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「ワタシたちに自由意志があるか?」という質問が無意味なたった一つの理由
自由意志の問題は 97.2% 解決しているらしい
「自由意志なんかねーよ!」
「自由意志はある!」
こんな議論がネット上でも、哲学的な問題としても古代ギリシャの頃から永遠と行われてきました。例えばYahoo知恵袋では、2024年6月12日のタイミングで「7204件」の自由意志についての質問がされています。
なお、うち7,004件は「解決済み」だそうです。
今はYahoo知恵袋があれば自由意志の問題は解決するらしい。
哲学者のやってきたことは無駄だったのだろうか?
また、この話とは全然関係ないのだが、エッチなビデオの企画で時間停止モノというものがあるらしく、それは9割がニセモノらしい。
「自由」も「意思」も信じられない
ということで、今回はこの「ワタシたちに自由意志があるか?」という問いが、あまりに愚かな問いだという話を、
①「自由」という言葉が、パチンカスの「トータルではプラマイゼロ」ぐらいの信用できない理由と、
②「意思」という言葉が、お母さんの「怒らないから言いなさい」ぐらい信用できない理由という、
この二つを踏まえて話していく。
いろいろ例え話も出すが、それへの反論をすべて埋めきることは大変なのでやらない。本当にごめんなさい。
代わりにマシュマロへのリンクを貼っておくので「この場合どうなりますか?」という質問や、質問のふりをした論破をしたいぜ!という人はそちらからどうぞ。
おそらくNoteで上で補足します。
「それってあなたの感想ですよね?」とは言わない。
それを言うとブーメランで帰ってくるので。
問題文そのものが間違っている
テーマに戻ります。
過去の歴史を振り返ば、
紀元前ギリシャのプラトンは『国家』にて
「彼らが欲望や身体的快楽、痛みや怒りに帰する無法さは、これらの情熱が実際には自己の主人であることを理解していない」
(欲にまみれた意思は不自由)
中世ヨーロッパの神学者 アウグスティヌスは、『自由意志論』にて 「自由意志の選択は理性的な魂の行為であり、私たちはそれ自体のために善を選ぶ」 (ただし、人には原罪があるから自由意志は腐っている)
近代哲学の父 デカルトは『省察』にて
「意志はその本性上非常に自由であり、決して拘束されることはない。」 (でも自由すぎて間違うこともあるんだよね)
などと、この三人に限れば、いちおうは似たことを述べている。
彼らの時代にYahoo知恵袋があれば、わざわざ同じような話を本に書くほどのことはなかったのかもしれないが、実際はそうではない。彼ら同士の間でも絶対に食い違いがあるし、過去の時代に下ればもっともっと多様な見方が増えるのが分かる。
が、調べてみると感じるがどれもこれもパッとしない。
ということで、アプローチを変えるのです。
そもそも問い自体が間違っているのではないか? と。
その方法として、
まずそもそも「自由」という言葉がどれほど曖昧な困ったヤツなのかを話していく。
自由にある要素とは何か。
ひとつは「可能性の有無」。”できる”という可能性を重要視する要素。
もうひとつは、「判断の有無」だ。”自分”で決めた事実を重要視する。
これらを深掘りするために、あるモノを想像してほしい。
自由の可能性は、常に限界がある
そのあるモノとは、「完全に自由な存在」です。
「完全に自由な存在」っぽいものを、
何でもいいので想像してみてください。
ホントになんでもいいので、このイメージをなんとなく具体化してみてほしい。「面倒だな」という人も、やらないと先の面白さが減るので、出来ればやってほしい。
付き合ってくれた方、ありがとうございます。
飛ばした方はメッしたい。
あなたの想像したものが何だったかは分からないが、おそらく何かの法則を超越した存在ではなかっただろうか? 神様みたいな感じで法則をつくる側だったり、あるいはタイムスリップしたり空を飛んだりと、何かの法則に縛られない存在ではなかっただろうか?
あるいは、そんなトンデモなものではなくて、人間関係に恵まれて同調圧力にさらされない人とか、単なるお金もちだったり、あるいは自給自足の生活の人などを想像した人は、人間社会における法則に制約されない人が「完全な自由な存在」だと思ったのだろう。
では重ねて考えてみてほしいのだけれど、
あなたは「不完全な自由」というものがあると思いますか?
この質問が自由がいかに信頼できない厄介な存在かが明らかになる問いです。
仮に、この「不完全な自由」が無いということは、自由は常に完全である必要があるわけですから、さきほど考えた「完全に自由な存在」以外はすべて「不自由な存在」であるわけで、おそらく大体の人はそれは自分自身を含まないでしょう。
その場合はあなたは「自由」ではないということになる。
それを受け入れるかどうかはともかくとして、
いや「不完全な自由」もあるんだ、ということなら。
それは一体「不自由」とどう区別するのでしょうか?
