既製服問屋発祥の地1

「既製服問屋街発祥の地」

露店商が集まっていた神田川南側

★ジャンル【産業・経済】
★場所 千代田区岩本町3−11−16
★最寄駅 JR、東京メトロ秋葉原駅、都営地下鉄岩本町駅

★解説文
 「江戸幕府が開かれた慶長年間(1595〜1615)になると、神田川の工事が行われ川の南側に土手が築かれました。特に、駿河台東端から浅草橋までの土手は、太田道灌が江戸城の鬼門除けに柳を植えた逸話もあり、また8代将軍徳川吉宗の時に再び柳を植えたことから「柳原土手」と呼ばれました。
 この柳原土手に沿った地域は、江戸時代中ごろまでは大名・旗本らが居住する武家地や火除明地や籾蔵の設置場所などでした。その後、次第に商人や職人が住む町地となり、土手のそばには古着などを扱う簡素な露店が設けられ、江戸市中の古着マーケットの一つとなりました。
 明治6年(1873)になると土手は崩されますが、古着を扱う露店は引き続いて営業しました。さらに、明治14年(1881)には、現在の岩本町3丁目10番地及び神田岩本町1番地の一帯に、東京市内の古着商業者たちによって「岩本町古着市場」が開設され、東京の衣類産業の中心地となりました。
 大正12年(1923)9月の関東大震災では、この地区も甚大な被害を受けます。そして、震災復興の区画整理により、それまで営業していた露店は取り払われました。また、第一次世界大戦後になると、庶民の日常衣類として洋服が急速に普及し、需要の中心も古着から洋服に、特に廉価な既製服へと代わりました。そのため、この地区でも和服に代わり既製服を扱う店舗が増加し、「洋服」の町へと変貌していきました。
 戦時下には統制経済の影響も受けますが、戦後、特に昭和30年代になると東京の衣料業界も復興を遂げ、また技術革新も進み、この地区は洋服の一大生産地となり、全国のデパート専門店などのウインドーを彩るファッションの発信地となりました。」

★解説
 秋葉原駅東の昭和通りを南に行き、和泉橋を渡った左たもとの和泉橋南東児童遊園にあります。解説板中にある「岩本町3丁目10番地及び神田岩本町1番地」はさらに水天宮通りを南に進んだ左側の一角と、その右側、今ではほとんど昭和通りと首都高の下になってしまったあたりです。念のためですが「岩本町」と「神田岩本町」は別の住所です。岩本町は住居表示が実施された地域で、神田岩本町は旧岩本町の内、昭和通りができて分断された西の狭い地域です。明治になるまでは水天宮通りもなく、一体感の強い地域だったはずです。
 今からは想像がつきませんが、江戸時代から明治中ごろまでは綿織物は価格が高く、三井越後屋など呉服商で布を買って服を仕立てるのは上級武士か金持ち商人だけで、大部分の一般庶民は古着を着ていました。江戸時代に「服を買う」と言えば古着を買うことだったのです。
 古着は盗品が混じりやすいので、江戸の初期には、徳川家康が特別の許可を与えて鳶沢甚内という北条家遺臣の元大盗賊に扱わせました。その場所が岩本町にも近

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