10. モーセの角

題:モーセの角

■ミケランジェロの聖書
 ミケランジェロの有名な彫刻作品モーセで、モーセの頭から二本の角が生えているのは、聖書の間違った翻訳のためだ、とよく言われます。聖書のもとの文では、「彼の顔の肌は光を放っていた」となっているのに、ミケランジェロが使用していた聖書翻訳(ウルガタ訳)はそれを、角が生えていた、と誤訳していたために、あのようなモーセ像が出来上がったのだ、と。

 問題の箇所は、新共同訳では次のように訳されています。

モーセシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった…。モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。(出エジプト34:29-34)

 モーセは以後、おそらく二度と、民の前で自分の素顔を見せることはありません。
 ミケランジェロが読んでいたと思われるラテン語訳聖書では、「光を放っている」が、角を生やしている、となっています。では、なぜラテン語訳はそんな訳にしてしまったのか。実は、ラテン語訳は決して間違ってはいないのです。

■誤訳ではない
 「光を放つ」という文を「角を生やす」と訳すことは間違いではなく、むしろそのほうが自然なのです。なぜなら、同じ単語は聖書のほかの箇所ではほとんど、角を生やすという意味で登場するからです。光を放つと訳す方がイレギュラーです。したがって角を生やすという訳文を、誤りだと断罪することはフェアではありません。ミケランジェロのあのモーセ像は的外れではないのです。

■王なる神の象徴
 ある人は、モーセが角を生やしたという訳は間違いではなく、それは古代中東の浮彫などで、王たちの冠に角が生えている姿を想起させるゆえに、モーセが神のような権限を持つようになったことを象徴している、と解釈しています。それと同時に、モーセの顔は光を放っていただろう、と。王から光線のようなものが放出されている図像もあるからです。これは折衷的な解釈です。

■顔の変形
 それに対し、私は、モーセの顔の肌が変形してしまったのだと解釈してもいいだろうと思います。「顔の肌」が光った、ないしは、角が生えた、と書かれているからです。モーセの顔面は隆起してしまったのでしょう。それを「角が生えた」という言葉で表現しているのだと思います。顔に角が生える、というのはたしかに普通の光景ではありません。

■モーセと皮膚病
 しかしモーセにとって肌の異常は驚くほどのことでありません。なぜならモーセは主と初めて出会ったときに、手を白くされているからです。

主は更に、「あなたの手をふところに入れなさい」と言われた。モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、そらから出してみると、元の肌になっていた。「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを聞かないとしても、後のしるしが告げることは信じる」(出エジプト4:6-8、新共同訳)

 聖書では奇妙なことに、モーセと皮膚の異常は意外にも密接に結びついています。モーセの姉のミリアムも、重い皮膚病にかかっています(民数記12:10)。どうして皮膚の異常がモーセと結びつくのか、それについてはいろいろ考察することができますが、ここではそれに触れません。

■白覆面の男たち
 国宝となっている『一遍聖絵』という十二巻の絵巻物があります。それは一遍上人の生涯と、彼につき従った「時衆」と呼ばれる弟子集団の旅を描いたものです。
 その集団の中に白い覆面をかぶった人たちが描かれています。それは癩者ではないか、と言われています。一遍の弟子たちは、浄・不浄の区別なく極楽往生できると考えており、さまざまな社会層の人びとを自集団に招き入れ、こうして癩病者という被差別者もそれに加わったとされているのだそうです。『一遍聖絵』の白覆面の人たちは、それを表していると。
 その絵を見ると、モーセの覆面も皮膚病にかかわるのではないかと、思えてきます。

■結論
 ミケランジェロのモーセ像の角は必ずしも、聖書の描写から逸脱した描写ではありません。物語中のモーセの「顔の肌」には角が生えていた可能性があります。ただし私の解釈では、その姿はミケランジェロの彫刻のように荘厳なものではななく、人目を避けて覆面をしなければならなかったような、いわゆる醜いものでした。

2021/01/21
作:Bangio

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