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“良さ”の3次元

「○○は良い」「○○は悪い」
そんな当たり前に使われる「良い、悪い」という言葉。
何かを考える時、主張する時、説明する時、説得する時、私たちは「こっちが良くてそっちは悪い」の様にとにかくこの言葉を使う。

しかし、そんな「良い、悪い」という話が、人と一致しないことが多々ある。その理由は大抵「価値観が違うから」という一言で片づけられてしまう。
また、自分の中でも「良かれと思って」選択した事が「実は悪かった」という事も起こりえる。なんでこんなことが起きてしまうのか。

私はその理由は、「良い、悪い」というこの言葉の持つ曖昧性によるものだと思う。「これは良い」という文章の持つ意味が広すぎるのだ。

この言葉の示す意味を明確にする為には、具体的な説明を付け加える必要がある。そこで、考えるべき視点を「良さの3次元」なんて名付けてこの記事で紹介してみる。似たような考えはたぶんどっかにあるだろうから、2番煎じかもしれない。

1.良さの三つの観点

一般に使われる「良い、悪い」という言葉が持つ「良さ」は、三つの観点を持っている様に思う。

<対象>誰に、あるいは何にとって良いか。
<効果>どの面で、どの程度良いか。
<時間>どれだけのスパン(期間)において良いか。


「良さ」が持つこれら「対象」「効果」「時間」の三つの観点が、それぞれ明確になることで、「良い、悪い」という言葉の意味も明確になる。
これは丁度三次元座標のX,Y,Zが入力されることで点Pが確定する様なイメージ。なのでこの三観点の考え方を「良さの三次元」とでも名付けてみる。

それぞれの観点を、以下に一つずつ説明していく。

2.<対象>誰に、あるいは何にとって良いか。

まず「良さ」の<対象>について。
これは、「良い、悪い」という言葉が意味するのが、「誰にとって良いのか」あるいは「何にとって良いのか」という、良さを享受する対象、その主体が何なのかという観点である。

例えば、戦争について考えてみる。
戦争における「良さ」の対象は何か。

まず国家が挙げられる。戦争というものは仕掛けるにせよ、仕掛けられるにせよ、戦争という決定を双方の国家が選択することで発生する。
攻められた国が「戦争は悪い」からと言って、降伏して無抵抗で占領されることはほぼない。ほぼ必ず防衛という形で戦争を始めるに至る。これは戦争を選択したということだ。
戦争が双方の国家にとって「良い」選択とされるから戦争が起こる。そうでないのなら、戦争は始まらないからだ。

次に国家の他の対象として、国民が挙げられる。さらに国民は、一般市民、軍人、政治家、資本家など多様な個人に別けられる。また団体や組織として、政治団体、宗教団体、軍組織、企業、地方団体、家族など大小様々なコミュニティーに別けられる。
国家にとって戦争が「良い」とされたとして、これら個人やコミュニティーにとって同じく戦争は「良い」とはならないだろう。戦争をした方が良いと思う人もいれば、戦争はしない方が良いと思う人もいる。それは、戦争がもたらす<効果>が個々の<対象>によって異なるからだ。

戦争の「良さ」が語られる時の「良さ」とは、国家や軍、政治家や一部の軍事企業にとっての良さであり、多くの国民にとっては「悪い」というのが常だろう。いくら「御国の為が自分の為」と諭されても、国の勝利の為に自分や自分の家族を犠牲にすることが「良い」と誰もが本気で思えるだろうか。

語られる「良さ」が一体誰にとって、何にとっての「良さ」なのかを意識しなければ、本当に大切なものにとっての「良さ」を蔑ろにしてしまうことになりかねない。それは本当に“自分にとって”の「良さ」なのか。
だからこそ、この「良さ」の<対象>という観点は特に重要だと思う。

3.<効果>どの面で、どの程度良いか。

次に「良さ」の<効果>について。
これは「良い、悪い」と言う時に、それがどのような面で、どの程度良いのかという「良さ」の実際のメリット(効果)についての観点である。

これも同じく、戦争を例にして考えてみる。
“国家”にとっての戦争の「良さ」とは何か。

ある国が戦争を仕掛ける目的は、戦争を始めること(そして勝利すること)で何かしらの国益を得ることだ。
この国益とは、領土の獲得、賠償金の要求、政治的・宗教的優位性の確保などなど多様な面を持つ。そして、それらを得る為に、国家は人、金、時間、文化、社会秩序、国際的信頼など多くの代償を支払うことになる。
この戦争でどれだけの人が死に、どれだけのお金が費やされ、どれだけの時間を失うのか。そして、勝利することでどれだけのものを得る事ができるのか。
それらを総合的に考えて、最終的に国家が「戦争をした方が良い」と判断した時、戦争が始まる。

