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「漢方医学復興之地」

明治末に「漢方医学」復権を説く

★ジャンル【産業】
★場所 中央区日本橋浜町2-9-1
★最寄駅 東京メトロ日比谷線、都営浅草線人形町駅、都営新宿線浜町駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
「和田啓十郎先生は漢方医学がまさに絶滅せんとしたとき この地において衣を薄うし食を粗にして得たる資金を以て明治四十三年 医界之鉄椎を自費出版し 漢方医学の復興に起ち上がった 今や漢方再興の機運に際会し 先生の旧趾に碑を建て その偉業を顕彰するものである」

★解説
 碑は浜町緑道内にあります。
 「復興」は発祥ではないだろう、という声も聞こえてきそうですが、一度滅びかけたものを再スタートさせたきっかけの地、ということで。
 明治政府は漢方医学を否定し、1874年の「医制」で、西洋医学を学んで医師免許を取得たもの以外は医師と名乗れないものとしました。1895年には漢方医の運動で漢方医も医師を名乗れる医師法改正案が議会に提出されますが、否決されます。
 その後漢方医学は急速に衰退していきますが、長野県松代町生まれの和田啓十郎(わだ けいじゅうろう)は西洋医学と同時に漢方も学ぶ道を歩みます。和田が漢方も志したのには、幼い頃の経験があると言います。西洋医学の医師が何年も治療して治らなかった患者が、漢方医の治療で見事に治ったのです。
 和田は1892年(明治25年)に済生学舎(日本医科大学の前身)に入学しますが、同時に漢方医にも入門します。そして1892年には御徒町に医院を開業します。その後一旦郷里近くに帰り、さらに日露戦争に軍医として従軍、1906年に東京に戻ってきます。その後1907年にこの近く、浜町に医院を移転します。そして研究を重ね、漢方医学の復権を説く「医界之鉄椎」を著しました。
 しかし当初は出版してくれる出版社がなく、生活を切り詰めて借金し、1910年(明治43年)に1000部を自費出版しますが、1916年(大正5年)に45歳の若さで亡くなりました。
 その後、弟子らが細々と漢方の伝統を継承して行きますが、戦後になってようやく日本東洋医学会が発足したり、漢方薬が保険適用を認められたりするようになってきました。日本東洋医学会の発足には、和田啓十郎の息子で

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