17. イエスは本当にメシアなのか(上)

題:イエスは本当にメシアなのか(上)

■「そうです」
 新約聖書の『マルコ福音書』において、主人公イエスは、他の登場人物によって、彼がメシアかどうかを尋ねられます。

 そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。(マルコ14:61-64、新共同訳)。

 ここで大祭司はイエスに「お前は…メシアなのか」と単刀直入に質問しています。それに対してイエスは、「そうです」と回答しています。では、イエスはこの場面にいたって、自らがメシアであることを宣言したのでしょうか。『マルコ福音書』は、イエスがメシアであると結論付けているのでしょうか。その疑問に答えるために、『マルコ』におけるイエスのアイデンティティをおさらいしてみたいと思います。

■「あなたは、メシアです」
 それより前、『マルコ福音書』8章では、弟子ペトロがイエスがメシアであると宣言しています。

 そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。(マルコ8:29-30)

 ペトロのこの回答は正しかったのでしょうか。イエスはその正誤については明言せず、ただ緘口令を敷くだけです。しかし、上述のように物語の終盤、大祭司の尋問に対して「そうです」とイエス自ら答えているため、ペトロの回答が正しいことが証明されたと、読者は思うに違いありません。

 実際、イエスが「そうです」と答えた後の処刑の場面では、さっそく見物人たちがイエスをメシア呼ばわりしています。

 同じように、祭司長たちも律棒学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」(マルコ15:31-32)

 大祭司による尋問でのイエスの回答は、登場人物たちによって、イエスが自らをメシアと認めた発言として受け止められているのです。「お前は、メシアなのか」という問いにイエス自身が「そうです」と答えており、一番弟子ペトロもイエスをメシアだと証言している。やはりイエスはメシアなのだ、と誰もが結論付けると思います。

■神の子
 加えて、大祭司はイエスに対して、「お前はほむべき方の子…なのか」とも問うています。イエスは神の子なのか、ということです。この質問にもイエスは「そうです」と答えているので、『マルコ福音書』はイエスをメシアと同時に神の子として描こうとしているように見えます。
 イエス本人だけでなく、「汚れた霊」もイエスを神の子と宣言している場面もあります。

 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。「いと高き方の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。(マルコ5:6-8)

 この場面の汚れた霊は、イエスの正体を見抜いていたのでしょうか。『マルコ』では、汚れた霊だけでなく、他でもない神本人(?)がイエスを自分の子だと宣言しているため、読者はいよいよ、イエスを神の子だと信じるようになるに違いありません。

 すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(マルコ1:11)

 そして『マルコ福音書』自体が、冒頭で、同書を「神の子」についての物語だと主張しているのです。

 神の子イエス・キリストの福音の初め。(マルコ1:1)

 以上の諸場面を踏まえて、イエスが大祭司の尋問に対して「そうです」と回答する場面を目にしたとき、読者は、『マルコ』物語が大団円を迎えたと感じるに違いありません。神の声、汚れた霊、ペトロの証言は正しかったのだ、と。なるほど、『マルコ』はイエスが神の子にしてメシアなる方であったことを証明する書物なのだ、と。
 しかし、このわたしはその解釈に少し待ったをかけたいです。「そうです」は本当に「そうです」を意味するのでしょうか。

2021/01/29
作:Bangio

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