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反出生主義とヴィーガニズム

反出生主義(はんしゅっしょうしゅぎ、英: Antinatalism)とは、子供を持つことに対して否定的な意見を持つ哲学的な立場である。
反出生主義 - Wikipedia
ヴィーガニズム(英: veganism)は動物に対する搾取と残酷行為を可能で実践できる限り無くしていこうという倫理的立場。
ヴィーガニズム - Wikipedia

反出生主義ーアンチナタリズム
完全菜食主義ーヴィーガニズム

近年世間に広く普及している印象の二つのこの主義。
そしてこれらどちらか一方の思想に理解を示す人は、もう片方にも理解ないし興味を示している印象がある。どういう関係なのか。親戚かな。
そのことについての私見を以下に超簡単に述べてみる(既にどこかでまとめられてるだろうけど、自分で整理する為に書いてる感じなのでその辺りはご了承賜りたく)。

《目次》
1.なんで反出生主義者?なんでヴィーガン?
2.倫理という共通点
3.反出生主義者&ヴィーガンじゃないとダメなの?
 〇反出生主義者はヴィーガンであるべきか
 〇ヴィーガンは反出生主義者であるべきか
 〇…というわけで
4.まとめ

1.なんで反出生主義者?なんでヴィーガン?

なぜ反出生主義者は「子供を生むべきでない!」などと主張するのか。
なぜヴィーガンは「肉を食うな!毛皮製品使うな!」などと(ry
まずその理由についてざっくりまとめてみる。

〇反出生主義
・倫理的判断(「出生=害悪」である以上、これを行うべきでない)
・責任の視点(親と子の責任の非対称性の問題)
・社会的判断(人口管理、優生思想、トランスヒューマニズム他)
・人間害悪論(地球環境や宇宙にとって人間は消えるべき)
・自己正当化(生の負い目からの解放、フリーチャイルド)

〇ヴィーガニズム
・倫理的判断(生命倫理、動物福祉)
・宗教的判断(教義としての食肉の禁止)
・環境的判断(酪農・畜産による環境被害防止)
・健康的判断(食肉による不健康、菜食による健康)
・社会的判断(大規模酪農・畜産への反対)
・直観的判断(かわいそう)

それぞれその主義に賛同する理由は、多岐に渡ると思う。
しかし、これらの主義者たる大多数の人がその理由としてあげているものは、やはり「倫理」であるように思われる。
何が正当な主義なのか、の話はここではしない。ただ、その点でも倫理を根拠としたものが王道であるように思われる。

2.倫理という共通点

ところで「倫理」ってなんぞや。

①人倫のみち。実際道徳の規範となる原理。道徳。
②倫理学の略。
倫理 - 広辞苑無料検索

なるほど、わからん。
調べてみても「道徳」と同義だったり、かと思えば内包されてたり、区分けされてたり…言葉は難しい。

でもこの「倫理」を自分なりに言葉にしてみるのなら、それは「人としてかくありたい」という直観的かつ普遍的な気持ちを言語化したものなのではないかと思う。そしてそれがそのまま自然法として扱われ「かくあるべし」という「倫理学」を形成し、さらにそれらに基づいて集団や社会の中で培われた掟が「道徳」なのではないかと思う。

責任だとか、地球だとか、人類の未来だとか、社会だとか、健康だとかよりも、より直観的に行為や選択そのものに対して「そんなことはするべきじゃない」と思う感覚に従う。たぶんそれが「倫理」の本質だと思う。そして、この直観たる「倫理」が、人を反出生主義やヴィーガニズムへと向かわせる原動力となっている。つまり、「倫理に従いたいと思っている」「倫理的存在でありたいと思っている」ことが、この二つの主義者における共通点だと思う。

なので、この倫理的直観を持たない人(サイコパス)や第一に重視しない人(社会主義者、宗教家)は、反出生主義やヴィーガニズムと同じ卓に座ることはない。座る意義が見いだせないから(そもそも彼らは哲学に興味がないように思える)。そして彼らに、「だからなんだ」と返されたら、正直ぐうの音も出ないのが「倫理」の弱いところだと思う。
反出生主義もヴィーガニズムも、私個人は倫理的に正しいと思っている。けれど、その倫理は必ずしもすべての人間に対して絶対的な武器として機能することはない。あくまで一つの「正論」として流されるか、「宗教」だと謗られてしまう。この点はどちらの主義者も苦悩してることだと思う。

3.反出生主義者&ヴィーガンじゃないとダメなの?

