フォスター・チルドレン 06
第1章 間違いなく逃げ出したんだと思う(4)
1(承前)
部長に辞表を提出したのは二週間前だった。部長はこうなることを予想していたのか、「ご苦労さん」と、僕の顔を見ようともせずに封筒をふところにしまいこんだだけ。それ以上、なんのリアクションも示してはくれなかった。社員全員が僕の背中を見て笑っているような気がして、僕は「失礼します」と頭を下げると、そのまま早足でトイレへ駆けこんだ。自分の居場所はもうどこにもないように思えた。
ちょっとしたトラブルが原因だった。今年入社したばかりの後輩――佃貴史が、取引先との会合に二回続けて遅刻した――ただそれだけのことだ。
真面目な後輩で、決していい加減な男ではなかった。むしろばりばりと仕事をこなす頑張り屋で、僕などよりずっといい営業成績を上げていた。
ただあまりにも仕事が忙しかった。今年から経費削減の名目で、大幅に人員を減らしたことが原因なのは明らかだった。佃はますます取引先が増えて、日付が変わるまで残業を続けなければならない毎日を続けていた。
分刻みの過密スケジュール――遅刻するなといわれても、どうしようもないことだったのだ。
普段なら、佃も課長もそれほどムキにはならなかっただろう。佃は課長に反抗してつまらない小言をもらうのはごめんだと判断し、「はい、申し訳ありません」と素直に謝っていただろうし、課長も仕事が過密になっていることを十二分に承知しているのだから、それほど激しく怒鳴ったりはしなかったと思う。
だが、タイミングが悪かった。結局その小さなミスが波紋を広げ、事業部全体で進められていた記念イベントが中止になるという最悪の事態を招いてしまったのだ。
課長は佃を責めた。佃は会社の体勢について文句をいい始めた。
「忙しいのはおまえだけじゃないんだ。そんなことで弱音を吐いて、どうする。馬鹿野郎」
いつまで口論を続けていても、堂々巡りだと判断したのだろう。課長は最後に大声をあげて佃を怒鳴りつけると、額の汗を拭いて、彼の前を離れた。佃はむっつりとした表情で、乱暴に席についた。
「樋野君」
課長は僕の前へやってくると、声をひそめていった。
「君、佃君の仕事をサポートしてやるように。佃君のテリトリーを少し分けてもらってさ」
「僕のテリトリーが増えるということですか?」
うんざりだった。ここで「いやです。僕だって今の仕事で手一杯なんです」ということができたなら、会社を辞めるなどという事態にならずにすんだのかもしれない。
だけど、僕には反抗する勇気などなかった。上司の言葉は――たとえそれがどんな無理難題であろうと、笑顔で受け入れるしかなかったのだ。
しかし、僕ももう限界だった。
「はい、わかりました……」
そう答えた瞬間、僕は仕事を辞める決意を固めた。
佃は立派だと思う。人件費を切りつめ、一人一人の負担がますます大きくなっていく会社のやり方には、確かに納得できない。彼はそれに立ち向かおうとしている。おかしいことはおかしいとはっきり口に出し、戦おうとしていた。
でも、僕には戦う力なんてない。
とはいえ、我慢することも限界だ。
そうなれば残された道はただひとつ。
逃げ去るしかないではないか。
つづく
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