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反出生主義は人類にとってのアレルギー反応の一つなのかもしれない

タイトルを見て、まず感じられたであろうこの記事のイメージに対して、先に弁明しておきますが、この記事は「反出生主義はアレルギー反応だ!間違ってる!」の様な安直な批判をする為に書いたものではありません。
むしろ私自身は反出生主義に対して哲学的にも実存的にも強い興味関心を抱いており、よりこれに関する議論が活発化することを望む態度をとっている者です。いわゆる、“アンチ”ではありません。というか、今のところ、倫理的に反出生主義は正しいという判断です。むしろ反出生主義者です。
さらに予防線を張らせて頂くのなら、これは結局私個人の私見であり、思いつきのような文章でしかありません(もっともnoteはそういう場所だよね?)。斜に構えることもなく、適当に楽しんで読んでくれたら幸いに思います。

…と、前置きを置いた上で、そんな思いつきをさっそく以下に書いていこうと思います。

1.反出生主義の福利と福祉

反出生主義(はんしゅっしょうしゅぎ、英: Antinatalism)とは、子供を持つことに対して否定的な意見を持つ哲学的な立場である。
(反出生主義 - Wikipedia)

反出生主義はざっくり「出生することは当事者にとって害悪であり、故に子供を作るべきでない」とする思想である(だよね?)。これを読点で区切り、前半と後半にわけて考えてみる。
前半の「何故出生が害悪なのか」という所謂「誕生害悪論」については、ベネターの非対称性論証やQOLの議論(ロシアンルーレットの例え)などを参考にしてもらえば、いくらでも説明されてるだろうし、特にここでは言及しない(というかこれを読んでる人は、大方みんなわかってるだろうし)。
この前半部分は、所謂「福利」に関する議論だと思う。

幸福と利益。幸福をもたらす利益。
(福利 -広辞苑無料検索-)

その一方で、そこから後半の「故に子供を作るべきでない」という「反出生」に帰結する点。
これは所謂「福祉」に関する議論だと思う。

①幸福。公的扶助やサービスによる生活の安定、充足。
②消極的には生命の危急からの救い、積極的には生命の繁栄。
(福祉 -広辞苑無料検索- 部分引用)

反出生主義者が何故「子供を作るべきでない」と主張するのかといえば、それは「出生が害悪」かつ「了承なき他者への危害が悪」という倫理の元、出生による被害者が減る、ないしいなくなることを願ってのことである(個人に限って言うのなら、自分の子供に危害を加えたくないという思い)。 
個人の幸福(福利)を切に思うなればこそ、生まれないことによる幸福(苦の不在)を​個人や社会は推奨するべきであるとするのは、福祉的な論理である(安楽死の議論も福祉の話だよね)。

それで、仮に前半の福利の議論が「その人にとって生まれない方がいい」という形で一応の決着がついたとしよう(実際は議論中)。
しかし、ではなぜそれに基づいて個人や社会は反出生的立場をとる必要があるのだろうか。

そんなの当然だって?
個人の福利を考えた福祉に寄与することこそ「正しい」から?
では、その「正しさ」とは何か。

それについて考えることこそ「哲学」であり、事、生命や尊厳に関する領域は「倫理」だと思う(道徳とほぼ同義だが、ここでは倫理で統一する)。

2.倫理という免疫

①人倫のみち。実際道徳の規範となる原理。道徳。
②倫理学の略。
(倫理 - 広辞苑無料検索)

倫理については前に書いた記事で、その正体は「人としてかくありたい」という気持ちなのではないかと私は述べた。
この倫理を、別の言葉で言い換えるのだったら、道徳心や良心、あるいはもっと単純に心だろうかと思う。良き人でありたいという気持ち、悪い事はしたくないという気持ち、それは学習するものではなく、自然と身についているものである(もちろん全ての人が持っている訳ではないし、良心を一般化して語ることはできない)。

