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「永坂更科発祥之地」

戦後に三つ巴の本家争い

★ジャンル【企業】
★場所 港区麻布永坂町13
★最寄駅 都営、東京メトロ麻布十番駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
「布屋太兵衛を商号とする祖先布商清助は、元禄年間江戸に郷里保科御大名の御好意で麻布十番近くの保科兵部少輔邸内の御長屋を借用晒布を行商、寛政元年八代目清右衛門は主君の薦めで麺舗に転業、代々布屋太兵衛を襲名す。郷里の地名の「更」と、保科家の「科」の一字を賜り「信州更科蕎麦処」永坂更科布屋太兵衛と名付け大方様の評判を頂く。保科家、増上寺に報恩奉仕しその推挙で将軍の御用を承る。増上寺修行僧の諸国遍歴は江戸噺として全国中に声価伝達。当地麻布永坂の三田稲荷の御加護を頂きここを根拠とし家歴百九十年を印す」

★解説
 麻布十番から飯倉に登る長い坂「永坂」の中ほど東側、「永坂更科布屋太兵衛」の本社入口にあります。「永坂更科」はいわゆる更科系そばの元祖で、「藪」「砂場」と並ぶ江戸の蕎麦屋の三代潮流の一つです。江戸時代にほぼこのあたりに店を開き、名店として賑わいました。では、今その地にあるこの「永坂更科 布屋太兵衛」がそのまま続いて来たかというとそうではありません。実はかなりドロドロしたいわれがあります。
 碑にあるように、更科そばは江戸時代に信州から出て来た布商人の子孫がそば屋に転職したのが始まりと言われています。その場所は高稲荷という社の下だったと言います。高稲荷は三田稲荷ともいい、永坂からさらに東の高台へ階段で登る、高いところにあった稲荷です。この名ににかけて、江戸の狂歌師・大田南畝(おおた なんぽ)は、「更科の蕎麥はよけれど高稲荷(高いなり) 森(盛り)を眺めて二度とこん(キツネの鳴き声)」と皮肉りました。更科の蕎麦は美味しいけれど、値が張るからもう来ない、と言っているわけです。実際、普通の蕎麦と比べかなり高かったようですが、江戸の名物ガイドにも、「それだけの価値はある」と書かれています。
 明治までは分店や支店を持ちませんでしたが、昭和の初めころには、東京

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