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フォスター・チルドレン 69

第6章 私の願いを聞いてください(3)

1(承前)

「二人だけ? 他にも人目はあったの?」
「うん。みんなの控え室だったから、その場にいた全員の視線が、いっせいにあたしのほうを向いた。部屋の中に、しんとした気まずい空気が流れたのがわかったわ。そして……あたしの目の前には顔を真っ赤にして興奮している朋美の姿があった。 
 あたしは朋美にぶたれた左の頬を押さえながら、彼女を睨みつけた。といっても本気で怒ったわけじゃないのよ。てっきりなにかの冗談だと思ったの。
 でも朋美の顔を見て、どうやら冗談ではないことを悟ったわ。彼女、怒りで体をぶるぶると震わせながら、でも妙に冷めた目で私を見下ろしていたの」
 僕は昨日の朋美の姿を思い出した。葉月を訪ねてやってきた女性の買い物袋を放り投げた、あのときの彼女の形相。
「あたし、朋美がなぜ怒っているのか、さっぱりわからなかった。そんなことを考える以前に、あたしはあまりの驚きに、次にどんなリアクションを取ればいいのかわからず、混乱していたの。
 なにしろ、怒っている朋美の姿を見るのは生まれて始めてのことだったから。しかもその怒りは、どうやらあたしに向けられている。人づき合いの苦手な彼女が唯一心を許している――そう信じて疑わなかったこのあたしに」
「朋美はなにもいわなかったの?」
「もううんざり――息づかいを荒くしながらいったわ。これ以上、私を惨めにさせないでって……。朋美の目には涙がにじんでいた。その涙を見ても、あたしには怒りの原因がなんなのか、理解できなかった。
『一体、どうしたのよ? なにを怒ってるの?』――やっとのことであたしからも言葉が出た。できるだけ穏やかにいったつもりだったけど、やっぱり強い口調になっていたわ。
 朋美はあたしの言葉に、さらに怒りを強めたようだった。彼女の唇は真っ青になり、小刻みに震えているのがわかったもの。
 蘭はなにもわかっちゃいない……それが朋美の捨て台詞だった。それだけ叫ぶと、両手でテーブルを叩いて、控え室を飛び出していったの。さっぱりわけがわからなかった」
 スパゲッティーをすくう手が止まる。僕は黙って、蘭の口元を見つめ続けた。
「次の日には、朋美、もうけろっとした顔をしていたわ。だからそのときのことはわからずじまい。一体、なにに怒っていたのか、すべては謎のまま……」
 蘭はさっぱりわからないと首をひねったが、僕にはなんとなく見当がついた。
 朋美が蘭をひっぱたいたのは六月中旬。蘭が朋美の気持ちを葉月に伝えたのは五月の終わりだと話していたから、その一、二週間前のことだろう。
 千蘭はあたしの気持ちがまるでわかっていないのよ。
 ひょっとしたら、朋美が恋心を抱いていた男は、葉月じゃなかったのでは……。
 ゴールデン・ウィークに朋美と二人で旅行したとき、意中の人のイニシャルをお互いに教え合ったと、蘭は話してくれた。蘭もH君、朋美もH君だった。本当は朋美も僕のことを好きだったのではないだろうか。しかし蘭が先に僕の名を口にしたものだから、朋美はとっさに嘘をついたのでは――。
 自惚れと思われたくはなかったので、僕は自分のこの考えを黙っていた。
 スパゲッティーを食べ終えた頃には、すっかり朝になっていた。眩しい太陽の光が窓から射しこむ。
「いい天気」
 窓を開けて、蘭は大きく伸びをした。雲ひとつない、爽やかな朝だった。
「樋野君、オートバイ持ってるんだよね?」
「ああ……持ってるけど」
「後ろに乗せてよ。これからどっかへ行こう」
「いいけど……寝なくていいのか?」
「だってこんなに天気がいいのにもったいないよ。ね、どっかへ連れて行ってよ」
 蘭の本心がわからなかった。どうして今日はこんなにも愛想がいいのだろう。なにか企みがあるような――そんな気がして仕方がなかったが、それならとことん利用されてやろうと思った。

つづく

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