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地方に文化を育む土壌はあるのか? そこに住む人間に必要なのか?

去年末に続いて、ヨコスカアートセンターが催した企画を観てきた。

YouTubeでその様子は配信されていた。

去年のイベントレポは上記からお願いします。

演奏前に説明する越中氏と長谷部氏


音と映像が融合した空間を堪能する。
横須賀谷戸地区の迷路のような細く入り組んだ道を歩く映像を横目に、高音で不特定なリズムで流れるギターサウンドが混ざり合い、何気ない日常的な風景が、まるで異空間にでも紛れ込んだかのような錯覚にさえ陥らされる。不思議な空間と時間が生まれていた。

○アートを理解する難しさ

こういう作品やコンセプトというのは、企画者の意図を読んだり理解したり、更にはそこから自分の解釈も加えて自分なりの世界を展開させていくと面白くなるモノだ。その領域までくると、人の感性に触れること自体が面白くなってくるものである。だからこそ、この手の企画が発展していく様を眺めているのも面白い。

日常的に眺めている谷戸地区は、横須賀市民にとってはなんてことのない風景だった。確かに、平坦な地域や坂上でもバス通りやその付近に住んでいるような人にとっては、崖にへばりつくように建てられた家家が並ぶ谷戸地区の光景は少し異常には見えていたかもしれない。
しかし、(横須賀の)外の人が改めて注目して、こういう形で浮き上がらせ、新たな意味をそこに与えている、その存在を違った角度で見て示してくる様は非常に興味深い。風景が日常化してしまった横須賀市民では気がつかない視点を持ち込むからだ。


……訳なのだが

こういうことを面白がれるセンスが備わってる人はどれほどいるのだろうか?
という疑問が浮き上がってくる。

横須賀市では、ウォールアートや高校生の作品を美術館に展示したりなど、それなりにはアートを展開させてはいる。アートへの理解はありそうな雰囲気はある。

雰囲気は。

しかし、実際に市民のどれほどがそのアートへの理解を示せるのだろうか?
そもそも、企画を立てて動かしている市の人間にどれほどアートへの理解力があるのだろう?
問題はそれだけではない。
ウォールアートなどはまだ見た目への『分かりやすさ』がある。
綺麗、かわいい、カッコいい、などの要素は瞬時に目ためで判断はつく。もちろん、その背景に深い意味が込められ、その時代や作者の個人的状況も加味されていて見た目だけではない箇所も読み取らなければ理解したことにはならないのも分かるが、とりあえずはパッと見で判断ができる何かはある。

しかし、アートというのはそれだけではない。
件の通りに、その時代背景や個々の事情などが反映されて成り立っている作品もある。
キュビズムやシュルレアリスムなど、パッと見では理解が難しい作品もあるし、現代アートは益々難解さが足され、にわかな人では面白がることなど難しい。
しかし、パッと見では理解できない世界観を追求していくこともまたアートの楽しみ方である。分かりやすい表面的な良さで判断されていては、薄っぺらい作品ばかりが街中に並ぶことになり、その価値の薄さが地域住民の薄さを象徴することにもなり得る。

それでいいのだろうか?
そういう市民だらけになれば、アートだけでなく他の仕事や地域関連での活動も中身が薄っぺらく、魅力が薄まっていくのではなかろうか?
本質を読み取れるような外の人間からは、つまらない都市として認識されて、見向きもされなくなる。交流人口を求める昨今において、そんな状況はまずくないか?
そういう危惧が鳴り止まない。

○アートを楽しめる人が増えれば、より濃い空気が街を包むはずなのだが……

問題は、アートの意味合いを読める人、見た目だけではない箇所まで楽しめる人がどこまでいるのだろうか、という点だ。
また、そういう感性は、どうやって育てられるのだろうか?
美術的才能というのは、恐らく遺伝が大きく関わっているだろう。なので、秀でた芸術作品を作り上げられる能力は簡単には身につけられない。このセンスを多くの人間に求める方が無理がある。
では、そのアートを楽しめるセンスは育てられるのだろうか?
ここが疑問である。
もし育てられることが可能ならば、アートの感性を既に持った人が活発に横須賀のアートを楽しみ、外に発信してほしい。
情報が活発化し、横須賀内にもアートを楽しめるセンスが蔓延っているとなると、外のアート感性が鋭い人たちからも注目を浴び、魅力的な街だと思っていただけるだろうから。
しかし、アート的センスを養う条件が実は厳しいとなると、これら既存の活動もまた厳しくなってくる。なにせ、肝心の市民が全然楽しまない、楽しめないのだから。つまり、アート活動への関心が高まらないのだから。
そして、現状を客観的に見てみると、決して横須賀市民のアートへの関心は高いとは言えない。

○アートは地域活性に意味を成さないのか? そもそも、必要とされているのか?

そもそもの話をしよう。
そもそも、アートは日常に必要なのか?
アートは地域を活性化させるのに役立つのか?

これらの疑問は、恐らく多くの場所で頻繁に発生し、盛んに議論されているのだろう。
筆者としての答えは、日常に必要かと問われると答えに窮するが、活性化には必要だと断言する。
とはいえ、補足が必要になる。
直接活性化することはないだろう。

しかし、アートを楽しめる感性を持った人がより集まらないと、地域は活性しないだろう。

これが答えだ。
アートの意味を読み取ったり、アート的活動を日頃から楽しめるようにしていないと、面白みのない発想しかできなくなるだろうから。

アートを楽しめるということは、その作品の表面的な価値だけでなく、裏側をも読み取って面白がれる人だから。つまり、より人や地域で起きていることに深く興味を持てる人だし、既存のやり方だけではなくそこから飛躍した発想ができるだろうから。
もちろん、可能性の話ではあるが。

アート的センス、感性を備えていない人ばかりならば、それこそ真似事、エピゴーネンの企画や産物だけが並び、あまりにも魅力のなさに選ばれない街になるはずだ。

だからこそ、アートは地域活性化の役に立つと言える。

動画の最後に質問した方は、いかに経済的に貢献してくれるのか気にしてもいたようだが、そういう視点で見ると地域のアートは厳しいだろう。投資の対象となるアートとも意味合いは違ってくるし。
分かりやすい大衆エンタメに特化してやれば、一時的には人は集まるだろうが、それはアートの領域から外れてくる。そこは隔てて考えなければ。

アートから外れて経済的に考えるなら、エンタメの町として、という発想もありではあるが、真似事をやってもダメだ。
それこそ、ここに来なければ楽しめない独自のエンタメ色を出していかなければ。
そして、そういうオリジナリティにつながっていく感性こそが、アートなのではなかろうか。

○横須賀市民も、もっとアート的センスを鍛えなければ

以上の視点からしても、横須賀のような神奈川周囲の市町村と比べて注目度が低い地域こそ、アート的センスを鍛えて周囲の街にない魅力を送り出さなければならない。
そのためにも、ヨコスカアートセンターのような存在にはもっと注目が集まるようでなければ。
アート村の存在も、もっと広く横須賀の人口に膾炙していかなければ。

アート的センスは誰もが持ち得るものではないが、持ち得た者のセンスをより磨き発想での貢献をさせる上では、こういう活動は意味があるし大きいだろう。

さて、横須賀市民のアート的センスは今後上がっていくのだろうか?

支援いただけるとより幅広いイベントなどを見聞できます、何卒、宜しくお願い致します。