フィレンツェでのこと


ーある画家との出会いで学んだことー

ヨーロッパでどこが一番好き?と聞かれれば「フィレンツェ!」と即答するほどこの街が大好きな私だが、苦い想い出がある。 それは何気なくこの町を訪ねたときのこと。町の中央に位置するポンテオ・ベッキオという橋の一角で、この橋を書き続けている日本人の画家に出会った。歳の頃50代後半。ひたすら何かを追い求めながら描き続けている姿に、かつての自分が重さなった。答えがみつからないまま苦しんでいたイギリスでの3年間。そんな私をたくさんの人が手をさしのべてくれて今の私がいる。漠然とこの画家を見て、「この人に今できることは何だろう?」と自問した。
結果、生まれて初めてお金を出して彼の絵を買い求めた。当時の値段で700マルク。(日本円にして5万円ほど)。私にとっては大金であった。 私の親切心はそこにとどまらず、一枚でも絵が売れることを願い、彼の個展を当時主宰していたNOP法人主催の絵画展の開催を申し出たのだった。さっそくドイツにもどり、市内の日本人が経営する軽食喫茶店での個展の開催が実現した。費用はすべて当方で負担。しかし、残念ながら絵は一枚も売れなかった。目利きの友人曰く「何かインパクトがないのよねー」。そもそもその画家は絵画を学んだことがなく、好きで描き続けていると言っていた。私も絵画にはまったく造詣はない。今考えてみれば随分安易に決して少額ではない費用をかけて個展など考えたものだと思う。その画家はきっと大きな期待を寄せていたはずだ。一枚も売れず、さぞかし本人は落胆したことだろう。
フィレンツェに戻った彼からある日、分厚い封書が届いた。内容は「私にだまされた!」「私という人間はいかに嘘つきで、信用おけない人間である!」などなど誹謗する言葉が並び、脅しのためか、手紙がナイフで切り刻まれていた。テレビか映画でしかしらないことが目の前で起こり、震えがとまらなかった。手紙の最後は彼なりの脅し文句だろう、「弁護士に訴える。日本人社会に暴露し、デュッセルドルフで生きられないようにする!」と書かれていた。
実はこの脅迫めいた一文にホッとした。それは世間を知らない彼の精一杯の殺し文句だと気づいたからだ。『弁護士』『社会から葬る』などからだを張って組織を牽引する人間には何の脅しにも脅迫にもならないからだ。この一言で救われた気持ちになった。
早速、彼の住むフィレンツェの弁護士にことの次第を説明してことの収束を依頼した。夜行列車で現地に入り、弁護士を交えた話し合いの場がもたれた。 驚いたことにそこにはあの手紙の内容とまったくテンションが異なる画家の姿があった。彼にとっては一大事の「弁護士」が目の前に現れ驚愕したのは彼本人だったのだ。 画家は自分の作品を山ほど抱え「この度のことは大変申し訳なかった。迷惑でなければこれを受け取ってもらいたい」と小さな声で言う。この豹変ぶりに驚くばかりであったが、彼の想像する弁護士の世界で、自分の正当性がないことを自覚したのかもしれない。
しかし、なぜこのような狂気の沙汰になったのか。自分ではまったく理解できなかった。好意で行ったことがこうした恨みつらみになったのか。
私なりに理解できたことがある。
イギリスに暮らした3年間、私はキリスト教の信仰に反発する自分に苦しみ、そんな私を助けようとした人々の愛に応えられない自分を受け入れられなかった。教会の教えも人々の愛の理解も偽善に見え、そんな自分も許せなかった。しかしどこかで善き人でありたいと願い続けていたのではないか。
 この画家との出会いもそれにつながる一連の出来事も中途半端な愛をかざしたために起きたのだと教えてくれた。中途半端な愛も親切も人を救えないこと、そればかりか見当違いの「夢」を与えて傷つけてしまったこと。夢が膨れれば膨れるほど、破れたときの衝撃、落胆、失望が大きかったに違いない。行き場のない怒りが発信元の私に向けられたのも理解できる。
世の中には、自分では計りえない価値観で生きている人がいる。善い人になろうとしても人は救えないこと。なにもかも中途半端な自分であった。
残念ながら、気づいたのは何年も経ったあとのこと。さぞかし同じ過ちを繰り返してきたんだろうと思う。


ベッキオ橋
フィレンツェの大聖堂

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