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「民営機械製粉業発祥の地」(ニップン=旧日本製粉創業の地)

水車から蒸気機関へ、消費拡大で飛躍

★ジャンル【産業】【企業】
★場所 江東区扇橋1-20-1
★最寄駅 東京メトロ、都営地下鉄住吉駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
 「明治12(1879)年、明治を代表する実業家雨宮敬次郎は、水運の便のよい小名木川に着目して、この地にそれまでの水車動力に代わる蒸気機関を動力源とした、民営では最初の近代機械製粉所「泰晴社(たいせいしゃ)」を創設しました。 欧米を視察して製粉事業の将来性を確信した雨宮は、蒸気機関のほか石臼製粉器、篩器(ふるいき)などの製粉装置を米国から輸入して製粉事業の経営に成功をおさめました。 雨宮の製粉事業は東京製粉合資会社に受け継がれ、明治29年に日本製粉株式会社に改組されました。また、小名木川沿岸には明治30年代に製粉会社が次々と設立され、全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。こうして泰晴社は、小名木川沿岸にさまざまな近代的工場が進出してくるさきがけともなったのです。 なお、明治初期の機械製粉所には、開拓使により札幌に設立された磨粉機械所(明治9年)、大蔵省による浅草蔵前の製粉所(同12年)の二つがありましたが、これらの官営製粉所はともに日本製粉株式会社がその事業を継承しました」

★解説
 大横川と小名木川が十字に交わる近く、大門通りの新扇橋の南西袂にあります。住吉駅から歩いて10分ほどですが、菊川駅、清澄白河駅から歩いてもたいして変わりません。
 日本人は米ばかり食べていたと思われがちですが、そんなことはありません。納税物でありお金の代わりでもあった米は貴重で、江戸時代以前は多くの人が麦や雑穀を主食にしていました。そして江戸時代にはそば・うどんの流行で、小麦を粉にする利用法が広まります。特に大消費地江戸に近く、水田に適さない台地が多かった武蔵野や関東西部では小麦作りが盛んで、それに伴って製粉業も盛んでした。
 江戸時代の製粉法は主に水車でした。神田川など、中小河川に水車を設け、その動力で粉を挽きました。江戸時代の需要を賄うにははこの程度で十分でした。
 では明治になって蒸気機関を導入するほど、何が変わったのでしょうか? 一つにはパン食の始まりです。明治維新後に居住するようになった外国人や、西洋文化に憧れてパン食を始める人たちが現れたのです。そしてより大きかったのが軍需です。
 煮炊きをしないと食べられない米と違い、パンはそのまま食べられました。このため軍は、西南戦争などを契機に戦場食、携行食としてのパンや乾パンを大量に導入しました。
 創業者の雨宮敬次郎(あめのみや けいじろう)は山梨県の出身で、当時

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