見出し画像

「近代的助産師活動と助産師教育発祥の地」

弱者救済に情熱を傾けた村松志保子

★ジャンル【学校】 
★場所 墨田区横網2-7-13
★最寄駅 JR、都営地下鉄大江戸線両国駅

これまでの23区発祥の地一覧

★解説文
「明治時代に女医から産婆(助産師)になり、明治・大正時代に博愛精神に基づき、助産活動をした先駆的助産師村松志保子は、安政三年(一八五六)生〜大正十一年(一九二二)没 明治十四年、この地に安生堂医院を開設、更に女性の地位向上のため、明治十五年、淑女館と安生堂産婆学校を設立し 新しい教養豊かな産婆(助産師)がこの地で育成された。志保子の博愛精神は、貧富の分け隔てなく当時の多くの母子を助け、その活動は、大正十二年九月一日の関東大震災まで、続けられた。ここに、「志保子の崇高な精神」「高邁な志」に基づく活動を末永く称えると共に、助産師自らが設立した助産師教育と博愛的助産師活動発祥の地に、将来にわたり全世界の全ての母子とその家族の健康と幸福を願い、更に世界平和の実現への助産師の祈りの発信基地となることを記念して」

★解説
 両国駅から隅田川沿いの国技館通りを北上していくと、老人保健施設「ろうけん隅田秋光園」があり、その角に設置されています。解説板の表題は、さらに前段に「村松志保子の自律的・博愛的」とあるのですが、あまりに長いので表題のようにしました。
 村松志保子は現在の群馬県にあった沼田藩藩医の娘として江戸で生まれましたが、男兄弟3人が相次いで亡くなったため、自身が父から学んで女医になることを志します。明治になり、妹が産褥熱で亡くなったことをきっかけに近代的な助産の必要性を痛感し、日本医科大の前身である済生学舎で西洋医学を学びます。
 卒業後の1881年に解説文にもある医院を開設しますが、通常の医師ではなく、当時の名称でいうところの産婆として活動します。この医院の場所は、旧主であった沼田藩土岐家が維新後に住んだ邸宅跡で、村松家が長年仕えてくれたことへの礼に与えられたものでした。
 翌年には女学校の淑女館と産婆学校を設立し西洋医学に基づいた近代的な助産師(当時は産婆)が数多く育成されました。村松は解説文にもあるように貧しい妊婦への無料入院を認めたり博愛精神に飛んだものだったようです。現在もこの解説文を設置した村松志保子助産師顕彰会が存在するなど、助産師界では偉大な存在のようです。
 お産を助ける助産師は世界各地に古来からあり、日本でも「取上婆」「子安婆」などと呼ばれ、お産に駆け付ける際は大名行列を横切っても良い、などの特別な待遇もありました。維新ごろには「産婆」の名が定着しますが、

これより有料です。以下には記事全文のほか、写真、地図、関連情報リンクなどがあります。ご購入いただく場合、この記事だけで100円お支払いいただくより、マガジン「東京23区発祥の地めぐり」全体を500円でお買い上げいただく方がお得かと思います。最終的に数百本近い記事をご覧になることができます。よろしくお願いします。

ここから先は

690字 / 3画像
この記事のみ ¥ 100

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?