この様に、戦争が「良い」とされた場合でも、その内訳が全て「良い」もので構成されている訳ではない。例え戦争に勝利したとしても、その戦争の結果の全てが「戦争をして良かった」と物語ることはない。戦争で失ったものが、戦争で得たものに本当に見合うのか。戦後に考えない人はいないだろう。

語られる「良さ」はあくまで総合的な評価を意味するのであって、何においても一律の「良さ」を持つ訳ではない。ある一つの「良さ」は、複数の「良さ」によって構成されている。ある選択には、必ず「良い面」と「悪い面」があり、恐らく絶対的に「良い」ものはない。
この視点を欠いて、単純に「良い」とされるものを選択することは危険である。「良さ」の<効果>を意識すれば、「それは良い」に含まれる思いがけない「悪さ」を認識しておくことができる。良かれと思って…と後悔することも少なくなるのではないだろうか。

4.<時間>どれだけのスパン(期間)において良いか。

最後に「良さ」の<時間>について。
これは「良い、悪い」というのが、今においてなのか、今日においてなのか、今月、今年、5年、10年、20年、一生においてなのかという、どれだけの時間の規模において「良い」のかという観点である。

これもやっぱり、戦争を例に考えてみる。
戦争によって領土を得ることの国家にとっての「良さ」とは何か。
(複雑だぁ…)

領土は国家が国家たる為に重要なものである。そして、広い領土は人が住む為にも、食糧や物を生産する為にも利用され、それはそのまま国力に繋がる。だから例え戦争をしたとしても領土を得たり、守ったりすることは“国家”にとって大抵「良い」ことである。

しかし、戦争で領土を得ることの「良さ」には即効性がない。占領地が自国の領土となったとしても、その地域が使える状態じゃないかもしれないし、住む人々やコミュニティーが、何の混乱もなく自国民になることはないだろう。むしろ、地域の復興の為に多額の資金が掛かったり、民衆が反抗したりするリスクを背負うことになりかねない。
領土を得ることによって、こういった「悪い」ことも背負わなくてはいけなくなる(<効果>)。その「悪さ」を対処し乗り越えれば、結果としては領土を得たことが「良い」ことになるだろうが、対処できなければ「悪い」結果を招きかねない。領土を得る事が本当に「良かった」と確定されるには、時間も手間も掛かる。蓋を開けてみなければわからない。時間が経ってみないとわからない。

これは、かつて大日本帝国が大東亜共栄圏を目指し領土を拡張していき、軍部の暴走を止められなくなったことが例にあげられる。領土を広げすぎ、どこも捨てることができなかった故に、戦争が起きてしまった。
日本に原爆が二度落とされる事になるとわかっていれば、歯止めのない領土獲得が必ずしも日本にとって「良い」ことではなかったと気付けただろう。

今「良い」と思われる選択が、数年後には「良かった」と言えるだろうか。
もちろん、そんなことを際限なく考えていては何も判断できない。未来の事は誰にもわからないから。
けれど、目の前に見える時間の範囲だけで物事を判断する事は、結果として後悔を招きやすい。今目の前にある「良さ」は将来においての「悪さ」かもしれないのだから。
だから、なるべく色んな時間の物差しを使って、それぞれの「良さ」を測るのが手段として“良い”と思う。

昔の失敗が、今になっては良かったと思える事もあるだろうし。

5.まとめ

《良さの三次元》
<対象>誰に、あるいは何にとって良いか。
<効果>どの面で、どの程度良いか。
<時間>どれだけのスパン(期間)において良いか。

人間は一日に35000回も選択しているらしい。
「こっちよりあっちが良い」
「それは良いけどこれは悪い」
そんな無意識的とも意識的とも行われる判断を機能させている「良さ」の基準が一体どこにあるのか。

間違ったり後悔したり、悩んだりしてる時に、「何が本当に良いのだろうか」と一人考えることがある。
それで、「良い」という言葉の意味について考えて、「良さの三次元」という考えに思いついたりしたのであった。

そんな考えを描いた記事であった。おしまい

ハトの餌になります。