「煉瓦銀座之碑」「煉瓦とガス燈」(銀座商店街の発祥)
煉瓦街ができて、銀座の発展が約束された
★ジャンル【産業】
★場所 中央区銀座1-2-1
★最寄駅 東京メトロ銀座線京橋駅
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★碑文
「明治五年二月二十六日(皇紀二五三二年 西暦一八七二年)銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸數四千戸と称せらる 東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企劃建策し政府は國費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築完成す 煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり」(煉瓦銀座之碑)
「明治初期我が国文明開化のシンボルとして、 銀座には煉瓦建築がなされ、 街路照明は、ガス燈が用いられた。床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時の ままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は、 明治七年の実物を使用、燈具は忠実に復元。」(煉瓦とガス燈)
★解説
「日本一の商店街」と言えば、多くの人が「銀座」と答えるでしょう。でも江戸時代の一番の繁華街はどこだったでしょうか?と聞けば、歴史に詳しくなくても「日本橋じゃない?」と思いますよね。その通りです。ではどこで銀座と日本橋の地位が入れ替わったのでしょう? そのきっかけがこの碑に書かれています。
1872年4月3日(2月26日は旧暦)、現在の皇居外苑内和田倉噴水公園あたりにあった兵部省の建物から火が出て、折からの北西の風に煽られて燃え広がります。火は日比谷堀を越え、外堀を越え、銀座の街に襲いかかりました。さらに当時銀座の東にあった三十間堀を越えた火は、築地から隅田川にまで達して鎮火しました。この火事で95万平方メートルが焼失し、現在の銀座のあたりはほぼ焼け野原となりました。
これを好機と捉えた人物たちが当時の政府の中にいました。明治維新後まもない新政府が躍起になったのは、いかにして欧米列強に追いつくか、そして馬鹿にされずに対等の付き合いができるかでした。木と紙でできた日本の都市は貧相で燃えやすく、これを機に欧米のような近代都市を首都東京のど真ん中に作ろうとしたのです。
火事直後に再建を禁止し、焼失地は政府が買い上げて煉瓦街を造る、との
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