その区別は「不自由な状態」を二つに分けるだけではないですか?
どうでしょうか?
ここに、自由について重要視されがちな”できる”という可能性についての話に重要な示唆が生まれます。可能性は常に限られるから、際限のない自由はないという示唆が。
また、実は神様ですら、この論理で言うと自由とは言えなくなります。
全能のパラドックスというものがあるので、よければそれもどうぞ。
面白いですよ。
で、次は「意思」というものが信じられない言葉かという話をしたいです。
意思の限界「させられた」と「した」は違うのか?
いきなりですが、ハードル走をしていると思ってください。
あなたはトラックのレーンを走って、ハードルを飛び越えて行きます。
では質問です。
あなたはハードルを「自分の意思」で飛び越えましたか?
それともハードルによって飛び越えさせられましたか?
どっちでしょうか? 考えてみてください。
これと話が変わるようで、同じ話をします。
カメノコテントウという名のテントウ虫は、ヤナギルリハムシという虫の幼虫が好物で、多ければ一日100匹も食べるそうです。
しかし、テントウムシの視力は0.01ほどとされ、好物の幼虫を見つけることはテントウ虫にはできないはずです。では、どう見つけるかというと、ヤナギは幼虫に葉っぱを食べられているときに、それを示すパターンで科学物質をたくさん放出するらしく、テントウ虫をそれを手掛かりにして見つけ出しているそうです。
で、これがどう「自分の意思」と関係するかというと、この時にテントウ虫は「自分の意思」で幼虫を食べているのでしょうか? それとも「ヤナギの意思」で食べさせられているのでしょうか? いや、そもそも「ヤナギの意思」なんてものがあるのでしょうか?
どうでしょうか?
もしハードル走でもテントウムシでも「飛んだのも、幼虫を食べたのも、それぞれ自分の意思だ」と思うのなら、、、
カタツムリの寄生虫でロイコクロリディウムというものをご存じですか?
リンク先に画像があります。要注意。
(カタツムリの二つの角みたいなところ寄生する、緑色のウニウニしたやつです)
この寄生虫に住みつかれたカタツムリは、目立つところに出てきて、その緑色の触覚をまるで芋虫のように動かします。この行為は「自分の意思」でしょうか?
仮に、これらに違いがある考えるなら、例えば……
厳しい教育ママの子どもが、行きたいと思わない大学のために勉強させられている場合、これは「自分の意思」と言えるでしょうか? 別に寄生虫にコントロールされているわけではないですが、特定の大学への受験勉強を誘導する圧力は間違いなくあると言えそうですが。
これらの問いが示唆する重要なことは、
私たちが何かの行動をするとき、常にそれは自発的なものとは言い切れないということです。
自分で決められることなど、一つもない
私の友人のエピソードで、まさにこの「何が自分の意思で決めたことなのか?」という問いがいか複雑な問いか、ということに気づいたエピソードをひとつ紹介します。
その友人が『プラダを着た悪魔』という映画を見ているときだったそうです。主人公の秘書の女性はファンションの巨匠の秘書になってしまうですが、彼女はファンションに興味がないのです。あまりの無頓着さに、その上司であるファッション業界の巨匠から、怒られるシーンがあったそうです。それはちょうど、その巨匠が次に流行らせる服を考えているときのことです。
「(あなたは)家のクローゼットから、その冴えないブルーのセーターを選んだ」
「でもそれはブルーじゃない」
「セルリアンよ」
「セルリアンは(あなたが買う以前の)8つのコレクションに登場。たちまちブームになり全米のデパートや安いカジュアル服の店でも販売され、あなたがセールで購入した」
「でも、とても皮肉ね」
「”ファンションと無関係”と思ったセーターは、そもそもここにいる私たちが選んだものよ」
その友人は「自分の意思」という物の存在にこだわりがあったらしく、
「自分で決めた」つもりが、実は「他人が決めた」ものだったりする、という可能性に愕然としたそうです。
つまりどういうことか?
「自由意志」などというものは、「同じもの」を見て「在る」とも言えるし「無い」とも言えるほどの話でしかない、ということであり、これがまさに「ワタシたちに自由意志があるか?」という質問が無意味なたった一つの理由です。
もしそうなら、私たちが問うべき質問はこうではないでしょうか?
「一体”何を”、”なぜ”自由意志と”すべき”なのか?」です。
太字にすべき部分は、決して自由意志ではないと私は考えます。
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