では、何故そんな「良心」を私たち人間は持っているのだろうか。
これについては、脳科学的な見地やスピリチュアルな見地など様々な観点から考えることができるだろう。
そんな中で、私はこの良心たる「倫理」を「人類社会が持った免疫機能」と捉えてみた。これは人類進化学とか社会進化論とかの領域だと思うけど、そこらへんはよくわからない。あくまで素人的発想に過ぎない。

生命というものは、種という組み分けがなされている。人間は人間、猫は猫、鮭は鮭、鳩は鳩、チューリップはチューリップ、バクテリアはバクテリア。そしてその種それぞれの生物的な目的は種を生きながらえさせることにある(と考えられている)。
なので、基本的には同種の個体同士は互いに敵対しないように振舞い、高度な種族になるほどむしろ協調することで集団として生き残ろうとし、社会を形成している(もちろん雌をめぐる雄の争いや「いじめ」という構図はどこでも見られるが、無差別な敵対とは異なる高度な理由を伴っている現象である)。
そして人間という種は、地球上で最も知性的に高度な存在となった。人間は人間同士で社会をつくり、言葉をつくり、国や法をつくり、神をつくった。
その過程で人間は「哲学」を見出し、「かくあるべし」という「倫理」をつくりあげていった。
例えば、その最たる例である「殺す」という行為が、どの社会においても最もな理由がなければ禁忌とされているのは、それが「人として行うべきでない」と私たち人間が認識したからである。これは動物には中々みられない。
そしてその倫理観に、社会の全ての構成員が意図せずとも自然に従う、すなわち個々人が「良く、正しく」生きようと求めることで、秩序ある社会は自浄作用的に維持される。

善を尊ばず、悪を許すコミュニティーは遅かれ早かれ崩壊の道を進む。生物史においても、歴史においてもそれは証明されている。仲間を助け、無為に殺し合わないから生き残れる。その逆は自滅へと向かう。
私たちが持つ「倫理」は、人類社会がそのように崩壊することを防ぐ為に、進化の中で身に着けていった「免疫」なのではないだろうか。他者を「殺す」「騙す」「傷つける」ことに躊躇し、後悔する、そんな良心の呵責は、私たちが自滅することを防ぐ「免疫」の反応なのではないか。
…そしてその免疫機能がより高度になっていった結果たどり着いた一つの反応、それが「反出生主義」なのではないかと思うのだ。

3.反出生主義というアレルギー反応

アレルギー(独: Allergie)とは、免疫反応が特定の抗原に対して過剰に起こることをいう。免疫反応は、外来の異物(抗原)を排除するために働く、生体にとって不可欠な生理機能である。
(アレルギー - Wikipedia)

「倫理」が人類社会を維持する為に獲得された「免疫」なのだとしたら、なぜそれが人類社会を終わらせる「反出生主義」という反応を示すに至ったのか。
それは私たちの倫理は、必ずしも「人類社会の維持」を根拠にしていないからである。倫理は人類社会の維持の為の免疫として機能しているが、常にそれを意識して形成されるものではなく独立して機能している。人の身体で例えるなら、脳の命令に依らず個別に機能している白血球の様なイメージである(実際は神経やホルモンを通して命令系は機能してるけど)。
「反社会的だから人を殺さない」のではなく、「人を殺すべきでないから殺さない」のである。
なので、その「倫理」を突き詰めていった結果、これが「人類社会の崩壊」に繋がる「反出生」を提起したとしても、倫理という免疫機能の中では矛盾しない。

「社会のために、正しくあれ」→「倫理」の獲得
「倫理」→「正しくあれ、例え社会が無くなることになっても」


こういった構図が起こっているのではないかと思うのだ。
これはさながら過剰な免疫によって生じるアレルギー反応の様に思える。
暴走した免疫機能が、細胞の増殖を阻害し、結果として死に至らせる…。
「子供に人生の苦痛を味わわせたくない」という思いによって、その様に思わせる倫理の目的たる「人類社会の維持」を攻撃するに至る…。

