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オオカミの家 鑑賞 悪夢が流れ込んでくる

読者の方々は、チリという国に関してどれだけ知っているだろうか?
正直な話、筆者は何かイメージを上げろと命令されてもパッと浮かんでこなかった。せいぜい「南米にある」程度しか思いつかない。
それほどにイメージがなかった国である。
ましてや、チリ映画となると無言になるしかない。
しかし、今回ようやくほんの一部ではあるもののチリ映画に関して熱く語ることができるようになった。
そんな熱い気持ちを惹起してくれた作品が

オオカミの家

である。



たまにしかnoteで映画感想を書かない自分が、積極的に書きたい、この感情を言語化しておかないと、と思えた作品である。それほどに感情を良くも悪くも激しく揺さぶってきた作品である。



まずは上記のウキペディアを軽くでも目を通していただきたい。
『コロニア・ディグニダ』の存在が既知な博識ある方は省いていただいて結構です。

この作品は、上記のコロニア・ディグニダをモチーフとしたカルト集団のプロパガンダ映像という体裁をとった作品でもある。
コロニア・ディグニダは未成年を襲った元ナチの性犯罪者がチリに逃げて立ち上げたカルト集団、という説明だけでそのおぞましさがある程度推測できるだろう。
子供たちを産みの親から引き剥がしてコミニティの所有物とし、強制労働させていた点からしても異常だ。
そんな集団から森の中にある一軒の空き家へと逃亡したマリアという女の子の話……というか、悪夢的映像、それがこの作品である。
そう、これはマリアの見る悪夢を観客たちが強制的に体感する映画でもある。

映画のジャンルは『ストップモーション・アニメ』となっている。ホラージャンルにも属してるだろうが、あからさまな脅かし要素や誰かが惨殺されることはないのでオーソドックスなホラーとは全く違う。派手な流血シーンもない。
その代わりに、件の通りでマリアの悪夢を体感するような作品である。つまり、終始陰鬱で不安定であり流動的で落ち着かない作品だ。観ている者を本当に不安にさせる。(なので、精神が落ちている時は観ないほうがいいかもしれない)
ストーリー自体は特に追求するほどではない。しかし、その圧倒的な……そう、観ていてまさに飲み込まれるような圧倒的表現で襲いかかってくる。
まさに、オオカミのような獰猛な獣に追いかけられ追い詰められた草食動物のような気分。


映像だけではない。
その効果音もまた、不穏で不快で不安にさせる。音までもがどこまでも追いかけてくる何者かを表しているようで、常に不安定な状況であることを強調してくる。パンフレットの説明では、どうやら担当者の自宅にある物を鳴らしたり、息子が何かをする音を録ったり、と自然の音を巧みに盛り込んだようだ。

よくあるホラー映画の強烈な音で脅かすような演出はない。
しかし、それに勝るほどに音で恐怖を覆い被せてくる。

素材はノイズであり、ノイズは音楽である

そして、何よりも不気味なのは、ナレーション。
時折入ってくる、教団代表と思われる男の不気味に響く呼びかけ。

マ〜リ〜ア」

かわいいマリア いとしのマリア 逃れることなんてできないよ、マリア

「マ〜リ〜ア」という囁きが不気味に響き、その一言だけでマリアを追い詰めていく。マリアには聞こえているはずはないのだが、観ているものにとってはマリアとともに追い込まれた気分に陥る。むしろ、観客にとってははっきりとした声で聴こえているだけに、余計に精神を揺さぶってくる。

そこには、教団の人間などいないはず。
いるのは擬似的に作った豚二匹とのコミュニティだけのはず。
なのに、終始マリアは不安の波に激しく揺られている。


狂気に満ちたコミニティから逃れたはずなのに、マリアは逃れた先の空き家にいた豚二匹を取り込み、人型にして服を着せてまでそこでも擬似家族を作っていたのは面白い。お互いに脆弱な存在のはずなのに、無理矢理にでも家畜を家族に変換し、豚のような存在を愛着あるものとして扱う。
そう、結局はコミニティからは逃れられない。孤独は恐怖であり不安なのだ。それを打ち消すためにも、知能のない豚を使ってでもマリアは家族を求めてしまった。
人はどこかの集団に属さなければ生きられないのかもしれない。そんな宿命がマリアにも襲いかかり逃れることはできなかったのだろう。