じゃあどっちも倫理的存在でありたいなら、どっちも同じ存在ってこと?
これはよくある疑問。反出生主義者はヴィーガンであるべきで、ヴィーガンは反出生主義者であるべきなのか。

私が思うに、倫理の点で考えれば、一貫した反出生主義者はヴィーガンであるべきだと思うし、一貫したヴィーガンは反出生主義者であるべきだと思う。しかし、そうでなくては倫理的な理由でこれらの主義者であるとは言えなくなる、とまでは思っていない。

〇反出生主義者はヴィーガンであるべきか
反出生主義は「子供をつくるべきでない」という主義。その理由は「承諾のない他者(子供)への危害(出生)は悪」というもの。
これは他者たる対象を子供ではなく動物に置き換えてみれば、ヴィーガンの主張と同義になるように思える。そもそも反出生主義における誕生害悪論は何も人間に限った話ではなく、すべての有感生物に適用される。なので、特別人間びいきをするのでなければ、人間の生活の為に生産される動物たちの事も気に掛けて、ヴィーガンとならなければ倫理的一貫性がない、という指摘がなされる。

この指摘で重要なのは二点。
「考慮する範囲」と「直接的か間接的か」という視点である。

前者が意味するのは「自分の子供さえ生まれなければいい」なのか「人間さえ生まれなければいい」なのか「動物さえ生まれなければいい」なのか、はたまた「すべての有感生物を生まれなければいい」なのか、あるいは「宇宙全体における有感生物の発生可能性」まで考慮するのか、ということである。
この考慮範囲は反出生主義者の中でも割れていることだと思う。真の理想主義者なら極限まで考慮するのだろうが、実際多くの主義者は「自分は生殖しないし、出生を否定する」に留まることだと思う。となれば、動物のことは無視して牛丼を平然と食べる反出生主義者もいる。「まず俺たち人間が子供をつくるということが問題なんだ(お肉ムシャムシャ」。

一方、後者が意味するのは「自分が生まなければいい」なのか、「知り合いや他人に生ませないよう説得すべき」なのかということである。
自分が直接生殖をしないというのは多くの反出生主義者が実践していることだろう。ただし、間接的な否定すなわち他者の生殖について関与しようとする人は少ないと思う(SNSを通した不特定多数への反出生啓蒙はあるだろうけど押し付けはしていない)。
しかし、「生みたい人は生めばいい」などと公言するのは、「出生は無差別殺人に等しい」と思っていながら「誰かを殺したいなら殺せばいい」と言っていることに等しい。これは倫理を根拠とするなら矛盾してる印象を抱かれても仕方がない。
逆にこの点で態度が一貫しているのならば、本人のその倫理的スタンスを強固なものにするのだと思う。だから厳格には子供を持とうとする人に対して批判するべきなのだろう。
ただ、そこまでの完全性を全ての反出生主義者が持ったならば、ただ事では済まないだろう。極端な話、妊婦を堕胎させたり、生殖器を切除したり、不妊薬を水道水に混ぜたり、産婦人科を爆破したり、親自殺主義的に殺戮…なんてことになるまでいかずとも、「作るな!生むな!」などと押し付けるのは、人々を理解から遠のかせ、むしろ反出生主義的思想の排他へと人々を駆り立てることに繋がりかねない。それに「殺人をするな!」と言いながら相手をぶん殴る行為は、結局それ事態が「他者への害悪」となり、それを正当化するのは横暴というものだろう。
なので、間接的な反出生主義の完全な実践が、必ずしも全ての主義者に必要だとは思わない。そして間接的な実践が必ずしも必要でないというこの考えは、ヴィーガニズムの実践の必要性が必ずしもないという考えに繋がると思う。これをあえて直接的なものに置き換えるのなら、自分の飼っているペットや家畜に子供を生ませない、だろうか。この程度の実践に留めるのは、良く言えば現実的態度、悪く言えば妥協である。しかし主義には反さない。

〇ヴィーガンは反出生主義者であるべきか
ヴィーガニズムは「動物の搾取と残酷行為をやめるべき」という主義。その理由は「人間の利益の為に動物を苦しめることになるから」。
しかし一人の人間を生かすために、直接的にも間接的にも動物はある程度搾取され残酷行為の犠牲とならざるを得ない。今生まれた子供が死ぬまでに消費する動物の尊厳と命が、その子供が産まれ生きることの価値に釣り合うのだろうか。釣り合うと思うのは、人間、そして我が子へのバイアスが強いからではないか。あなたが子供を持たなければ、あなたの子供を生かすために犠牲となる動物たちがそうならずに済むのではないのか。動物のための倫理を理由とするのなら、自分の子供ばかり例外として産むことを正当化するのは一貫した態度とはいえないのではないか、という指摘がなされる。

