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フォスター・チルドレン 03

第1章 間違いなく逃げ出したんだと思う(1)

 昨日の酒がまだ少し残っていた。
 こめかみのあたりを、ドアでもノックするように軽く叩く。胃の辺りにどんよりとした重いものがたまっている気がするのは、酒のせいばかりではないだろう。
 なんだかひどく憂鬱だった。
 アツシは機嫌よく鼻歌を歌いながら、相変わらず乱暴にハンドルを動かす。カーステレオからは、僕らのバンドが敬愛しているミュージシャンの新曲が流れていた。
「この曲ってコード進行がすんげえ複雑だよな。俺たちの技術じゃ、コピーは難しいかもしんねえぞ」
 アツシの声は女性のように甲高くなったかと思えば、今度はレコードをゆっくり回転させているように低くなり、聞いているこちらをどっと疲れさせた。
「頼むから、そのくだらないおもちゃで遊ぶのはやめてくれよ」
「へへ。面白れえだろ? おまえも欲しくなったか? まだ売ってるかもしんねえぞ」
 口からピンク色をした卵形の物体を離し、今度は普通の声で喋る。やけにはしゃいだ声だ。こいつはいつだってテンションが高い。年中、躁状態だといってもいいだろう。うろ覚えの英語詞をフィーリングだけで口にしながら、頭を振り振りリズムを刻んでいる。
「わお!」
 かけ声と共に、アツシはハンドルを大きく左に切った。タイヤが悲鳴をあげ、不快なgが僕の左半身を襲う。
 アツシは最近伸ばし始めたあごひげ――まるで似合っていないのだが、本人はいたく気に入っているらしい――を撫でながら、さらにアクセルを踏みこんだ。
「いまどき、ボイスチェンジャーなんかで喜んでるのはおまえくらいだよ。幼稚園児だって見向きもしないぞ」
「馬鹿。俺は流行にとらわれたりしないんだ。ごーいんぐ・まい・うぇい。俺が流行を作り出すんだ。俺が夢中になったものは、やがて世間だって興味を示すようになる。そのうち、ボイスチェンジャーは一大ブームになるぞ」
「ならないって。すたれてから、まだそれほど時間も経ってないんだから」
 アツシは流行に疎い。というか世間より数年ずれている。この前も古道具屋で、「フラワー・ロック」なる懐かしい代物を買ってきて、皆に見せびらかしていた。音楽に合わせてプラスチックの花が踊り出す――かなり以前に流行ったおもちゃだ。フラワー・ロックまで古くなると、多少懐かしさを感じたりもするのだが、ボイスチェンジャーは中途半端すぎて、一年前の流行語を得意げに使っているおじさん連中を見ているのと同じような滑稽さを感じてしまう。
「シロー君。もうすぐ目的地よん」
 女性の声でアツシが喋った。僕はその声を無視して、窓の外に目をやった。
 オフィス街にさしかかったところだった。正午を数分過ぎた頃だったので、歩道にはスーツ姿のビジネスマンがあふれかえっている。
 途端に、激しく胸が締めつけられた。表情を歪めなければならないほどの不安感。
 本当にこれでよかったんだろうか?
 笑いながら隣の男の肩を叩いている――僕と同じくらいの年齢のビジネスマンの姿が目に入った。
 自分だけが世界から取り残されてしまったような――そんな焦燥感が僕を取り巻く。
 今日という日をどれだけ心待ちにしていたことか。
 もっとさっぱりとした気持ちで、新しいこの日を迎えられると信じていた。僕は世間体とか常識とか、そんなものにこだわったりしない人間だと、昨日までは思っていた。
 それなのに――。
 気がつくと、僕は電車から外の風景を眺めている子供のように、窓ガラスにへばりついていた。
 不安だった。通りを歩く彼らには、きっと僕の姿など見えていないのだろう。僕は彼らの世界から完全にはみ出してしまった。わずか数メートルしか離れていない距離に存在しているのに、僕はまったく別の世界の存在なのだ。
 昨日まで、僕は向こうの世界にいた。こちらの世界にやってくることに憧れ、そうなる日を指折り数えて待ち続けていた。
 ようやくそれが実現したのに。
 ……こんなはずじゃなかった。
 そう後悔したところで、すべてはあとの祭りだった。

つづく

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