マ〜リ〜ア」


さて、この作品、ストーリーとしては追求するほどではないと書いたが、では何を追求すべきなのだろうか。
そう、その圧倒的映像表現である。監督2人のプロフィールを確かめると、『ビジュアル・アーティスト』となっている。
まさにこの映画はビジュアル・アートでおり、その不穏さ、不安さ、不快さを流動的なビジュアルで表現していたのだ。
映像は場面暗転を挟まず、常に動き続ける。切り替えることなく、常に視聴者へおどろおどろしい世界観を脳内へと送りつけてくる。
特に壁に映り込んだマリアの顔が流れる様、壁いっぱいに広がる眼球はおぞましさを強調する。非現実的なさまがまさに悪夢のようで、映画館という閉鎖された限られた暗闇の空間で迫りだしてくるようなのだ。
この映画は、是非とも映画館で観てほしい。暗闇の中、おしゃべりもスマフォ閲覧も抑制され、極力画面に集中しなければならない環境の中で見せつけられる映像。まさに、カルト集団が見せつけてくる洗脳映像かのようだ。
こんな文章を書いてる筆者自身が、監督の洗脳を受けているのかもしれない。
そう思えてくるほどに、映像は観ている者を引き込んで虜にしていく。
もしくは、そのおぞましさから強く反発し、それこそマリアのように森の中に逃げ込みたくなる(視聴を強制終了したくなる)のかもしれない。
あまりにも魅力的で、あまりにも危険に満ちた映像だ。


ラストの秀逸性とどこまでも終わらない恐怖
(以下、ラスト場面の表現あり)


この映画は、件の通りにカルト集団のプロパガンダ映像という体を成している。冒頭でそう説明されるのだ。
しかし、作中ほとんどがマリアのシーンで埋め尽くされている。恐怖に満ちた世界から森の中に逃げ込んだマリアを描いているのだ。むしろ、ここまで錯乱させる教団に魅力を感じるというのだろうか?
どこがプロパガンダなのか? そう思えるかもしれない。
しかし、ラストを見ればわかる。
マリアは、結局オオカミと化したブタたちから逃れるようにして教団へと助けを求めてしまう。どこにも安息の地はないかのように。外側の世界はそんな絶望しかないことを示しているのだ。結局は、孤独と猜疑心に満ちた世界しか外にはないというのだ。
そして、教団だけがマリアを優しく包んであげられる。

マ〜リーア

聞こえるだろう、あの教団の優しさに満ちた呼びかけが。
マリアは教団の元に帰るべきなのだ。

それを示した教団のプロパガンダ映像。
分かっていただけだろうか?


おそろしい。
結局、教団に精神的にも取り込まれていて、そこでしか生きられなくなっている。
もはや、呪いと表現するしかない。

しかし、これは極端な例であるものの、ある程度は人間そのものを表現していないだろうか?
結局、人というのは何かしらのコミュニティに属して生活してなければならない生き物だと。
孤独に耐えられるかどうかなどという問題とは別だ。
もう何万年と人は集団生活を営んできたのだ。1人で森の中生きていくなんて難しい。それこそオオカミのターゲットになるだけである。
だからこそ、マリアは集団の中へと戻っていくしかなかったのではなかろうか。それは、知能のないブタではダメだったのだ。
カルト集団しか選択がなかったことは残酷としか言いようはないが。
実際、コロニア・ディグニダでも、助けを求めて外に出たところで、安息の地はなかったようだ。当時のチリ政府自体が、このカルト集団と結託していたのだから。まさに、国自体がオオカミが無数に蠢く、どこまでも深い森に覆われていたようなものなのだろう。
そういう意味では、当時をよく表現している作品とも言える。


あのアリアスター監督が魅了されたと宣伝文句にも使われているが、これは頷ける。
筆者も、また観にいきたい欲求を心のうちに燃やしている。Blu-rayが出れば買う。

当分は、オオカミの家から離れることはできないようだ。
『オオカミの家』というカルト集団に魅了されてしまったのかもしれない。

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