この指摘も二点が重要となる。
「積極的か消極的か」と「貢献可能性」という視点だ。

前者が意味するのは、「自分(たち)が動物由来のものに頼らない」ことで十分なのか、「人間社会の動物搾取を止めさせるよう活動するべき」なのか、ということである。
ヴィーガンを名乗る人は動物由来のものに頼らないようにしているのは当たり前の話。けれど、全てのヴィーガンが積極的に動物たちのために社会活動を行っているかといえば必ずしもそうではない。暇があったらデモに参加しなくてはいけない、余剰資金は動物愛護につぎ込むべき、なんなら自殺するべき。そこまで思っているヴィーガンは少ないと思う。
あくまで多くのヴィーガンが取っているのは、生きるために動物に頼ることを最小限にしようという消極的な態度である。動物たちの利益の最大化の為に、自己犠牲を払うまでの積極的な態度はとらない。
そして自身ないし人間の生殖は、当然の権利あるいは義務として自然に成立するものだという認識を持つのならば、「子供を意図して作らないこと」は積極的な自己犠牲に含まれることになる。なので、ヴィーガンでありながら子供を作ることは、恐らく消極的なヴィーガニズムにおいては矛盾しないのだと思う。そういう人は恐らく、自分の子供の治療に動物由来の薬が必要となったら、迷わず「必要だから」と使用するのだろう。都合が良いように見えるが、誰もが極限まで積極的でなければヴィーガニズムではないとしてしまえば、その実践困難性によってヴィーガニズムの潮流は死んでしまい、動物たちは結果として救われないままだろう。これを現実的ととるか、妥協ととるかは人に依る。

一方の後者が意味するのは、「その生まれた人間の子供が、動物たちの為に社会を変革することに貢献する可能性」があるということである。
人間の子供を生む行為がそれそのものとして、搾取される動物たちにとっての害悪となるのだとしても、その子供がヴィーガンたる親の思想に影響され動物愛護的活動を行い、結果として動物たちの利益となる。という構図は大いにあり得るし、実際親子でヴィーガンという存在は多い。この親子間における主義の継承は反出生主義にはまず見られない(というか反出生主義が特殊)。
これに対し、なら養子をとってヴィーガンに育てればいい、という指摘もあるだろう。これは最もな意見だと思う。最善は恐らくこれであろう。
しかしこれについて、養子の子育てや親子関係の複雑性という問題を無視することはできないし、そもそも養子をとることの困難性もあるだろうと思う。実子だからこそ、自身の信念を託すことができるということもあるのだと思う。実行すべき最善の手段は養子だろうが、それが最良の結果を生むとは限らない(これはそもそも「貢献可能性」についても同様にいえるわけだが)。それにヴィーガニズムを結果主義的に見るのなら、そこまで手段が厳格であることは求められないと思う。

〇…というわけで
反出生主義者=ヴィーガンとは必ずしもならないと思う。
ただ、どちらも突き詰めればその根本的倫理は「他者(動物)への危害は悪である」というもので一致する。ならば、そこから導き出される片方の主義を無視することは本当のところは難しいのも事実であると思う。
肉を食べればその分、動物(有感生物)が生産される。
子供を生めばその分、動物が搾取される。
だから実際、反出生主義者かつヴィーガンである人は多いし、彼らにとって、そうではない片足だけの人は中途半端で怠慢であるように見えるのだと思う。
しかしそれでも、その片足だけの存在はそれぞれの主義の潮流に少なからず寄与しているだろうし、まったく無意味という訳でもないだろう。個人としての在り方が矛盾していても、取り得る主義の立場としては妥当であることに変わりはないのだから。
それにそもそも、これは全ての主義に言える事だが、主義への同意と実践は別の話である(外から見れば都合が良いように見えるけど)。肉食獣たるライオンが菜食主義の正しさを語っても、そのことでライオン自身への非難こそあれ、その論理を批判する材料にはならない。実践せずとも、主義に同意するのならば反出生主義者であり、ヴィーガンたりえる(一応ね)。片足であっても主義者を名乗ることはできるし、語ることもできる。

4.まとめ

・反出生主義とヴィーガニズムは倫理で繋がった親戚。
・反出生主義者=ヴィーガンじゃなきゃだめってことはないんじゃない?

散々されてる話だろうけど、自分で考えてみると結構楽しいものがありました。難しいねぇ。難しいよ。ね。なんだこれ。

ハトの餌になります。