「反出生主義者は人類が滅んでもいいのか?」
そんな批判を良く目にする。
これに対し、反出生主義者はこう返すだろう。
「子供を犠牲にしてまで、人類を存続させる意味があるのか?」
さらにこれに対し、こう返してみる。
「じゃあ、その子供を犠牲にしたくないと思うその気持ちが、人類の存続よりも価値があると思う理由は何だというのか?」
私はこの強調した相反する二つの質問のどちらにも、明確な回答を持つことができない。
何故なら、ここでは倫理を道具とみるか、目的とみるか、というパラダイム(従うべき価値観)の違いが生じているからだ。個人が尊ぶもの(倫理)と社会が尊ぶもの(社会維持)の対立とも言えるのかもしれない(まぁ結局はどのパラダイムを採用するかという判断は個人によるのだけれど)。
倫理に従い滅ぶべきか、存続するために倫理を無視するか。
「反出生主義」の存在は私たちの社会にそう問いかけ苦悩させる。

<補足>
倫理に基づいたアレルギー反応は「反出生主義」だけではない。「動物愛護」「ヴィーガニズム」「環境保護」「ロボット倫理」…それらが正しいのなら、究極的には人間不在の方が良いのではないかとも思える。何もせずに、いなくなれば、何の間違いも犯さずにすむのだから。
これらもまた、成熟した倫理が引き起こした(反出生主義ほどではないが)自滅へと向かわせる免疫反応、アレルギー反応と成りえると思う。

4.抗アレルギー薬の開発

では、「反出生主義」が人類社会にとってのアレルギー反応なのだとしたら、それを治療することはできるのだろうか(治療するべきか否かについては論じない)。抗アレルギー薬の開発はできるのか。考えられる方法を5つ以下に述べてみる。

①出生の例外化
これは倫理が「人類社会の維持」を絶対的な前提としているとしたうえで、倫理に基づく「反出生主義」が示す「出生の害悪」について、例外とする方法。倫理と社会とのパワーバランスを明らかにする。
調理場で働くスタッフに、安全担当のマネージャーが「火事が起こるから」と調理場での一切の火の利用を禁止したら「本末転倒だ」と思うことだろう。だから、あくまで「調理をする上で使用する火」については、例外的に禁止する対象から外すのが当然となる。ただしタバコの火は厳禁。
この様に、倫理についてもまた、社会維持に必須の「出生」について、例え害悪だとしても容認される、という態度をとる。
そうすれば、「反出生主義」を理由に「子供を作るべきでない」とすることは矛盾しているとして、社会がこれを適用する必要はなくなる。
これは「出生が害悪である」という誕生害悪論以上に社会維持を重視するということになる。つまり、私たちの存在理由が自身ではなく、「社会」に依るということ。
「あなたはお父さんやお母さん、社会のみんなの為に生まれたのよ♡(あなたには悪いけれど)」

②倫理の除去
もっと単純に、「人間から倫理を取り除いてしまおう」という方法。すなわち、善悪の感覚を無に帰してしまうということ。
これは「了承なき他者に危害を加えることは悪」という反出生主義のキーポイントを破壊することになる。子供にとって出生することが害悪であっても、「ふ~ん、だからなに」という態度で子供を作り続け、何の矛盾も抱えず人類社会を維持していくことができる。つまり、全人類サイコパス化、ロボット化である。何なら赤ちゃん工場をつくって大量生産、少子化を解消してしまえばいい。…なんて、恐ろしいね。
しかし、そもそも倫理の存在理由が社会維持にあるのだとすれば、個々人の倫理的判断に頼らずとも維持される社会システムを構築することができれば、もはや人間に「良心」は必要ない。そうして機能する社会は今の私たちから見ればディストピアだが、社会そのものにとっては安定して維持されるベストな状態なのかもしれない。倫理時代の終焉。
まぁ、こんなのはSFです。

