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ぼくの居場所について

吉本興業会長の大﨑洋さんの『居場所。』という本を作った。大﨑さんの幼少期から今までの人生を長い長い時間取材させてもらい、2年近くかけて完成した一冊だ。

松本さんが帯コメントをくださった。

大﨑さんは若き日のダウンタウンさんを見い出し、世に出す場をつくり、その後もずっとサポートしてきた人。

一方で、「芸能界のドン」とか、数年前の闇営業問題の印象などもあいまって「フィクサー」みたいなイメージもあるのだと思う。

実際の大﨑さんはというと、とても気さくで、あったかくて、優しい人。本をつくる過程で長い時間ご一緒させていただいたが、終始穏やかで、楽しくて、ひとつひとつのお話を噛み締めるように語ってくださった。

新宿の吉本興業本社。廃校がそのままオフィスになってる。


『居場所。』は孤独についての本。大﨑さんがこれまでの壮絶な人生において、どうやって孤独と向き合い、芸人さんや自分の居場所を探してきたのかを語ってくださった。

松本さんのこと、浜田さんのこと、さんまさんのこと、亡くなったお母さまのこと、お子さんのこと。取材は50時間以上に及び、「人間・大﨑洋」を目の前でこれだけ味わうことができたのは編集者冥利に尽きるし、この春から会社の代表になることが決まっていたぼくにとっては、吉本のトップから直接お話を聞けるのはこの上ない勉強にもなった。

取材が終わるとその録音を記憶するくらい聴き続け、また次の取材にのぞむ。そんな生活をずっと続けていた。そして、この本の本当のテーマってなんだろう!?あれかな?これかな?と頭の中でぐるぐる回り出したころ、大﨑さんから決定的な言葉をお聞きすることになる。

佐賀県の唐津に連れていってもらったときのこと。宿にこもって2日間じっくりお話を聞いた。一日目がおわり、翌日、宿の食堂でシャケ定食を食べてるときに大﨑さんが、ふとこう言った。

「居場所っていうのは、ハードじゃなくて、ソフトの中にあるんだよねえ」

ああ、大﨑さんが伝えたかったことはこれなんだ...と感動し、体中のいろんな機能が覚醒するような感覚を覚えた。本づくりの過程では、著者が発したひと言が、それまで聞いたすべての点を結ぶことが稀にある。このときがまさにそれだった。

居場所はハードじゃなくて、ソフトの中にある。それはつまり、自分の居場所は物理的な場所や環境のなかにあるんじゃなくて、大切な思い出や人こそが居場所だということ。大﨑さんにとっての居場所は、松本さんや浜田さんやさんまさんや紳助さんたちとの思い出であり、なにより、亡くなられた最愛のお母さまその人であること。

本の中には、「この人だけはわかってくれている、という人が心の奥にいれば、それが居場所だ」という趣旨の記述がある。

ほんとだ。ほんとにそうだ。居場所は心の中にある。

ぼくの居場所について

取材中、ぼくはいつも自分の昔のことを思い出していた。

音楽業界で仕事をしていたぼくの父は、毎晩酒を浴びるように飲んでは、帰ってきて母に怒鳴り散らし、物を投げ、ときには暴力を振るった。

そんな修羅場がはじまると決まって母は、世田谷の自宅からまだ小学生のぼくを連れて、当時渋谷に借りていた日本舞踊の稽古場に逃げた。母は花柳流の講師をしていたのだった。

週に、多い時は5回、少ないときでも2〜3回は渋谷に逃げる生活だった。だから僕にとって渋谷という街は夜になると逃げてくる場所で、いまだにあんまりいいイメージがない。

夜中に渋谷に逃げ、あくる日には何事もなかったように世田谷の学校に登校する。小学校から中学校にかけて、こんな生活を何年も続けていた。

ぼくが中学2年生のときに、父は喉頭癌で亡くなった。酒とタバコとぐちゃぐちゃな生活とで、早くに逝ってしまった。駒澤の国立第二病院の病室のベッドの上で亡くなっている父の姿を見て、しばらく涙が止まらなかった。さんざん大変な思いをさせられたのに、亡くなったときにはこんなに涙が出るんだな、と不思議な気持ちにもなった。

お葬式のとき、母の目に涙はなかった。それどころか、これでようやく解放されると安堵していた。参列者の一人一人が母に向かって「あんなに温和なご主人いませんよね。残念です」と言い、母は「そうですね」と答えていた。家族のホントは、他人にはわからないのだと思い知った。

母は、ぼくを連れて渋谷に逃げるとき、いつも何を考えていたんだろう。そのときのことがたたって母は体を壊すことになるのだけど、それについてはまたいつか書くことにする。

葬式の数日後に久しぶりに学校にいくと、みんなが僕に声をかけてくれた。ちょっと無骨な上野くんという同級生が、何も言わず、ぼくの左肩をポンと叩いてくれた。ぼくは彼の目をみて軽く頷いた。

ちょうど中間テストの最中で、ぼくは父の死に直面していたことでいっさいのテスト勉強をしていなかった。テストがはじまっても答えがまるでわからず、とりあえず黒板を見ながら時間が経つのを待っていた。

そんな様子に気づいた隣の席の女子Oさんが、机の上の自分の答案用紙をこちらにすっと寄せてくれた。ぼくは「ありがとう」という気持ちを込めて頷き、再び正面の黒板に視線を戻してぼーっとしていた。先生は、その様子を見て見ぬふりをしてくれた。

上野くんにポンと叩かれた肩の感触や、答案用紙をすっと寄せてくれたOさんの優しさを、35年以上たった今もはっきり覚えてる。ひとつひとつがチャーミングな思い出だし、ぼくの居場所なんだと思う。

大﨑さんの本をつくりながら、そんなことを思いだしていた。

人に言えないような孤独が、誰にだってある。ぼくにもある。小さな子供にも、多くの経験を積んだ高齢者にもある。その孤独と正面から向き合おうとすると、苦しくてたまらなくなる。大﨑さんは本の中で

「孤独を見つめすぎないこと」

と言ってる。見つめすぎると深い沼に引きずり込まれるよ、と。そうして、自ら命を絶つくらい人は弱いし、孤独だ。だから、孤独にひたる自分をすこし客観的に見ながらロマンチックに逃げてごらん、そしたらラクになるよ、と大﨑さんは言ってる。

大﨑洋という人は、いったいどれほど巨大な孤独と向き合ってきたのだろう。ぼくには想像もつかないような、孤独と、寂しさと、苦しさを味わってきたんだろうな。そして誰にもそれを相談しなかったんだろうな。そうじゃなきゃ、孤独についてあんなに深く、あったかく語れるはずがない。

この本は、中学生のぼくに向けてつくった。

群れからはぐれたり、いつも端っこに座っていたり、ニコニコしながらじつは誰にも言えない悩みを抱えている人に、読んでほしい。ぼくがそうだったように、心の中にかけがえのない居場所があることに気づけると思うから。

居場所は、心の中にある。


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