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中央線建設でややこしくなった四ツ谷駅付近の区境

23区全区境踏破第2回

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さて、気晴らしが目的だったので家でウンウン考えていても仕方ありません。
まずは四ツ谷駅に向かいました。

四ツ谷駅はJRと東京メトロが通っています。
大きな駅ビル・アトレがある麹町口と四谷口の駅舎は、国道20号・甲州街道が走る四谷見附橋と、駅を挟んだ反対にある狭い橋とに挟まれています。
四谷見附橋は大正期の架橋で、明治までは甲州街道は狭い橋の方へクランクしていました。
ですからそちらの橋の方が古いのですが、今は古い方が「新」四谷見附橋と呼ばれています。

東京メトロの駅舎は四谷見附橋を挟んでかなり離れた赤坂口にあります。
麹町口・四谷口で「丸の内線はどこですか?」と尋ねる人が大勢います。

さてこの四ツ谷駅の住所ですが、JRは公式には「四谷一丁目無番地」としています。
住所は「ツ」が入らない。これまたややこしい。
メトロの方は駅の所在を「四谷1-1」としています。
駅ビル「アトレ」内はすべて「新宿区四谷1-5-25」で、ちょっと離れたどう見ても千代田区側にあるカフェも同じ住所とされています。

ということで駅舎はすっかり「新宿区」ということにされているようですが、区境上は違います。
千代田区と新宿区の地図によれば、区境はメトロ丸の内線の銀座方面ホームを斜めに横切って新宿方面ホームにかかり、そこからJR中央線沿いに向きを変え、駅ビルのど真ん中をぶった斬って進んでいます。
見た感じむしろ千代田区側が多いくらいです。

現代ではややこしい境界に見えますが、実は明治になるまでは明快な境でした。
すでに申し上げている通り、JRが走っている谷底のような場所は、江戸時代は江戸城の外堀で、水をまんまんとたたえていました。
その時代は水面の真ん中が境界です。

この谷のような場所に中央線(作った当時は甲武鉄道)を通してしまったので、こんなややこしいことになりました。
ではなんでこんなところに通したかというと、費用と工期の節約です。

鉄道の建設は軍事面での要請もあり当時は急務でした。
現在の多摩地区や山梨県方面に通じる鉄道は、八王子ー新宿間が開通し、都心への乗り入れを計画しました。
この際、甲州街道沿い(麹町や霞ヶ関を通る)を当初計画しました。
しかし江戸城外堀内はすでに市街地で、買収費や立ち退き・造成の手間が予想されました。
そこでやや遠回りにはなるものの、外堀の縁を通すことにしました。
これは
・国有地なので買収費がかからない
・堀は水面で平らで、建物もなく線路が通しやすい
のが利点でした。
このため今も中央線・総武線は外堀沿いに浅草橋まで通り、東京駅にはお茶の水から迂回して繋がることになりました。

さて駅の中はすべて新宿区で、ホームやコンコースにも何もしるしはありません。
ふーーー〜っむ。

仕方ないので先にご紹介した新四谷見附橋に行きます。
この橋の真ん中を区境が横切っているはずです。
駅コンコースを抜けて一旦麹町側に出て、千代田区側から渡ってみました。
すると、おおおお、区境が見えてきます!

左に黄色い「千代田区」の標識、右に「新宿区」の標識。新宿区の標識には矢印があり、「ここから新宿区」の意(?) バイクの前輪の前あたりで歩道の縁石が途切れており、ここが区境かと

駅近くにも関わらず交通量の少ないこの橋の上は違法駐輪が多いようです。
そのためあちこちに「駐輪禁止」の表示やコーンがあります。
その表示が、手前側は「千代田区」なのですが、ある点からパタっと「新宿区」になり、見事な境界ができています。
歩道にも縁石による境が作られているように見えます。
ガードレールの作りも違います。
「区境」と書いた線があるわけではないですが、見事に区同士の縄張りが可視化されています。
感動的です(笑)。

さらにその脇には「国史跡江戸城外堀跡」との新宿区の解説版が設置されていますが、仲良く「千代田区・港区・新宿区では」史跡保存活用を共同で推進している、とあります。

そうか良かった良かった。
きっちり区境を守りながら仲良く整備。素晴らしい!
ウンウン、とうなづきながら新宿側へと歩みを進めると、我が目を疑いました。
「なんじゃ〜こりゃあ!」
驚きの内容は次回。

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