③言論統制、思想の排除
「反出生主義」に関わる一切の言論の規制、思想の排除を行う方法。これこそ対処療法って感じ。抗ヒスタミン療法。
この場合、「生まれたくなかった」などと嘆いているうちはまだ見逃されても、「そもそも生まれる意味ってなんだ?」などと哲学し始めたら、社会維持警察がやってきて“教育”させられることになる。『1984』かよ!
でも、現に実質共産社会主義国家であるC国なんかでは、政治批判をしただけでしょっぴかれるらしいので、あながち将来ではあり得ない方策とも限らない。
少子化問題に悩む日本で「反出生主義」を唱えることは、やれ非国民だ、やれ国家滅亡論者だと謗られても致し方ないのだろう。だって国滅びるもんね。
実際には、そもそも反出生主義を全ての人が受け入れる事態が起こるとも思えないが、国家維持の為に一定の思想を排除した例は、どの国の歴史を見てもあるのが事実。これはあながちSFだとも言えない。


④苦痛の除去
これは「人間の苦痛の一切を取り除いてしまおう」という方法。例えるならアレルギー症状で苦しむ人にコカインを注入する感じ。こわい。
生まれた時点で、或いは当人が望んだ時点で、手術なり快楽機械なりで「一切の苦痛」を取り除いて感じられなくしてしまう。そうすれば「生まれて来たくなかった」などと嘆くこともなく、「あぁ^~幸せぇ~」となっていられる訳だ。遺伝子操作でもデータ生命体化でもいい(それが人間といえるのかは知らないけど)。
もちろん、ベネターに言わせればこれでも反出生主義は崩れないだろう。なぜなら、苦痛を感じうる可能性(術後の異変、機械の故障など)が一片でも残っていれば、存在することは存在しないことに非対称性論証的に勝ることがないのだから。
ただ、少なくとも「生まれて来たくなかった」と嘆く人は一応、存在しなくなる。消し去るとも言えなくもないが。

この方向性をマイルド(というか現実的)にしたのが、現社会における「幸福な社会の実現」というものだ。誰もが幸福な社会になれば、自身の不幸感から反出生主義に迎合する人は少なくなる。
そして制度としての「安楽死」は、不幸な人間を消去するシステムと成り得る。まぁ、それで「誰もが幸福な社会」なんて宣うのは、国民幸福度一位かつ安楽死数一位という、ばりっばりの生存バイアスが働く歪な幸福社会ということになるのだけれどね。

⑤「生まれる価値」の付与
生まれることが当人にとって快苦及び利害の点で望ましくない選択であったとしても、そこに別の「生まれて良かった」と感じられる価値を定義すれば、誕生害悪論自体を否定する(誕生肯定論)ことができ、反出生へと繋がることもない。これは恐らく最良の対処法で、倫理を否定しない唯一の対処法であるように思える。
しかし、これは正直他のどの対処法よりも難しいと思う。何故なら、その「生まれる価値」を定義しようと試みるのは結局他人だからである。
そもそも何をもってして「快楽」「苦痛」「利益」「害悪」「幸福」「不幸」を判断しているのか(これはかのベネターへの批判ともなる)。倫理を語る上で、何より重要なのは個々人のクオリア、すなわち「私がどう感じるか」であろう。と私は思う。
であるからこそ、「生まれたくなかった」と嘆く当人に対して「いや生まれた価値があるんだよ」と励ますことはできても、「誕生肯定論に従えば君の論理は間違ってる!」と説教することはできない。誰かに「君は幸せだ」と言われて「自分は幸せだ」と思わなければいけないのだったら、それこそこの世が地獄であることの証左となってしまうのだから。幸せなのは義務ですか?

5.<まとめ>最善と最良

倫理は人類社会の「免疫」であり、その免疫によるアレルギー反応の一つが「反出生主義」。倫理と社会と反出生主義。この記事ではそんなことを考えてみた。

倫理的判断による人間がとるべき最善の道は反出生主義による絶滅。
しかしながらこれは社会にとっての最良の道といえるのか。
なぜわざわざ破滅の道を選ぶのか。

人間がとるべき最良の道は人類社会の存続。
しかしながらその為に個人を犠牲にするのは最善の道といえるのか。
そんな社会に意味はあるのか。

なんて思ったりもしたけど、これはあくまで社会という観点での話。
結局は個人の判断に委ねられるのだろう。

そんなぼかし方をして、この記事の終わりとします。
ご拝読ありがとうございました。

ハトの餌になります。