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「講談社発祥の地」

「講談」本から始まった講談社

★ジャンル【企業】 
★場所 文京区千駄木3-1-9
★最寄駅 東京メトロ千代田線千駄木駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
「1909(明治42)年11月、青年・学生の弁論と精神修養のための雑誌「雄辯」発行を志した30歳の野間清治は、東京団子坂下の借家(旧・本郷区駒込坂下町48番地。現・文京区千駄木3丁目)の門柱に「大日本雄辯會」の看板をかかげた。講談社の創業である。創業時よりこの地にある伊予青石に刻まれた文字は、第6代社長・野間佐和子の揮毫による」

★解説
 千駄木駅を降りて地上に出て、不忍通りを一本西に入ったところに須藤公園という旧大名庭園跡の公園があり、その南側のマンション風の建物前にあります。この建物は実は今も講談社の社宅です。しかし細かく言うと、講談社の創業地はここではありません。それは同社の社史「物語 講談社の100年」にも書いてあります。
 実際の創業地は社宅前のT字路のうち北側の一本を入った路地の左手、北側あたりでした。ここに碑文にある野間清治(のま せいじ)が看板を掲げた借家がありました。その後事業が成功すると、野間は隣接する家屋を借り足して社屋を広げていきます。
 そして不忍通りが開通してかつての敷地が分断され、1917年に路面電車が開通すると、社屋正門を不忍通り側に変更します。碑が建っている社宅敷地は1931年に買収されますが、講談社自体が1934年に現在地の音羽に移転したため、創業からの場所である不忍通りに面した一角は売られ、昭和になって買い増した土地はその後社宅が建てられて講談社の手に残りました。ちなみに現在の講談社本館の建物はこの時に建てられた歴史的建造物が今も使われています。
 すると気になるのが、「創業時よりこの地にある伊予青石」という部分ですが、これはおそらく隣接する須藤公園の元となった実業家須藤吉左衛門の邸宅に置かれていたもののように思います。須藤公園は江戸時代は大名屋敷でしたが、さすがに伊予青石は持ってこないと思います。
 このあたりの経緯を知るには、講談社広報室にいろいろ調べていただいてご教示を受けました。ありがとうございました。
 創業者の野間清治は千葉県出身の両親のもと群馬県で生まれました。東京帝大を出て教師になりますが、その後帝大の書記官になります。講義録などを作るのが仕事でした。当時はテレビもラジオもなく、街中で行われる演説会が世論形成の場でした。
 帝大でも学生らが演説会を開きましたが多くは内部の者のみが聞けるもの

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