら。「女性は一途でなければならない」「経験豊富ははしたない」という旧いジェンダー意識のせいで、この奥深い「夜の遊び」への道を遮断される人がもっと少なければ。

ホストクラブは、こんな歪な形になっていないのだ。

それでも私はこの世界や、ここで出会う人たちが好きだ。金払いがよくないので裏で多少悪態はつかれているかもしれないが、それでもこの多様で複雑で、時代を色濃く映す万華鏡のような場所をとても面白く思っている。これからどんな風に変化していくか、その激動を見届けたい。だからこそ。

私はこれからも、歌舞伎町に行くだろう。


◼️最後に(2020年4月現在の感傷)

新型コロナウイルスが「コロナ禍」と呼ばれるまでのパンデミックになった現在、歌舞伎町をはじめとする繁華街は休業要請の対象として名指しされ、閑散としている。まだ1か月も立たないが、早くもあの混沌とした風景や多様な人々の雑踏が懐かしい。

歌舞伎町だけじゃない。地元にある場末のキャバクラやカラオケスナック、その前で手持ち無沙汰に客引きに立つ黒服、それらが並ぶ通りのネオンの派手さとどこか潜む仄暗さ。街の至る所が闇に包まれてしまった今ではその光景すらとても恋しい。濃密すぎるほどの猥雑さを孕む繁華街の空気は、欲望が生み出すいかがわしさと同時にどんな存在をも許容するドライな優しさがあった。

このコロナ禍では至る所で「分断」や「疎外」が生まれているが、そこで最も名指しされたのが夜職と繁華街だったというのは皮肉な話だ。夜の街というのは行き場のないどんな人々をも「包摂」する最後の砦だから。


Twitterの無名アカウントでホスト業界の人をフォローしている私は、毎日そのTLを見るのが好きだった。どんなに政治や経済が荒れたって、不穏な炎上で世間の不寛容な空気の加速に恐怖したって、ホストやホス狂いの人たちはいつも今月の掛けと病みと担当への愛憎だけを呟いていた。そこには一見非日常に見せかけた強固な「日常」があったように思う。

でも、そんなふうに世間の動きなんて意に介さなかった強い「日常」すら、このコロナ禍で崩れつつある。

「これからも行くだろう」とは書いたが、今では次いつ行けるかの目途はたっていない。リモートワークにはなっているが、私も人との接触が全くないわけではないからだ。

ただ今回感染クラスタが発生したことで補償からの除外や「こんな世界さっさと消えてしまえ」という声が一般の世界から出てくることには複雑な想いを抱いている。

自らをまっとうだと思っている人ほど、自分の知らない世界に対しては無責任であり冷酷だ。彼らは「なぜそこで生きる人がいるのか」を考えることはほぼないだろう。けれどそうして切り捨てているのは「いかがわしい遠い人々」ではなく、誰もが許容され包摂されうるはずの「社会のまともさ」であることを自覚しなければならない。一か月後に何が起こるかすら分からないこの状況で、次に切り捨てられるのは「まっとう」だったはずの自分かもしれないのだから。

せめてこれから水商売をはじめようとしていた人、あるいは上がろうとしていた人、昼の仕事を捨ててここに来た人、その日暮らしでギリギリで生きている人、これから店を開こうとしていた人、なんだかんだ悪態をつきつつ一片でもこの世界を愛していた人、この世界を心から憎みながらも足を洗えない人すべて。

できる限り生き残ってほしい。今願うのはそれだけだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?